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札幌立ち食い蕎麦の揺るぎない存在意義。

「ひのでそば」2020年12月12日(土)

立ちながら食するというスタイル。
それは新しいようでいて江戸時代から連綿と引き継がれ、その場凌ぎのようでいて普遍的に都度都度求めてしまう。
北国も冬の入口を迎えれば、殊更に恋しくなるものだ。

土曜日であった。
所用によって午前を奪われた。
身震いするほどの外の風は、否応もなく寂しげに体温を奪った。
その寒さは地下歩行空間へと導く。
少なからず冬の札幌都心部が人を地下へと惹きつけるのは、この街に住まう者にとって必然と思うほど、恋しいほどの熱はなくても、はかない温もりに包まれる。

大通駅からすすきの駅へと繋がるポールタウンに入れば、その温もりは容易いまでに上がるはずなのに、それを感じさせないほどの人の密度であった。
ポールタウンに足を踏み入れようとした時、何かが脳裏をかすめた。
寒さから? きっと寒さから?
そういった自己への弁論は、けだし空腹という理由を織り交ぜた怠惰な理由からその店へと誘う。
大通駅に隣接した立ち食い蕎麦店は、10名も満たないカウンターながら、老若男女問わず常ながら大勢の客が押し寄せ、カウンターから溢れ出てまで丼から蕎麦を啜り上げる姿を見かけるのに、この時勢はそれを許さなかった。
齢の広範な女性スタッフばかりの1名に、この店で最も高額な「天玉そば」を伝えた。
高額とはいえ、ワンコインでお釣りが手元に届くと、
揺るぎない笑顔ですかさずカウンターに「天玉そば」が置かれた。
札幌ラーメンの存在同様、この店の蕎麦は札幌蕎麦という存在そのものだ。
濃厚な褐色の汁に天ぷらと生卵が漂う。
むしろ褐色というよりも漆黒と言ってもよい。
闇夜に浮かぶ満月と大きな雲。
麺は、印象派の画家が描く夜に流れる風のようだ。
安堵が啜る汁とともに訪れ、麺が腹の落ち着きを取り戻してゆく。
古代ギリシア哲学のエプクロス派的に言えば、刹那であれ満たされることが人間の本質でもあるならば、そこに幸福がある。
ほんの数分の幸福。
立ち食い蕎麦とは、究極のその場凌ぎの幸福の追求でもあるのだ。
すべてを食べ干すと、ほんのりと汗を感じた。
ポールタウンを避けて、地上の冷たい風を求めて階段を駆け上がった…

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