見出し画像

東大地理部の本を監修した話 〜地図を深読みしすぎた猫の末路〜

知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ。

「論語」より

孔子の生きた時代よりおよそ 2500 年。

現代の東京大学において、

孔子の言葉を体現し続ける知的探検の達人がいた。


それが、東大地理部——。



発見!学べるウォーキング 東大地理部の「地図深読み」散歩 絶賛発売中!






はい、CMでした。




はじめに


どうも、筆者の地図ねこです。

この note は、2024 年 3 月に発売された『発見!学べるウォーキング 東大地理部の「地図深読み」散歩』(以下、「地理部本」と表記)に関連した note です。

ざっくり言えば、ひょんなことから地理部本に関わることになった筆者が、立場を弁えず調子に乗って内容に口を出しまくった話です。

ですが、地理部本をまだご購入なさっていないという方でも、心配はいりません。

この note はほとんどが筆者の自分語りとオタク語りで構成されているため、地理部本がなくとも楽しめるような内容となっています。

なので、地理部本をまだご購入なさっていないと言う方でも、お気になさらずぜひ一度ご笑覧いただければと思います。

その上で、地理部本を読んでみたい!と感じた方は、ぜひ上記のリンクより地理部本を買っていただけると、筆者がとても喜びます。


というわけで、以下本編です。



「監修」に至る背景


2018 年 12 月。

筆者は東大地理部の部長に就任した。


2019 年 12 月。

筆者は東大地理部の部長を退任した。


4 年後の 2023 年。

筆者はなぜか、地理部本に掲載される予定の巡検企画者一覧に名を連ねていた。



いや、なんで?


どうやら地理部本、テーマのひとつに「地形」があるらしい。

それで地形学徒の端くれである筆者に白羽の矢が立ったらしい。人材難?


ただ、こと地形学をはじめとした自然地理学全般に関しては、東大地理部で人材難になる理由も頷ける。

東大には、「理学部地理学科」が現存しないのだ。

もちろん、学科の統廃合の結果として、その流れを汲んでいる「地球惑星環境学科」という学科はある。

やろうと思えば、筆者のように自然地理学を専攻することもできる。

だが、実際に自然地理学を専攻する人は年に数人いるかいないかといったところで、その存在感はかなり薄い。


地理部にとっては、その年に数人いるかいないかの変わり者が、たまたま数年前に部長をしていたというのだから、声が掛かるとしてもおかしくはない、のかな……。

まあ、とりあえずは自分が担当した巡検くらいはちゃんと赤入れするか……。


……うーん、これは他の巡検もちゃんと見た方がいいかもな……。

でも、とっくの昔に引退している建前上、あんまり口を挟みすぎると「老害」って思われそうだけど……。



まあ、やると決まってしまったなら、徹底的にやるか。


そうして筆者は、徹底的に口を挟むことにした。


「監修」における論点1:武蔵野台地と関東ローム層


武蔵野台地をどう書くか

さて、筆者の頭を最も悩ませたことのひとつが、「武蔵野台地」という地形についての説明であった。


東京の地形について扱った本で、武蔵野台地をどう説明するかというのは、一種の生命線と言っても過言ではない。

というのも、山の手をはじめとした東京西側の多くの地域において、その細かな地形に関する記述は、武蔵野台地を前提として書かれるからである。

これは地理部本においても例外ではなく、実際に多くの巡検が武蔵野台地上で行われている以上は、武蔵野台地の説明はやはり生命線である。

ここで武蔵野台地について下手な説明をしてしまうと、本自体の価値を貶めてしまいかねず、仮にも東大の名を背負っていることを考えると相応しくないだろう。

かと言って、「正しい説明」に拘りすぎると、記述が過度に専門的で長々としたものとなってしまい、一般向け書籍である地理部本においてはこれも相応しくないだろう。

さて、どう書くべきか。


武蔵野台地についてのよく見る説明として、「武蔵野台地は、多摩川がかつて形成した巨大な扇状地である」というものがある。

だが、結果から述べると、地理部本ではこのような説明はしなかった。

無論この説明は間違ったものではないし、むしろ簡潔でよくできた説明である。

しかしながら、東大の主要なキャンパスであり、地理部本では最初に扱われている駒場と本郷においては、どちらもこの説明では誤りとなってしまう。

それはなぜか。駒場と本郷それぞれについて、その理由は異なるのだが、これについて詳しく話すのならば、まずは「武蔵野台地とは何か」という話から始めなければならない。


武蔵野台地とは何か

武蔵野台地とは、台地の一種である。

では、「台地」とは何か?

