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【映画日記】『ジョージア,白い橋のカフェで逢いましょう』『生きるLIVING』『わたしの見ている世界が全て』

2023年4月8日(土)
吉祥寺アップリンク 『ジョージア,白い橋のカフェで逢いましょう』
ジョージアのクタイシという街を舞台に繰り広げられる摩訶不思議な物語。設定自体は現実味がないし,そもそも冒頭の二人の男女の出会いはあまりにも芝居がかっているし,なのだが,作品全体は舞台であるクタイシという街のリアリティが溢れていて,愛さずにはいられない映画。一つ一つの描写がとても丁寧で,この街に住む老若男女の姿が描かれている。住人の住居のさまざまな施設,日常品,部屋のインテリア,街の土木施設,どれもが真新しくなく使い古されているのだが,それがどれもいい味わいを醸し出している。それは私が日本で生活しているから,ジョージアの生活を当事者としてではなく眼差してしまうということも一つの原因かとは思うが,日本で同じようなことがあると,欠けている茶碗とか,建付けが悪い玄関ドアとか,縁石が欠けている道路とか,そういうものがみすぼらしく感じ,早く修繕してほしいと感じてしまう。でも,おそらく根本的にそれは社会の雰囲気の違いであり,何を生活の優先順位とすべきかの基準が違うのではないかと感じた。この作品で描かれる社会では,人の見た目とか,男女差とか,年齢差,場合によっては人間と犬の違いさえも,どちらが優れているとか力を持っているとかそういう価値観をあまり感じさせず,お互いがお互いを尊重し合い,いろんなものを許容する,そんな社会のように見える。

 
2023年4月9日(日)
府中TOHOシネマズ 『生きるLIVING』
黒澤 明監督の1952年の映画を,カズオ・イシグロによる脚本で,主演をビル・ナイが演じるという魅力的な作品を中学生になった息子と観に行った。この黒澤映画作品を私は知らないが,舞台を一昔前の英国に移し,違和感なく仕上げられた良質な作品。たまたま19世紀のイングランドの地方自治について調べているが,英国の法体系や行政はなかなか複雑で理解できていない。主役は役人であるということだが,まあそこまで正確な理解は必要ではないが。
この物語は余命を宣告された年老いた役人が,自らの人生を振り返り,反省し,残された時間でやるべきことを見つけ実践するというもの。彼が死んだあと,じわじわとその功績が周囲の人に評価され,未来に向けての指針となる,と希望のある結末になるかと思いきや,そうでもない。その辺りにリアリティがある。実際に,最後の残された時間ではよいことをした主人公だが,それ以外の人生では決してそうではなく,いわゆるお役所仕事を慣例に従って行い,しかもそれを周囲に強要していた人物である。そもそも,自分がなぜそうなったのかも分からず,人生の最後になって気づくのだが,最後に取り戻したものよりも長い人生で失ったものの方が多いと思う。そんなことを考えさせる作品。

 
2023年4月13日(木)
立川キノシネマ 『わたしの見ている世界が全て』
予告編はちゃんと見ていなかったが,4人兄弟が喪服姿で立ちすくむというチラシの写真は,西川美和の長編初監督作品『蛇イチゴ』を思い出した。なんだか素敵な映画の予感。予感は的中した。私が知っている俳優は一人も出演していないが,どの役どころも味わいがある。いろんな場面で日本社会の問題を描いているのだが,いわゆる報道ベースで名前が出るようなものはあまりない(「パワハラ」は出てきます)。
一応,次女が主人公。うだつの上がらない食堂&売店を経営する実家と折り合いが悪く,都心でビジネスを成功させた次女だったが,ちょっとした会社との不和から,独立して起業することを目指す。そこにチャンスとばかり母親が亡くなる。実家を売却すれば起業の資金が手に入るということで,父親の葬儀にも参列せずに6年も実家に帰っていなかった次女は,突然帰省し,兄弟たちに家を売ることを提案する。食堂を切り盛りする長男は農家の若い娘と交際中。離婚して実家に戻ってきた長女は近所のリサイクル店店主となれ合いの関係を続け,食堂を手伝っている。次男は大学卒業後も職には就かず,実家で暮らしている。きょうだい3人ともこの実家がないと生活が成り立たないのだが,次女はそれぞれの人生が前に進むようにおせっかいをし始めるが,どれもうまくいかず,自分の起業すらもままならない状況に進展していく。
しかし,当初は自分の目先の利益を目的とした,きょうだいへの介入で,皆が迷惑を被っていたものの,徐々にそれが違う方向にも流れていく。ここから学ぶことは多い。確かに,人は人生において保守的で,ある程度状態が悪くても,その状態がさらに悪化することがないのであれば現状維持を望む。改めて新たな状況へと踏み込むことでこれまで築いたものが崩れてしまうことが怖いのだ。だから,決して仲が良いといえない家族の間でも本質的な議論は避け,差しさわりのない会話でお茶を濁す。しかし,そこから思い切って踏み出すことによって,事態が変わることが決して悪いことではない。とはいえ,思った通りに進展しないことが多く,どうなるかは分からない。私にも母親や兄と正面からぶつかりあえる時がくるのだろうか。


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