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「眠り展」@東京国立近代

 1月は私用でまるで美術館に行けなかったが、諸々片付いたので会期ギリギリの展覧会に駆け込み続けている。東京国立近代美術館の「眠り展」もずっと気になっていたがようやく行くことが出来た。

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 「眠り展」は国内に6館ある国立美術館の合同展。過去にはアートの中の「陰と影」に着目した「陰翳礼讃」(2010)、美術館そのものをテーマにした「No Museum, No Life?―これからの美術館事典」(2015)が開催されており、今回は3度目。自分は前回の「美術館事典」を見に行って、工夫の凝らされた展示構成、そして特色が異なる6館の合同展ならではの多彩な展示品の数々で、かなり楽しい展覧会だった記憶もあり、5年ぶりの今回の「眠り展」も期待していた。

 今回の合同展のテーマは「眠り」。そもそも「眠る」とは何なのか?と思考を巡らせれば色々な考えに行き着く。
 そもそも眠る時には目を閉じるが、それは視覚芸術である美術にとってみれば結構大ごとだ。画中の人物の視線は西洋美術ではその向く方向への鑑賞者の視線の誘導としても使われ、観る我々の方を向けば絵画の内側への誘導であったり、観る者への挑発ともなる。しかし目を瞑れば途端、画中の人物は見られる対象でしかなくなる。眠る人物は「見られる対象」の一つの描かれ方だった。
 しかしながら近現代において「眠り」の絵画はより様々な諸相を見せる。
 眠ると人は夢を見る。夢とは無意識の産物で、シュルレアリスムではその中で生まれるイメージに新たな表現を見出した。
 また夢を見るときには、人は現実から離れる。ある時は理想へと赴き、またある時は過去へと赴く。いずれにせよ、人は夢を見るときに自分自身と向き合うのだ。さらに言えば目を瞑るだけでも自分との対話ができる。
 現実から離れるという意味では、「眠り」は人々の意識や感覚にも使う言葉だ。「目覚め」が現実や状況に気付くことなら、現実に気づかぬ人々は眠っているのだ。
 眠る時、人は無防備で、非活動的だ。眠る事は生きることのうちで最も実態的に「死」に近づく瞬間と言えるかもしれない。眠る事を小さな死と捉えた小林孝亘、眠りから目覚めたことを生存証明として使った河原温など、眠りと死を結びつける表現も多い。

…とまぁ挙げ出したらキリがない。今回の展示はそうした連想ゲームとでも言えるような形で「眠る」ことを分析していく。
 アーティストはそれぞれのなかで眠りの諸相を見出して表現に用いている。展示の多彩さは今回も流石。国立西洋のゴヤの版画に導かれながら進んでゆくが、映像・彫刻・絵画・写真などジャンルも様々に国内外、時代も超えたラインナップが続く。普段なら続けて見ないような展示に、思考への刺激がバシバシ飛んでくる。

 更に今回は、そうした展示内容を支える展示構成が特に素晴らしかったように思える。
 東京国立近代美術館の企画展ギャラリーは、入って正面奥の広い部屋と右手エレベーターの前にある狭めの部屋、そしてそれをつなぐ細い通路から成る。それぞれの部屋にはそれぞれ出入口があり、どちらから入るかは展覧会によって決められている。
 眠り展は狭めの部屋からはじまる。第1章では主に近代までの西洋美術と、「闇」とそれを頑丈に閉じる鉄の箱からなる"dark box"が展示される。整然と作品が並ぶ、美術館らしい雰囲気の部屋だが、キャプションの文字は細めのフォントで統一、そのボードの角も丸められていてどこか曖昧な雰囲気が醸し出されている。

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(左:「眠り展」、右: 常設展示=いつもの東京国立近代美のキャプション)


そこから通路へ入ると照明は一段と暗くなり、壁にはカーテンが出現して角ばった場所はどんどん少なくなる。進むごとに曖昧さを増す展示構成はまるで、まどろみから眠りへと落ちるときのよう。

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 そして広い部屋へと辿り着くと、饒加恩(ジャオ・チアエン)による映像展示が待っている。映像のために一段と落とされた明かりはまさに夢の中へとたどり着いた事を示すようだ。

 ここからのセクションは上述の通り、「眠り」の諸相をめぐる内容となる。連想ゲームのように変わるテーマは、筋書きのない展開をする夢の構造のようでもある。
 また今回の展示構成では環境への配慮として、前回展覧会の「ピーター・ドイグ」展の際の壁面を大部分で活用している。ドイグ展は「眠り展」とは反対の動線、つまり広めの部屋から狭めの部屋へと進む構成だった。同じ壁面の部屋なのに異なる展示、反対の動線は、ドイグ展にも行った自分にとっては、まるでどこかで見たことのある景色なのに異なる雰囲気、過去の出来事の夢を見ているかのような気分にもなる。

 多彩さをもって進む展示だが、最後のセクションに向かうほどに眠りからの「目覚め」が予期される。目覚めることが小さな死からの回帰として、生きていること、存在証明として用いられる河原温の作品を見ると出口は間近だ。
 最後は、ゴヤを除けば序章以来の古典的西洋美術であるシャヴァンヌの『貧しき漁夫』、そして金明淑による、頭部のみが大きく描かれた『ミョボン』で締められる。目覚めとして展覧会はここで終わる。


…あ、二度寝ですか?それはご自由に。最後のセクションの横は上述の映像展示で、そこへのカーテンははっきりと開けられている。もう一度夢の世界へと戻ることも簡単だ。

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 今回の展示は、展示室の設計デザインをトラフ建築設計事務所が、グラフィックデザインを平野篤史氏(AFFORDANCE)が手がけたという。不安定な感じを醸し出した文字デザインは少々見づらさが勝る時もあった(特に照明が暗い時はキツイ)が、巧みな構成にはあっぱれと言いたいところだ。
 展覧会は23日(火・祝)までと、会期わずかだが、展示構成は360度カメラの映像で見ることができる。東京国立近代美がドイグ展の際に導入したものだが、遠方で行けない、またはコロナで外出を控えたい方にとっては、今回のような凝った展示構成を十分感じれるものとしてオススメだ。


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 なお常設展示での特集展示「男性彫刻」も同じく23日(火・祝)まで。一言で「男性彫刻」といっても、力強い肉体、老人の姿、肖像彫刻など様々。多彩な東京国立近代美のコレクションを見ることができる。
 そのほかの常設展示では、藤田嗣治の『猫』が修復完了してすぐの展示。魅力的な表情と躍動感は見ていて飽きることなしの『猫』は必見だ。

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いつ見ても左端の猫の表情に痺れてしまう。


2021. 02. 20

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《眠り展:アートと生きること ゴヤ、ルーベンスから塩田千春まで》
 東京国立近代美術館(地下鉄 竹橋駅から徒歩3分)

 会期:~2月23日(火・祝)
 休館:月曜日
 時間:10:00〜17:00
 入場料: 一般 1,200円
      大学生 600円(キャンパスメンバーズ加盟校学生は無料)


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