英語での plateau、あるいは upland が日本語の「台地」に該当するが、plateau と言ってイメージされるほどの組織地形的な大規模な台地は日本にはなかなか存在しない(注1)。

日本にある台地の多くは(注2)、洪積台地(diluvial upland、あるいは diluvial plateau)とかつて呼ばれたもの(注3)である。

武蔵野台地の大部分も、この洪積台地の一種である。


「台地」とは形状に着目した地形分類用語であり、成因に着目した地形分類用語には「段丘」がある。

すなわち、侵食基準面の低下によって(注4)形成された階段状の地形である。

無論「台地」と「段丘」はイコールではないが、武蔵野台地は「台地」であり「段丘」である。


段丘には、大きく分けて「河岸段丘」と「海岸段丘」というものがあると習った方は多いだろう(なお本稿では、これ以降成因を重視した用語である「河成段丘」、「海成段丘」と呼ぶこととする)。

ではここで質問。武蔵野台地は、特にその段丘面に着目した場合、「河成段丘」といえるだろうか、「海成段丘」といえるだろうか?



正解は、「段丘面により異なる」である。



  • 注1:あったとして、日本の感覚ならば「高原」あるいは「高地」「山地」などのように訳されるんじゃないかと思う。例えば中国山地の隆起準平原(と、される地形)なんかは plateau の感覚に近いのではないかと思われるが、侵食が進みすぎていることもあってその全部または一部が「台地」と呼ばれることはないだろう。しかしながら、これにも例外はあり、詳しくは注2に挙げるが、比較的風化に強い石灰岩からなる秋吉台や阿哲台などのカルスト台地が(中国山地においては)主な例外に挙げられる。

  • 注2:日本における台地としては、カルスト台地(秋吉台など)、火砕流台地(シラス台地など)、溶岩台地(東松浦半島など)もあるのだが、日本で単に「台地」と言った際には、「洪積台地」以外の台地が言外に除外されていることが多い(注3をも参照)。実際に、地理院地図の「地形分類(自然地形)」レイヤでは、中程度のズームレベルにおいてカルスト台地は「カルスト地形」、火砕流台地は「火山麓地形」、溶岩台地は「火山地形(明瞭)」あるいは「残丘状地形」とされることが多く、いずれも「台地・段丘」には含まれない傾向がある(国土地理院の解説ページも参照)。もっともこれは、防災に地形を活用するため、わかりやすさを担保しなければならないという事情からすると、仕方のない側面も大きいだろう。

  • 注3:「洪積台地」という用語は、「洪積世」という現在使われなくなった地質時代の区分(現在の「更新世」)によるもののため、現在では用いることが避けられる傾向にある。「洪積世」とは聖書にあるノアの洪水の存在を前提とした用語で、「洪積台地」についてもかつてはノアの洪水のような天変地異によって形成されたものだと考えられていたのだが、現在ではご存知の通りノアの洪水ともども否定されているので、やはりあまり用いない方がいいだろう。しかしながら、日本語では「洪積台地」を代替する用語として人口に膾炙したものがないため、注2でも述べたとおり「洪積台地」の代わりに単に「台地」が用いられるということが多い。ただ、厳密には両者はニュアンスが異なるものだという事実は頭に入れておくべきかもしれない。

  • 注4:ここで「隆起によって」とは書かないのがポイントである。このことの意味については、注6や注7を読んだ上でじっくり考えていただきたいところではあるが、単純に言うならば、「そんなに単純ではない」ということである。



武蔵野台地の段丘面区分

段丘は、一般的に複数の段丘面によって形成されるものである。

武蔵野台地についても、詳しく段丘面を区分しようと思えば、非常に細分化された形で段丘面を区分できることがわかっている。

以下にその一例を示す。

図 1 武蔵野台地の地形区分(遠藤など(2019)より)

