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『ケイコ 目を澄ませて』を観て

 『ケイコ 目を澄ませて』を観てきた。岸井ゆきの演じる聾の女性ボクサー、ケイコのお話。すごく良かった。ケイコと、ジム経営者・会長の三浦友和(たぶん役名はついていなくて、ただ「会長」と呼ばれていたような)が鏡に向かってシンクロしながらシャドーボクシングの練習をするところや、ミット打ちのリズミカルな感じや、パン、パーンという音がすごく良い。あれだけで、「ああ、映画だなあ」と思う。だけど、ケイコにはそれは全部聞こえてないというところがなんとも・・・。
 設定が2020年12月になっていたと思うが、要するにコロナ時代ということが言いたいのだろう。みんなマスクをしている。聴覚障害をもつケイコは手話を使ってコミュニケーションをとるが、もちろんそれができない人もいるので、そういうときは読唇が重要になる。ところがマスクをしていては読唇ができない。こういうこと、あんまり考えてこなかったなあ、僕。
 そういえば、この映画を見ていて思ったのだが、映画って昔はサイレントだったじゃないですか。あの時代の映画ってもしかして、聴覚障害者フレンドリーだったのかな。まあ、BGM的な音はついてたと思うしそれがそれなりの効果を発揮していたとも思うけれども、基本的には音無し声無しでいかに見せるかということが大事だったわけだから、視覚上のいろんな工夫があって、結果的に聴覚障害者フレンドリーになっていた可能性はあるのではないだろうか。チャップリンの笑いが普遍性を持っているとしたら、やはりあの動きだろう。可笑しいよねえ、ほんと。映画は動きを見せるものだと思う。人が走っているところを撮るのが映画の最小単位という感じがする。とりあえず走ってれば何とかなる。『ジュラシック・パーク』あるじゃない。あれなんかも、恐竜がどうこうじゃなくて、とりあえず子供が「ギャー」と叫んで逃げまくっているだけで映画として成立してると思うのよ。それだけで面白いもん。
 今回の映画も、縄跳びで有酸素の練習しているところとか、さっき言ったリズミカルなミット打ちとか、それだけで美しいと思う。観にきて良かったと思う。極論を言うと、映画のストーリーって僕はどうでもいいと思う。昔は、「この映画は何が伝えたかったのだろうか」とか「このシーンが挿入された意図は」とか「この小道具は何の象徴で」とかいろいろ小難しく考えたりもしたけど、まあそれも面白いけど、どうでもいいっちゃどうでもいい。映画の本質的な部分ではないと思う。それよりも、「こういう画(え)が撮りたい!」というのが先にあるんじゃないのかなあ、たぶん。ストーリーなんか後付けで。ちなみに、僕はカメラの位置とか角度とか距離とかから生まれる効果について考えるのは、今でも好きだ。気にしすぎると映画に集中できなくなるけど、「こういう画が撮りたい!」というのはそういうところも関わってくるはずだから、興味ある。なんか締まりのない映画だなと思ったら、ストーリーがどうこうよりも、撮り方が悪い場合もあると思う。
 ストーリーがどうでもいいということに付け加えて言うと、僕たちは映画を見るとき、どうしてもラストシーンに注目してしまう。それがその映画の結論のような気がするから。あるいは主張の核心のような気がするから。でも、それも案外どうでもいいもののような気が最近している。もちろん、素晴らしいラストというのはあると思うし、衝撃のラストも、感動のラストも、逆に最低なラストも台無しのラストもあると思う。だけど、そこだけに注目するのはやはり良くないな。漫才のオチみたいなもので、別にそこが最重要というわけではないからだ。逆に言うと、最低なラストというのは、作っている側がラストに最重要ポイントをもってきてしまった場合によく起こるのではないか。「俺はこれが言いたかったんです!!」みたいなのを最後に持ってくるのって、芸がないと思いませんか。じゃあ最初から言えよ、と思う。あ、いや、ちょっと言い過ぎか。ともかく、ラストが重要な映画ももちろんあるが、かといってそこだけで映画を判断するのも良くないなあと思うわけだ。
