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生きていれば良いこと/楽しいこともある。だから何?という話。

もし周りに自殺を仄めかしたり、そういった願望を口にするような友人がいたら、あなたは彼らになんと言葉をかけるだろうか?

頑張れ、諦めるなと励ます、気持ちはわかるよと共感する、そんなことを言うなと叱る、向き合っている問題について詳しく聞く、専門家への相談を促すなどなど色々選択肢はあるだろう。

恐らくケースによっては逆効果な言葉もあるだろうし、もちろん相手の心を楽にしてくれるような魔法の言葉もその人との信頼関係などに応じてあるかもしれない。

実際に何年か前僕はそういった言葉をかけられる側の立場だった。

程度の差こそあれ、基本的には人に対して"お前なんて死んでしまっても別に構わないよ"という人はほとんどいないというか、まあいたとしてもそれを表立って口にする人はそういないと思うので、基本的には何らかの善意に基づいた言葉が飛んでくるのだろうとは思う。

したがって、これらの言葉に関してあまりとやかく言うのも申し訳ないし、もちろんケースバイケースなので、鬱状態にある人にこの言葉は響かない!と十把一絡げに主張したいわけではないのだけれど、僕の個人的な経験のうちで、一番自分が抱いていた感情と乖離していたと感じた言葉の話をしようと思う。

生きていればいいことがある。だから何?

それは

『生きていればいいことある
人生まだまだこれから楽しいこともある』

というやつだ。

これと同じようなタイプの言葉と、当時僕が抱いていた感情とでは2つの点で根本的なずれというか、そもそもの前提の部分での埋めがたい認識の違いがあるように感じていた。

①楽しさは外の世界と受け取り手(=自分)の共同作業

まず第一に、そもそも"楽しさ"とか"よいこと"というのは結局受け手(=自分)の感情次第、ということだ。

当時の僕もそうだったし、鬱状態だと、今までは楽しいと思っていたことも楽しいと感じられなくなるというのは比較的よくあるケースなのではないかと思う。

こうなってくると、いわゆる世間一般の価値観でいう所の"よいこと"や"楽しいこと"に分類される出来事があったとしたって、まったく楽しくはないし、幸せに感じられない。

僕はもう一生楽しい気持ちになどなれないのではないか、何年間かに渡ってずっと感じていたが、それは別にこれから毎日家を出るたびに躓いて転び、鳥の糞を落とされ、交通事故にあった末に町の人や家族友人皆から嫌われて冷たくされるのではないか、みたいに思っていたわけでは別にない。

そうではなくて、どんなに楽しいはずの出来事が起きても、感情の受け手である自分側の問題で、何が起きたとしても今後もう楽しく感じたりはできないのではないか、という事を恐れていたのだ。

例えていうのであれば、絶対に外せない灰色の色眼鏡を装着しているような状態で、僕だってこの世界が本当はとてもカラフルであることはわかっていた。

実際にはこの世界には"良いこと"や"楽しいこと"が山ほど存在していることなど重々承知だった。

だが、この灰色の眼鏡が外れない以上、もう一生世界は灰色のままなのだと絶望していた。

もちろん傍から見ると、『いやいや、その灰色の眼鏡はいつか外せるから、とりあえず一緒にこれから外す方法を探していこう!』という事になるのだろうが、ただ、現実にはこの眼鏡は目には見えないのでなかなかそういう風に考えるのは難しい。

そういった眼鏡をかけていることなど忘れがち、というか鬱というのは血液検査などで診断が出るわけではないので、現在の世界の見え方がいわゆる病気という者にカテゴライズされるのか、それとも自分は単に生まれつきそういう人間なのか、などは100%わからない。

一旦慣れてしまうと灰色になる前の世界のことなど思い出せないし、頭ではどうやらこれは自分のものの見方に問題があるのかもしれないぞ、と薄々わかっていても毎日世界が灰色に見えれば結局世界自体が灰色なのだ、とどうしても思えてしまうものだ。

そしてそれが何年もずっと続けば、きっとこれはこのまま変わらないに違いない、と考えてしまう。だからこそもうこんな世界にこれ以上生きていたって仕方ないや、となるわけだ。

②楽しいことがあったって死にたい

第二に、こちらの方がより深刻なずれのように思えたのだが、僕はそもそも"楽しい/幸せな人生"を求めていなかった。

つまりどういうことかというと、楽しいことがあったって死にたいのだ。

僕に言わせれば、"人生において楽しいことが多くある"ことと"死にたい"ことの間には特に何ら矛盾はない。

これが上手く伝わるか自信が持てないのだけれど、僕の中で人生を生きるというのは灼熱の砂漠を彷徨うようなものだ。

もちろんきちんと対策をすれば多くの人が砂漠でも生きていけるし、時々は体を休められるようなオアシスや、もしかしたらその中に町まであるかもしれない。

だが僕は、そもそもこの砂漠を歩きたくはないのだ。自分で決意してここに来た記憶もないし、気づけばいきなり放り出されていただけだ。

今はもちろんだし、絶望の淵に沈むような鬱状態だった時でさえも、時折は調子が良い日もあって、人と話したり、かつての趣味など、少しくらい楽しいと思える時間もあった。

だがそれはあくまで気を逸らしてくれるもの、気晴らしであって、全く根本的な解決にはならないと思った。何故たったこれだけのことのために毎日生きていかなくてはならないのだ、と思っていた。

砂漠で喉が渇いた時に飲む水は非常に美味しいだろうし、オアシスで休む時間は至福のように感じるだろう。

だが、砂漠で飲む水が美味しいから砂漠に出かける、という人はいないはずだ。オアシスはあくまで砂漠での生活を楽にしてくれるだけであって、それが目的にはならない。

僕はただ砂漠からでて生きたかったし、砂漠で見つかるものの中に楽しいことが山のようにあったとしても、別にそんなものは求めてはいなかった。

もちろん人生を生きるうえで見つかるそういった数々の楽しさこそが生きることの醍醐味であり、それで十分に目的になるではないか!と思う人も多くいるのだろう。

それを否定するつもりはないし、そういった人に対しては『僕にはそうは思えないんです、価値観が違いますね。』とでもしかいう他ない。

『生きる上では辛いこともあれば楽しいこともある。当然ではないか。楽しいこともあるとわかっているのならなぜそんなに死にたいのだ』と問われれば『そういわれても・・・では何故そんなに生きたいのですか?』と質問で返すくらいしか答えようがない。

どれくらい共感を得られるかはわからないが、僕や一部の人にとっては『楽しいことや良いこと、幸せに思う事はある。でもそれを理由に生きていたいとは思わない』というのは十分成立する理屈なのだ。

だからこそ、『生きていればいいことがある、人生には楽しいことがある』と言われても、なぜそれが『あなたは死なず、生きているべきだ』という主張に繋がるのか心の底からは理解できなかったのだと思う。

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