これだけ見ると、武蔵野台地の段丘面区分はとても複雑に見える。

だが、凡例の中の「M」が付くものは「武蔵野面」、というふうにまとめて考えれば、それなりに単純化して考えることができる。

本稿では、さらに単純化して、下末吉面(S 面)、武蔵野面(M1a ~ M3 面)、立川面(Tc 面)の3つのみについて考えることにする。


さて、先ほどの質問を正解を、これら段丘面ごとに答えよう。

「下末吉面は海成段丘(注6)で、武蔵野面と立川面は河成段丘(注7)である」

では、かつての古多摩川の扇状地であった段丘面はといえば、当然これは河成面に限られる。

したがって、「武蔵野台地は、多摩川がかつて形成した巨大な扇状地である」という説明は、武蔵野面や立川面について言ったものならば正しいが、下末吉面について言ったものならば誤りである。

そして、よりにもよって東京大学の駒場キャンパスは海成面である下末吉面上にあるため、少なくとも「駒場巡検」において「武蔵野台地は、多摩川がかつて形成した巨大な扇状地である」と説明するのは不適切である。


また、河成面である武蔵野面についても、その段丘面を形成したのがすべて多摩川であったとは限らない。

特に、北東部の赤羽台などにおいては、その堆積物の起源は荒川・入間川系であると考えられており(遠藤など(2019))、こちらについてもやはり「武蔵野台地は、多摩川がかつて形成した巨大な扇状地である」という説明は誤りとなる。

それで、東京大学の本郷キャンパスはと言えば、こちらは基本的に武蔵野面上にあるものの、位置としては赤羽台のすぐ下流にあたり、荒川・入間川の影響を無視できないと考えられるため、「本郷巡検」においても「武蔵野台地は、多摩川がかつて形成した巨大な扇状地である」と説明するのは不適切である。


これが、「武蔵野台地は、多摩川がかつて形成した巨大な扇状地である」という説明が、駒場と本郷の両方において誤りとなってしまう理由である。



  • 注5:この図は武蔵野面を詳細に区分したものであり、立川面やそれ以下の段丘面などについては区分されていないことに留意。立川面群についても、やろうと思えばさらに詳細に区分ができる。

  • 注6:多くの人にとってイメージしやすい海成段丘の成因は、例えば 2024 年 1 月の能登半島地震によって現れたような、地震性の隆起によるものではないだろうか。ただ、下末吉面をはじめとした、日本における比較的大きなスケールの海成段丘の多くは、このような地震性の海成段丘とは根本的に成因が異なる。ここで重要になるのが、氷河性海水準変動である。第四紀において地球は、大陸氷床の発達した氷期と、大陸氷床の縮小した間氷期からなる、氷期-間氷期サイクルを繰り返してきたことが知られている。大陸氷床が溶けると海水準が上昇するため、氷期は低海水準期となり、間氷期は高海水準期となる。このような氷河性の海水準変動は、一般に地殻変動よりも速く、短い時間で変動する。さて、このような前提に立った上で、ゆっくりと長い時間をかけて隆起している土地で、間氷期のたびに海抜 0 m 付近に平坦面が形成されるとすると、どのような地形が形成されるだろうか?ある間氷期において、海抜 0 m 付近に形成された平坦面は、次の間氷期にはいくらか標高を増しているだろう。これを繰り返すと、階段状の地形が形成されると考えられる。このように、氷河性海水準変動と地殻変動の両方の作用によって形成されるのが多くの海成段丘であり、下末吉面もその一種である。

  • 注7:河成段丘においても、海成段丘と同様に氷河性海水準変動はひとつの重要な要素となるのだが、こと河川システムというものを相手にしなければならない以上、話は海成段丘ほど単純にはいかない。「武蔵野面は海水準が低下したときに段丘化した段丘面だが、立川面は逆に海水準が上昇したときに段丘化した段丘面である」と言えば、その複雑さがお分かりいただけるであろうか(海水準変動と段丘面については図 2 参照)。さらに、重要なファクターは氷河性海水準変動のみではない。河川全体を考えるならば、海から遠ざかるほど氷河性海水準変動そのものの影響は小さくなるが、代わりに砕屑物の量の変動の影響が大きくなってくるだろう。また、何らかの理由で河川の堰き止めが発生した場合には、その前後の侵食基準面は大きく変わってしまい、河成段丘形成のひとつの要因となるだろう。このように、河成段丘一般について単純化した簡潔な説明を加えるのは難しいのだが、少なくとも温暖期である現在の日本の河成段丘について言うならば、その多くに共通する特徴がある。それは、「もともと扇状地(またはそれに類する地形)であったところが開析されたものである」という点である。武蔵野台地の多摩川によって形成された部分はこの代表例であり、本文中で「河成面」と「扇状地」という用語を、半ば意味の重なるものとして用いているのもそのためである。だがこれにも当然例外はあり、その代表例が荒川や利根川、渡瀬川、鬼怒川などによって MIS 5c ごろ(成増面と同時期)によって形成された氾濫原堆積物による河成面(武蔵野台地の成増面、大宮台地の大宮面、下総台地の下総下位面など)である。これについては、寒冷期に入って段丘化した段丘面が、温暖期になってもそのまま残っているものと解釈できるのだが、詳しくは注11を参照のこと。

