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【腸閉塞からの】備忘録#2 転院入院緊急手術

転院先は救急搬送されたC病院のすぐ近くのK病院で、救急車に乗っていたのはほんの数分だった。
救急入口から運ばれもう半日以上続いている痛みでのたうち回っている中、一緒に来てくれたC病院の当直医はK病院の医師らに私の状態についての説明をして去り(診療情報提供書には「絞扼性腸閉塞疑い」との記載)、その後、「すぐに手術になる」とそこにいた数人の医師の誰かに告げられた。
手術が確定してる患者として運ばれたその場所は、ただの救急の処置室とは違う様にも思えた。
痛みに縮こまってる状態でも、手術のための10枚近くの同意書やら必要書類にサインや記入をせねばならず、ギリギリ読めるだろうミミズ文字を這わせることになった。どれだけ痛みが酷い状態でも起き上がれなくてもサインをさせられサインせねばならんとゆー、これは一体どんな罰なのだろうか、と思いながらひたすらサインをしていた。
手術に当たってまぁ当たり前に「身内の連絡先が必要だ」と言われたが、母は少し離れたところに住んでおり病中でもあるし年齢的にも能力的にも判断を任せることに不安があり、「身内は厳しい、どうしても身内でないとダメなのか」と確認すると身内でなくても良いと承諾を得て、友人Tの記載とさせていただくことにした(事後承諾にはなったがほんの少しの時差で承諾をくれた友人Tには感謝しかない)。
ただ本当に何かが起こった時は友人(他人だから)ではダメらしいけれど、身内でさえあればそのひとの判断力がゼロでも本人との関係性がゼロでもOKというのはルールとしてむしろ問題ではないのだろうか。これに関しては、この瞬間も今も考えは同じである。
状況が状況だけに母への連絡をすべきだとは思い少し迷いもしたが、連絡をして病院に来て貰ったとしても母にやって貰うことは何もない上に母がここに来ることで私の負荷が増えるだけだと気付いてしまい、身内への連絡については首を横に振り続けた。
今自分がK病院のどこにいるのかも分からず、医師に場所を訊き友人Tに現況含めて連絡をし、お願いした諸々の荷物を早々に持って来て貰えて病院に来てくれてありがたく助かったのは敢えて言うまでもなく。
あとで知ったのだが友人Tはこの緊急手術が終わるまでずっといてくれたらしく、手術が終わった後の私の顔も見てくれて声を掛けてくれて、術後の医師の説明も聞いてくれて切除した部位も確認したとのことだった。この日からずっと荷物のやりとりをして貰うのだが、面会は許可取得が必要だったのもあり退院する日までただの一度も会うことはなかった。

レントゲンに造影CTに採血とここでも検査をし、鼻から管を挿れられ、尿管を挿れられ、靴下を履かされ、もはや何をされてるのか把握も出来ないままで14時半からの緊急手術に入るのだが、それまでの時間、痛みで痛くて苦しく余りに辛くてとてもとても長く感じていて、早くどうにかして欲しいと強く強く思っていた。
腸閉塞、だというのはたぶんC病院でもちらっと聞いていた気がするがここで聞いたのだと思う。捻じれてる部分も壊死はしてなさそうだから今は大丈夫だがこのままだと壊死してしまうから早急に手術が必要で、状況に因っては開腹手術になると言われた気がする。
この時腸がかなり腫れていて腹腔手術は出来ず友人Tの承諾を得て開腹手術に至ったことも、腸閉塞になった原因を私自身が知るのも、退院後、友人Tと会って話してからとなる(術後すぐに医師はそれも説明をしたのかもしれないが、私は何ひとつ記憶になく私にしたら医師からは一切の詳細説明がない状態となっている)。
通常は腸壁にくっついている筈の腸がくっついていない宙ぶらりんの部分を生まれつき持っていて、宙ぶらりんのその部分の腸が捻じれたことによって腸閉塞になったとのことだった。宙ぶらりんでも一生何事もないひともいるらしいが、哀しい哉、そうなるともはや不可避だったのかもしれず。

手術に入る前にコンタクトレンズを外さないと、と、必死になってコンタクトレンズを外したのは憶えているが、その後、麻酔を打たれたのか気付けば意識はなく何をされたのかも全く憶えておらず、どうやらいつの間にか手術が終わっていたのだと目が醒めてから気が付いた。
ぐるりとカーテンで囲まれたベッドの上で、病室だとは理解するもどこなのかも分からず、両手には平たいグローブを嵌められていて右手にはナースコールが押せる様に握らされていた。
頭はもやがかかった様にぼんやり裸眼視界もぼんやりしていて、半覚醒とうとうとするのを繰り返していたが、寝返りが打てずどうしても苦しくて苦しくてその夜は看護師を何度も呼ぶことになった。
多くの色んなことが朧気なまま、既に4月7日になっていた。

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