 具体例を示そう。今年亡くなったゴダールの『気狂いピエロ』。これぞ衝撃のラストみたいな映画。ジャン=ポール・ベルモンドが山に登って、体にダイナマイト巻きつけて「あ、やべ、ミスった」とかなんとか言って着火して、爆発して、海の方向へカメラがパンして、ランボーの『永遠』の一節をアンナ・カリーナと交互にささやき声で読み上げる、というやつ——。いや、かっこいいですよ。最初見たとき、「くぅ〜」と思ったもん。だけどそれは、「くぅ〜」と思うべきだと思ったから思ったようなところがあって、本当に心からいいと思ってたのか、今となっては謎だ。たしか大学一年生の時だ。映画史に残る名ラストみたいな評判は、まあ元から知ってるじゃないですか。知ってて見てもいいものはいいのだが、あのときは実際どうだったのかなあ。
 こないだとある映画館でリバイバル上映があったので、改めて観てみたんです(もしかしてベルモンドの追悼でやってたのかな。だとしたら去年か)。そのとき印象に残ったのは、二点。一つは、これは映画の文法とかお約束みたいなのを徹底的に茶化した映画なのだということ。もう一つは、アンナ・カリーナかわいいということ。後者については、アンナ・カリーナかわいいと思っているゴダールかわいい、ということを含んでいる。カメラマンは別にいるんだろうけど、とにかくアンナかわいいいいい!!!と思って尻追っかけ回すみたいにカメラ向けているゴダールを想像すると、ちょっと萌える(このときゴダール35歳と考えると若干萎える)。実際、アンナ・カリーナはかわいい。「私の生命線は短いの♪」というわけわからん歌を歌いながら踊っている場面とか、わけわからんすぎてかわいい。そういうのを、「かわいいいい!!!」と心底思って撮ることが大事だと僕は思います!かわいいアンナに比べたら、ラストのダイナマイトなんか本当にどうでもいい。
 僕はハリウッド映画は嫌いではないです。ハリウッドといえばいつもハッピーエンドで、それがくだらないという人もいるが、そもそも映画においてラストなんか重要じゃないと思っておけば、そういう批判自体がむしろ浅いとも言えなくもない。トム・クルーズが体張ってるの、いいじゃないですか。たとえ陳腐なストーリーだったとしても、変なラストだったとしても、いいショットが一つでも見られたら、「ああ映画観にきてよかった」と僕は思います。妙に深刻ぶったヌーヴェル・ヴァーグとか、アメリカン・ニューシネマとか、全然いらないです。
 
 最後にちょっと愚痴をこぼさせてください。映画見るときはケータイの電源を切るかマナーモードにするか機内モードにしてくれえええ!今日、僕の右前に座ってた人、2回も鳴ってたぞおおお。しかもけっこう大事なところと思しきところでえええ!この映画は、主役が聾者というのもあって、他の映画にも増して静寂が大事なのよ。そこでケータイ鳴られたら、非常に残念なことになるのよ。間抜けな音が鳴るとさあ。まあ、いろいろ事情があったのかもしれないけど、やっぱりあれはアウトですわ。「勘弁してくれよ」と思ったね。
 よし。愚痴終了。
 いい映画だった。なんか言い忘れたことあるかな・・・。三浦友和!いい役者なんですね。すごい生意気な言い方になってすみません。あんまりよく知らないもので。いい味出してたなあ。
 あとは、ケイコの弟の恋人が黒人系の人で、かわいらしかったですね。その三人がちょっと外に出て、ケイコがジャブのやりかたを教えてみんなで練習するの。それでそのあと、その恋人がヒップホップ?ストリート?系のダンスを披露するの。いいシーンだなあと思いました。

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