図 2 過去 25 万年間の東京を中心に見る地形・層序編年と海水準変動(遠藤など(2019)より)


関東ローム層とは何か

さて、結局、地理部本においては、武蔵野台地を下のように説明した。

「武蔵野台地の大部分は、河成段丘と海成段丘の上に火山由来の風成塵である関東ローム層が堆積した台地です。」

このうち、「河成段丘と海成段丘」という表現をとっているのは上述した通りの背景によるものだが、なぜ関東ローム層についての記述を加えたのかと言えば、それだけ関東ローム層が重要だからである。


下末吉面が海成面であることはすでに述べた。

仮に、下末吉面が離水当時(約 12 万年前)に海抜 0 m 前後であったとすると、その現在の高度を測れば、その間にどれだけ標高を増したかおおよそ見積もることができる。

東京近辺の下末吉面の標高には幅があり、低いところでは 20 m、高いところでは 50 m ほどにまでなるが、ここではおおよそ 30 ~ 40 m ほどと考えることにする。

では、東京周辺の隆起速度は、おおよそ 12 万年間で 30 ~ 40 m であった……と、安直に考えてしまうと、これは誤りとなる。

下末吉面は、その離水後に約 10 m 前後も関東ローム層の堆積によって標高を増しているからである。


ここで、関東ローム層の成因について簡単に述べよう。

古い書籍(そして、それを種本とした最近の書籍など)(注8)では、よく関東ローム層について「富士山などの度重なる噴火によって堆積した火山灰」と説明されることがある。

だが、これは明確に誤りである。

関東ロームの堆積速度は、約 12 万年で約 10 m であったから、10 年で約 1 mm くらいの堆積速度ということになる。

ここで、関東ローム層をすべて火山噴火による火山灰であると仮定しよう。

堆積速度から計算すると、東京では 10 年に一度のペースで火山灰が 1 mm 堆積するような噴火が起こらねば、とても追いつかないということになる。

火山灰は、1 mm 堆積するだけでも「多量」という扱いになり、路面を完全に覆い、視界不良を引き起こし、ライフラインを停滞させる。

そんな噴火が頻繁に起こるだろうか?それも、数 10 万年もの間ずっと?

火山噴火によらない、別の供給源を考えなければ説明がつかない。

そこで、現在ではこう考えられることが多い。

関東ローム層は、火山周辺や河原などの裸地から供給された、火山灰を多く含んだ風成塵が、植生によってトラップされてできた地層(レス)であると。

このことについては、実際にこの説を提唱された早川由紀夫先生のブログをもぜひご参照されたい。



  • 注8:このような書籍の代表格に、故・貝塚爽平先生による著作がある。断っておくと、貝塚先生は地形学において非常に偉大な業績を残した地形学者であり、その著作は現在でも主に発達史地形学の分野において学術書として幅広く読まれている。そして、東京の地形についてもやはり著作を残されているのだが、問題はそれが 50 年近く前に出版された書籍であるということだ。関東ローム層についての考え方は、本文でも名前を挙げた早川由紀夫先生が精力的に研究をなさっていた 1990 年代以降大きく変わっており、そのことを反映していない貝塚先生の著作における記述をそのまま引用してしまった場合、現在では誤りとされるような記述となってしまう。そして残念なことに、現在出版されている地形についての一般向けの本の少なくない数が、貝塚先生の本を種本として、何の疑いもなく引用している。結果として、一般の関東ローム層についての理解はいつまでも新しくならず、「関東ローム層についての記述を見れば、その本がどれほどちゃんとした本なのかがわかる」という、リトマス試験紙のような存在となってしまっているのが現状である。



