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さだまさし「空蝉」を考える

Spotifyで、さだまさしをシャッフル再生していて、久々に「空蝉」を聴いた。

懐かしい。が、あまり好んで聴くような曲ではない。聴いていて辛いので。

名盤「夢供養」というアルバムに収録されており、冒頭から順に聴いてきても、この歌を聴かず次の「木根川橋」に飛ばしてしまう程に辛い

登場する老夫婦に、今も未来も「救い」が感じられないのが、一番の理由(「償い」のゆうちゃんにもたらされるような救いがない)。

しかし、さだまさし20代で書いた詩、老夫婦の来し方から行く末まで見通した眼、その透徹ぶりには今更ながら目をみはる。

今回、詩を読み直してみて、はたと気付いたことがある。

名も知らぬ駅の待合室で
僕の前には年老いた夫婦

冒頭。この詩の語り手である「」が登場する。「」は目の前の老夫婦の描写を請け負う。

しかし、冒頭以外、「」の一人称は一切登場しない。ここに今回初めて気付いた(今更)。

冒頭の描写から受ける印象では、「」は老夫婦と同じ駅舎の待合室に座っているように思える。

老夫婦が待合室にいる事情は、詩の中で説明されている。一方「」はなぜこの待合室にいるのか?

おそらく「」は、乗ろうとする汽車を待っているためか、来る汽車に乗っている誰かを出迎えるために、この待合室に来たと思われる。

ならば、目的の汽車が来ればすぐに、その待合室からは去るはずである。

しかし、「」は、終列車が過ぎても尚、その老夫婦を描写し続けている。

けれど急行が駆け抜けたあと
すまなそうに駅員がこう告げる

もう汽車は来ません
とりあえず今日は来ません
今日の予定は終わりました

老夫婦の想いは分かるとしても、おそらく無関係の「」が、こんな時間帯まで待合室でこの老夫婦に付き合う理由はないはずである。

考えられるのは、途中まで「」は確かに待合室にいたが、やがて「」は汽車に乗り、残りは車窓に老夫婦を思い浮かべながらの想像だったという設定だ。

足元に力無く寝そべった
仔犬だけを現世の道連れに
小さな肩寄せ合って
古新聞からおむすび

この場面では、「」はまだ待合室にいる。目の前で見ているかのような描写だ。

昔ずっと昔熱い恋があって
守り通したふたり

いくつもの物語を過ごして
生きて来た今日迄歩いて来た

これはもはや「」の想像の域である。ここら辺から「」は待合室を離れて、汽車に揺られる存在になったのだろう。

汽車の中で、脳裏から消えない老夫婦の姿、どんな過去を経て現在に至り、どんな未来が待っているのか、「僕」は考えずにはいられなかった。

二人はやがて来るはずの汽車を
息を凝らしじっと待ちつづけている

都会へ行った息子がもう
迎えに来るはずだから

しかし、息子は来ないのだ!駅員が終列車通過を告げる時間帯まで待っても、誰も迎えに来ないのだ!その待合室から、急速に距離を隔てつつ去る汽車の中で「」は、老夫婦の存在の虚しさに、やり場のない想いをかきたてる…!

…と、私もかなり想像がたくましくなってしまったが、そう思える根拠が自分の中にはある。

「夢供養」収録の「空蝉」では、最後やや激しめのサウンドがフェイドアウトして終わる。

一方、ライブでは、フェイドアウトしていく演奏に、ガタゴトと走り去る汽車の音がかぶせられて終わる。この歌をライブやライブ盤で聴かれた方にはお分かりのことと思う。

この汽車こそが、脳裏に残る老夫婦の姿とその想いを抱えたままの「」を乗せて走り去る汽車である。そう考えれば、ひとまず辻褄が合うように思える。

これで、個人的な「空蝉」解釈は、ひとまず形を成したものと考える。

」が冒頭だけしか登場しない理由も説明できるし、一見無関係の「」が、老夫婦の立ち入った事情にまで踏み込んで描写できている理由も分かると思う。

…とここまで考察してきて、冒頭の歌詞に立ち戻ると、私の解釈は音を立てて崩壊し、ただの妄想に過ぎなかったと思い知らされるのである。

名も知らぬ駅の待合室で
僕の前には年老いた夫婦

これは「名も知らぬ駅」が舞台なのである。

」が実際に駅の待合室に座っていたのなら、その駅の名を知らぬはずがない。少なくとも何らかの目的を持ってその駅にいたのであるから、その駅が何という名称の駅なのか知らないということはあり得ない。

ということは、この歌は、冒頭からそもそも全てが「僕」の想像(心象風景あるいは妄想)の世界の中の物語だということになる。

もしかしたら、さだまさし自身、そんな老夫婦を見かけたことがあるのかもしれない。その記憶が、このような心象風景を作り上げたのかもしれない。

一度、詩を読み通して心に描いた世界。しかし、再度読み直すと、その世界はガラリと変わり、また違った読み方を提案してくる

読むたびに味わいが変わる。そこに「空蝉」の詩の奥深さを、今更ながらに感じた。

こんな読み方は、さだまさしファンとしては道を外れているかもしれない。詩を味わうというよりは、推理小説的に読み解く感じなので。

しかし、例えば「パンプキン・パイとシナモン・ティー」の「時々走って2分と15秒」「平均112,3歩目」が、どのくらいの距離なのか、どのような歩幅やペースで歩いたり走ったりすれば、描写の通りにたどり着けるか計算してみるようなファンであれば、本文のような解釈をすることの意味も理解されることと思う。

#さだまさし #夢供養 #空蝉 #考察

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