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【人生最期の食事を求めて】仙台牛タンの源流を辿る。(仙台牛タンを求めて編3)

2023年6月25日(日)
「味太助本店」(宮城県仙台市)

曇りかと思えば小雨が降り、かと思えば強い日差しが肌を突き刺す。
目まぐるしく変貌する雲行きに身を任せるように、私は夕闇の過ぎ去る名掛丁へ向かった。

仙台最終日というだけで、私の食欲は果てしなく仙台名物を欲していた。
麻婆焼きそばやラーメンというランクではなく、鰹や牡蠣のようなこの地の食の奥義に触れることこそ最終日にふさわしい。

日曜日のアーケードは計り知れないほど殷賑で、これまでの鬱憤を晴らすように若者たちが屈託のない笑顔を浮かべながら次々と通り過ぎてゆく。
「利久」や「司」といった牛タンの有名店は言うまでもなく、アーケードに面した店はどこも混雑しているのは必至だった。
どこか心の奥底の地を這い上がるように、私の足は国分町へと向かって行った。
たとえ日曜日であろうと、そこに行けば何かを掴むことができるのではないか?
そんな期待に支配されたのだった。
と言っても、仕事で疲労した体には国分町は遠く感じられる。

待ち合わせ場所のメッカでもあるディズニーストアまで辿り着くと、見るからに客引きとわかる若者が立ち尽くしている。
素朴な疑問として、客引きたちはなぜ皆一様に没個性なのであろうか?
ブランドロゴを配したTシャツにスキニーなスウェットパンツ、サンダルや白いスニーカー、そしてきらびやかなピアス。
まるで自ら客引きであることを主張するために、客引きという制服を自ら課しているようだ。
そうしなければならない理由は何だろう?
それはユニフォームなのか?
それとも同調圧力なのか?
ともあれ、彼らのターゲットは学生風の若い女性ばかりで、あたかも待ち合わせでもしていたかのように何の躊躇もなく声を掛けまくっている。
そんな度胸があるならば、もっと別の道でその力を発揮すべきなのに……
案の定、私には声掛けされる雰囲気を持っておらず、私自身も声を掛けられるものならかけてみよ、といった様相で通り過ぎた。

国分町の目抜き通りを目前に路地に入った。
日曜日ゆえにどの店も暗く暖簾もかかっていなかった。
疲労感は次第に意思を削いでゆく。
白い暖簾が揺らいでいるのが見え、店内の穏やかな灯りが見え隠れした店の前で足が止まった。
「味太助本店」だった。
この店に訪れたのは何年前になるだろう?
20時を越えていたが静々と扉を開いた。
意想外なことにL字型のカウンター席は若い女性に支配されていて、奥のテーブル席からは中国語が響き渡っていた。

味太助本店

「おひとり様ですか? 奥のカウンターにどうぞ」
おそらくこの店の後継者であろうか?
男性スタッフとアルバイトらしい若い女性スタッフが、注文に応じて歩き回っていた。
私の牛タンの探求心のようなものが突如として再び刺激されたことは間違いなかった。
しばらく食べる機会、否、もう食べる機会すらないのかもしれない。
そんな心境だからこそ、食べられるうちに食べようという意思は確かに芽生えたようだ。

この店はさすが牛タン焼の本家本元だけあって、牛タン焼や定食以外にこれと言ったメニューはない。
それゆえに躊躇や迷走はありえない。
生ビールと「牛たん焼」(1,600円」を口ずさむとすぐさま生ビールが届き、寡黙な大将が真紅の肉を網に載せ始める。その隣で奥さんらしき女将が皿に漬物と味噌南蛮を載せていた。
仄かに青白い煙がたゆたうものの、匂いはさほど強くなく、薄く着られた肉が見る見る茶褐色を纏っていった。
寡黙な大将はすかさず焼き上がった肉を皿に載せ、無言のままにカウンター席の前に置いた。
それほど待つこともなかったというのに、一枚目の牛タンを箸を伸ばす頃には生ビールはすでに3分の1程度しか残っていなかった。
思いのままに頬張ると柔和で艷やかな肉は私の口中で寡黙に躍動を続ける。
「司」や「善治郎」といった新興勢力は確かに絶品の領域だが、重要なことは牛タン焼き発祥の店で味わうということである。

寡黙な大将と積み重なった牛タンが目前に
至ってシンプルなメニュー

キャリーケースを傍らに置いた隣の女性客もその奥の女性客も「牛たん焼き定食」を食していた。
それはそれで理解できるのだが、仕事を終えた日曜日の夜こそ独りで牛タンの発祥と向き合いながら酒を飲む贅はこの上ない。

思わず生ビールと「牛たん焼き」を追加した。
やがて女性客が一斉に店を後にすると、どこか寂しげな雰囲気とスタッフ同士の仲睦まじい会話が始まっていた。
それでも大将は無言を貫いたまま堆く積まれた肉に布を掛け、腕を組んでじっとテレビを観ていた。

一度食べると回転寿司のように追加注文してしまう

またひとり、客が入ってきた。
英語を駆使したその男は東洋人であることは一目瞭然だったが、中国なのか韓国なのか、それともシンガポールかマレーシアなのかは判然としない。
ゆっくりと座ると、「牛たん焼き定食」を辿々しく注文してはスマートフォンを握りしめたままだった。

無口な大将は何も言わずに白い布を取り払い再び肉を網の上に置いた。
シューともジューとも聞こえる音、肉の赤身が茶褐色に変貌するその姿。
私は黙ったまま音と視覚に訴えてくるその様に3杯目の生ビールを注文し、2枚目の皿を空にして「牛たん焼き、おかわりください」と言い放った。

至ってシンプルなのに、どうしてこれほどまでに惹きつけられるのだろう?
自問自答したところで、答えなどありはしない。
もはやもう食べる機会は訪れない、という前提の元に悔いのないように食べることしかなく、ご飯なしで牛タンだけで満足するという究極を選んだと言って良いだろう。

最後の生ビールとともに、「テールスープ」で締め括ることにした。
ネギの風味とスープのコクがまろやかに絡み合う中で、スープの下に沈む肉の塊を口内に滑り込ませると、それは噛むまでもないほどに柔らかく崩れ、私の中で溶けて消えてゆくようだ。

テールスープだけでも酒は進む

もう腹の中には何も入る余地はない。
が、食欲は束の間満たされても牛タンの探求はやがて再び訪れるであろう。

私は満足感を得たまま仙台駅の方角を再び目指した。
22時に近づいていた。
アーケード内は依然として客引きや若者の姿が途絶えることはなかった。
ビルの谷間から見える夜空から雲が消え、身を欠いた月の姿が見え隠れしていた。
その姿はどことなく微笑んでいるように見えた……

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