以上のように、武蔵野台地とは非常に複雑な地形である。

正しさを失わず、かつ簡単に説明するのは、とても難しい。

そんな筆者の苦悩の結果である、地理部本における武蔵野台地の説明を、最後に再び挙げておく。


「武蔵野台地の大部分は、河成段丘と海成段丘の上に火山由来の風成塵である関東ローム層が堆積した台地です。」



【CM】

🎶恋しちゃったんだ たぶん🎶

🎶気づいてないでしょう?🎶

🎶星の夜 願い込めて 地図🎶

🎶深読み 発見 学べるウォーキング🎶


発見!学べるウォーキング 東大地理部の「地図深読み」散歩 絶賛発売中!



「監修」における論点2:下総層群と東京層


下総層群とは何か

さて、これまで述べてきたのは、空間的なスケールで言えば、武蔵野台地の存在する地域の表層地形の話でしかなく、時間的なスケールで言えば、最終間氷期より最近の、氷期-間氷期サイクル一周分の話(注6も参照)でしかない。

これを絶対年代で言えば約 12 万年前より最近の、 MIS (注9)で言えば 5e ~ 1 までの間の話である。

だが、第四紀において地球は氷期-間氷期サイクルを繰り返してきており、武蔵野台地の外、あるいは地下深くについて考える際には、もっと古い時代まで考慮しなければ説明ができない。

そこで、本節ではまず、氷期-間氷期サイクル 4 周分、MIS 11 以降(約 40 万年前〜)の地層について説明することにする(注10)。

そして、ちょうどこの期間に該当する、約 40 万〜約 10 万年前(チバニアン後半〜後期更新世初頭に相当)に堆積した地層が、下総層群である。


図 3 は、関東平野における過去 4 回の間氷期および後氷期での海進の程度を示した図である。

図 3 須貝など(2013)より

図 3 からは、MIS 11, 9, 7, 5e の 4 つの海進において、関東平野の広い部分が水没したことや、それぞれの海進における海岸線は大きく変わらないことなどが読み取れる。

しかしながら、MIS 1 の海進、すなわち後氷期における縄文海進においては、海面下に没した範囲がかなり狭くなったことも読み取れるが、このことの意義については次節の注11で記す。

それはともかくとして、過去 40 万年にわたって、現在の関東平野にあたる地域の堆積環境はどのように変動してきたかを簡潔に述べるのならば、「氷期にある程度陸化するが、間氷期には大部分が水没する」というサイクルを繰り返してきた、と言えよう。

下総層群は、そのようなサイクルを通して堆積した地層である。



  • 注9:Marine oxygen Isotope Stage (海洋酸素同位体ステージ)の略。氷期-間氷期サイクルによって、大陸氷床はその大きさを変動させ、海水準を上下させることはすでに述べた。ここで、大陸氷床の氷の供給源は降雪であり、雪を降らせる雲の起源は海洋から蒸発した水蒸気であるわけだが、水分子には蒸発の際に「重い同位体( 18O )」を含む水分子ほど蒸発しにくいという性質があるため、海洋と比べて大陸氷床の 18O の存在比(δ18O)は小さくなる。その結果として、大陸氷床の量と連動して海洋における δ18O は変動し、具体的には氷期には大きく、間氷期には逆に小さくなる……ということを利用した、過去の年代のステージ区分のこと。後氷期である現在を 1 として数え、氷期には偶数が、間氷期には奇数が来るように番号が振られる。ただ、最終氷期中の亜間氷期に MIS 3 が振られていることや、最終間氷期の範囲についての考え方が変わったことなどから、最終間氷期は「MIS 5e (あるいは 5.5)」となる。

図 4 約 550 万年前ごろまでの δ18O 変動記録(Lisiecki and Raymo(2005)より)
  • 注10:ちなみに、図 4 を見ても分かるとおり、第四紀(約 260 万年前〜)を通した全体のトレンドとして、地球は徐々に寒冷化しているのだが、それと同時に氷期-間氷期サイクルの挙動も変化している。具体的には、①振幅が増大しており、②約 100 万年前ごろより周期が約 4 万年から約 10 万年へと変化している。 ただ、ここで取り扱う MIS 11 以降に限って見ると、振幅も周期もあまり変わっていない。そのため、この間の海水準変動の幅もその振幅はあまり変わらず、最大で 100 m を少し超えるほどであったと考えられている。



下総層群の層序区分

次に、武蔵野台地において段丘面を区分したように、下総台地においても層序を区分しよう。


下総層群は、氷期に陸化し、間氷期に水没するのを繰り返してきたことは既に述べた。

間氷期、海水面の下においては、浅海性の堆積物が堆積する。

徐々に海水面が低下すると、やがてその浅海における堆積面は陸上に現れる。

堆積環境は、海岸や河口(デルタ、エスチュアリー)を経て、河川や氾濫原、湿地のものへと変化していく。

ここで、河川は必ずしも新しい地層の堆積をするばかりではなく、古い地層の侵食もするため、河川の堆積物の直下には堆積年代のギャップが生じ、不整合となる。

このような氷期(あるいは亜氷期)にできる不整合を境界として、下総層群の層序は各サイクルごとにそれぞれユニットに纏められる。(注11)

そのユニットごとに名前を付け、図に示したのが図 5 である(波線が不整合を示す)。

図 5 千葉県北部地域の層序総括図(納谷など(2018)より)


ところで、下総層群は、武蔵野台地や関東ローム層などのように、一般向けの書籍やインターネット上のページなどで扱われることは少ないため、「よくある説明」や「よくある誤解」のようなものを提示するのは難しい。

だが、それでも下総層群についての説明は皆無というわけではなく、代表して Wikipedia の「下総層群」を引用すると、「関東平野一帯に分布する浅海性の堆積層である。」と説明されている。(2024 年 5 月 24 日閲覧)

引っかかるのは「浅海性」の部分で、上でも述べた通り、下総層群は正確には陸成-浅海成堆積物からなっており、「浅海性」と一言で纏めてしまうのは不適切ではないだろうか。

なお、Wikipedia の擁護もしておくと、「概要」欄では河川成堆積物についても触れられているため、記述を完全な誤りと断定することもできない。

だが、このような誤解を招きかねない表現を避けるため、地理部本では下総層群について「おもに海によって形成された」という苦しい説明をしている。



  • 注11:前節でも述べた通り、MIS 1 における海進(縄文海進)は、それ以前の海進より明らかに海進の規模が小さかったことがわかっている。これは海水準の上昇量が小さかったからではなく(海水準の高さは以前の海進のときと大きく変わらない)、関東造盆地運動という地殻変動の結果、関東平野周縁部が隆起したためと考えられる。では、この事実は関東平野の地形発達においてどのような意味を持つだろうか?下総層群の構成層における一連のサイクルは、間氷期において地層が水没することが前提となっていた。だが、縄文海進の及ばなかったエリアにおいては、このサイクルが中断されてしまった。結果として、そのようなエリアでは、MIS 5e の浅海成堆積物(木下層上部)や、MIS 5c の河川成堆積物(姉崎層)が、段丘として関東平野に幅広く分布するようになったのだ。これを段丘面に言い換えるのであれば、MIS 5e の浅海成堆積物(木下層上部)とは、武蔵野台地の下末吉面、下総台地の下総上位面などのことであり(注6をも参照)、MIS 5c の河川成堆積物(姉崎層)とは、武蔵野台地の成増面、大宮台地の大宮面、下総台地の下総下位面などのことである(注7をも参照)。そしてこれは、関東平野は、これまでずっと高海水準期には広大な浅海となっていたところ、最近になって MIS 5 段丘の卓越する広大な平野(台地を含んだ用語であることに留意)に生まれ変わったことを意味する。では、この先も関東造盆地運動が続いた場合、関東平野はどうなるだろうか?一度段丘化した台地がこの先水没しないとすると、台地は少しずつ開析が進み、やがては丘陵となるであろう。すなわち、関東平野の現在の姿は、地形が浅海から丘陵へと変化していく過程において、一時的に広大な平野となっている瞬間を切り取っているだけだと考えることができる。



東京層とは何か

ここまで、地理部本がどうのというような話はそっちのけで、ただただ下総層群について長々と解説してきたが、これには理由がある。

というのも、「下総層群」そのもの自体が地理部本で重要となることはないが、筆者が地理部本で頭を悩ませた単語のひとつである「東京層」について理解するためには、下総層群について理解しておくことが必須なのである。

東京層は、端的に述べるならば下総層群の木下層に相当する地層のことである、と最近では定義されているが、この文ひとつとっても図 5 が頭になければピンと来ない。

そのため本稿では、地理部本での表現についての話はひとまず飛ばして、下総層群の説明から入らせてもらった。

そして、いま東京層について説明する素地が整ったところで、地理部本における東京層の扱いについて話していくことにしよう。


地理部本において「東京層」という単語は、特に定義も説明もされることなく登場する。

これは一般書籍としての限界ともいえよう。

東京層の定義や成因について知ったところで、我々一般人にとっては、ボーリング調査やテフラの対比でもしない限り、その知識が役に立つ機会は無い。

だが、それと書き手がどこまで理解しているべきかは別である。

東京層を含む東京の地下については現在まさに研究が進められている題材であって、書き手が古い文献を参照していた場合には、東京層と書くべきでないところで東京層と書いてしまったり、逆に東京層と書くべきところで東京層と書かなかったりといった事案が発生してしまいかねない。

そのため、書き手には東京層についてのきちんとした理解が求められる。


東京層の定義は、時代により移り変わってきた。

2021 年に産総研によって行われた、都市域の地質地盤図「東京都区部」の作成において、東京層とは下総台地における木下層相当のものと定義されたが、このような定義は決して今まで揺るがずにきたものではなかった。

そもそも東京層は本来、「東京の地下を掘ったときに出てくる下総層群のこと」という程度の意味であったと考えられ、命名当初は現在のようなテフラの編年も発達していなかったであろうから、仕方のない話とも言える。

その変遷については、都市域の地質地盤図「東京都区部」の解説書によく纏められているので、ここでも紹介しておく。

図 6 武蔵野台地および東京低地地下に分布する更新統の層序区分変遷(納谷など(2021)より)

さて、ここで、最も新しい区分では、東京層は「下部」と「上部」に区分されていることに気が付く。

東京層下部とは、MIS 6 ごろ(氷期)の開析谷を埋積した堆積物であり、その分布範囲は開析谷のあった場所(現在は完全に埋積されている)に偏在している。

東京層上部とは、MIS 5e ごろ(間氷期)に広く堆積した浅海成堆積物であるが、武蔵野面を形成した古多摩川の扇状地によって侵食を受けているため、その分布範囲は削り残された場所(下末吉面)にやはり偏在している。

東京層下部(図7)と上部(図8)について、その基底面を産総研の「都市域の地質地盤図」で表示すると、偏在していることがわかりやすい(ただ、表示範囲が東京の西側に限られていることには注意が必要である)。

図 7 東京層下部基底面(都市域の地質地盤図より)
図 8 東京層上部基底面(都市域の地質地盤図より)

この偏在は、つまりは「東京の地下を掘っても、東京層が必ず出てくるわけではない」ということを示している。(注12)

そして、このことが地理部本における東京層の扱いにとって厄介な問題となってくるのだ。



  • 注12:このような地下における地層の分布を知ると、地震が起こった際の地盤の揺れやすさを知ることができる(図 9、図 10)。ただ、これは少々把握することが難しいので、ここで簡単にではあるが説明を加えておく。まず、地盤の揺れやすさは、地盤のかたさに大きく影響され、地盤がやわらかいほど揺れやすいとされる。扇状地の礫層はかたく、また関東ローム層も比較的かたい部類に入るが、氾濫原堆積物や、浅海堆積物などはやわらかい。また、同じような堆積物であっても、堆積した年代が古いほどよく締まっており、かたい傾向にある。これらのことを総合すると、沖積層の分布する東京の東側より、台地である東京の西側の方が揺れにくいのはご理解いただけるかと思う。だが、東京の西側の台地であっても、段丘面の違いなどにる表層地形や、埋積谷の存在などの地下構造により、どのような地層がどのくらいの厚さで存在しているのかは異なる(これについては東京の東側も同様)。具体的に言えば、例えば下総層群の中でも比較的新しく軟弱な東京層の分厚さは、場所によって異なる。このことを踏まえて、図 7、図 8 および現在の地形図と、図 9、図 10を見比べると、様々なことが読み取れる。これについては、ぜひ読者自身で考えてみていただきたい。

図 9 東京周辺の表層地盤増幅率(にゃんこそばさんの ツイート より)
図 10 東京西部を拡大


東京層か、東京層以外か

地理部本で掲載されている巡検のひとつに、東久留米で行われたものがある。

そして、この巡検で扱っているトピックのひとつに、段丘崖から湧き出す「湧水」がある。

豊富な湧水の存在は、透水層と、その直下の難透水層の存在によるところが大きい。

ここで、透水層に関しては「武蔵野礫層」(武蔵野面を形成した古多摩川の扇状地の堆積物)でいいのだが、問題は難透水層である。

東久留米は「都市域の地質地盤図」の範囲外なので、東久留米に東京層が分布しているのかは図 7 および図 8 からはわからないが、筆者が調べた結果から言えば、おそらく東久留米に東京層は存在しない

では何層かと言えば、現地を見たわけでも調査したわけでもないので正確なことは言えないが、おそらく藪層とか地蔵堂層、あるいは上総層群のあたりでは?と思う(違ってたらすみません……)。

だが、ここで重要になるのは、その層の正確な名前よりも、それが難透水層であるという事実であるため、地理部本では「難透水層」とぼかして書くという妥協をした。


また、地理部本で掲載されている巡検のひとつに、等々力で行われたものがある。

等々力渓谷には有名な露頭が存在し、古くから記載が行われ、現地の解説版やネット上でもそれを見ることができる。

そして、その中には、この露頭で渋谷粘土層が見られる、としているものが多い。

渋谷粘土層とは、東京層上部のさらに上に見られる地層で、 MIS 5e ごろ、すなわち下末吉海進期に湿地で堆積した粘土層であり、下末吉ローム層に対比される。

つまり、渋谷粘土層が残っているということは、MIS 5e 以降にその土地が侵食を受けなかったこと、すなわち下末吉面であることを示す。

だが、等々力渓谷周辺は武蔵野面であり(実際に露頭でも武蔵野礫層が見られる)、渋谷粘土層が存在しているとすると話が合わない

一方で、等々力渓谷周辺は、MIS 6 ごろに開析谷が存在したと考えられる地域と重なっており、東京層下部が存在する(図 7 参照)。

おそらく、等々力渓谷の露頭で「渋谷粘土層」と記載されている地層は、「東京層下部に含まれる粘土層(あるいはシルト層?)」と記載するのが適切だと考えられる。

そのため地理部本では、東久留米のときとは逆に、「渋谷粘土層」から訂正して「東京層」と書いた。



以上のように、東京層とは非常に厄介で、扱うのに下総層群などについてのしっかりとした前提知識を要する単語である。

それは、実際の書籍において、たった一単語で済まされていたとしても変わらない。

地理部本において東京の地層に関する記述を見かけたときは、そのような筆者の努力に思いを馳せていただけると、少しは浮かばれるというものである。



おわりに


軽い気持ちで書き始めた note が、いつの間にか約 15,000 字 にまで膨れ上がってしまいました。

そのくせ、ある程度の前提知識が必須とされるような文章で、かつ結論は往々にして乱暴です。

このような読みにくさに関しましては、ただの一学生である筆者が、悪戦苦闘しながら書いた文章ですので、どうかご容赦いただければ幸いです。

ですが、悪戦苦闘の結果として、「この note をすべて理解したなら、東京の地形・地質について(部分的にではあるが)ある程度は理解したということ」と言えるくらいの note にはなったのではないかと自負しています。


この note を面白いと感じた方で、まだ『発見!学べるウォーキング 東大地理部の「地図深読み」散歩』をご購入なさっていない方がいたとすれば、ぜひ購入をご検討いただけると筆者が喜びます。

それから、この note に書かれてある内容で誤謬等があるのをお気づきになりましたら、訂正いたしますのでどうかお伝えください(あと引用とかでヤバいところがあったら教えてください)。

内容に関する質問やご意見も大歓迎です。

連絡先は、note でも地図ねこの Twitter でも構いませんが、東大地理部に直接連絡を入れるのはお控えください。


それでは最後に、厄介な OB による「監修」と称する口出しを、快く受け入れてくださった東大地理部の後輩諸君に、猿ヶ森砂丘よりも大きな感謝を込めて。



地図ねこ



参考文献


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?