ボランティアセンターの運営に関わった2002年の話(メルマガ201912+α)

鳥取市でNPOを経営しているゲンヨウです。さらっと昔を振り返る機会がありまして、書いています。弊社の立ち上げは2002年4月1日です。「大学生と地域をつなぐ」ことを目的に学生団体として始まりました。

1.ボランティアセンターに出会うまで

つなぐといっても、何からやったらよくわからなかったので、最初は情報収集でいろんなボランティアやアルバイトの情報を集めていました。

そんな中で、地域の情報共有のプラットフォーム(当時はメーリングリストでした。)で知り合った方から、国民文化祭というイベントと、そこに関係する応援団(市民の自主活動組織)の話を聞きます。そこの説明会みたいなものに参加して、ボランティアセンターというのをNPOが運営しているというのを聞きました。

NPOという単語もしらず、そういう流れがあるなら何かできないかなと考えました。また応援団の活動で出会った方から、そこのセンターのテコ入れの一環で東京からイベントコーディネーターがやってきて、面白くなるそうだというのも聞きました。たまたまその人の企画案をスナックでシェアするからコピーしてきてと頼まれて、流れで目を通すのですが、イベントで終わらない仕組みを面白いと思って、ボランティアセンターに丁稚奉公に行くことにしました。

2.入ってみるとあら大変

ボランティアセンターに丁稚奉公することになり(ボランティアセンターボランティア)、センターに行って事務作業を進めてくれる臨職さんと話をしたりするのですが、3つのNPOに連合体で実施させていたので、船頭多くして船山に上る状態でした。

ボランティアの申込人数も、ここままでは大変。それを進める段取りもイメージできていない。組織が違うので、意見もあわなかったり、行ったり来たりみたいでした。

なので会議は多いけど、ほとんど進まず状態。今、振り返ればNPO側も未熟ではあったので、行政側も委託の方法とか完全に手探り(お互い)だったんだろうなと。それもあってのテコ入れで、東京からイベントコーディネーターの方が来られます。そして、その人がそのまま僕の師匠になるわけです。

最初はすごいところに来てしまったなという気持ちでしたが、自分のやれることをやらなくちゃなと動きます。

3.師匠についてインターンシップ状態

結局、全体のスケジュールなどプランについて師匠が絵をかきます。全体でやる事を分担して、各NPOの得意な部分をお願いしていく形です。

僕と言えば、師匠を車で送り、横にいてカバン持ち状態。週に2日~3日の鳥取滞在だったので、残りの日は指示に従ってやることをやっていく、もしくは自分で考えて組み立て進めるという感じでした。

おそらく、現在で言えば課題解決型インターンシップみたいなもので、8月から12月の報告終了まで、ほぼびっちりボランティアセンター運営に邁進します。

4.大枠と目標を与えられ、打ち手を考えていく日々

「NPOに関わったら、ボランティアコーディネートが学べるかしらん」くらいの気持ちで門を叩いて入ったセンターでしたが、結果的には事務局長ポジションのような形で、師匠の指示や考えを現場に落としていく、場合によててゃ自分で考えて現場に実装するという流れでした。

必要に応じて、自分の友達や後輩などにも手伝ってもらって、やれることをやっていくという感じでした。学祭を作っていくような期限が決まっていたからこそ取組めたと思います。

今思うと、よくその判断をしたなと思うのですが、23歳大学院生の僕を県の職員さんとの会議に連れていき「交渉の仕方と大事な部分を教えるから、あとはお前やれ」というスーパー無茶ブリ(笑)。実践型インターンシップの好事例で出てくる学生の熱量が高いので、学生と社会人が対等な関係でプロジェクトが進んだという状態だったとは思うのですが、よくやったしやらせたなと。

考え方の大枠と最低限のルール(譲れないもの)、大事にしたい哲学、そこについては常に共有はされていたなと思います。

緊急事態の対応でありながらも、当時の県の方々にはいろいろと良くしてもらってました。師匠の言葉を、そのまま伝えていたので、くそ生意気に見えたと思います。その辺も哲学の部分で共感を生んでいたんだと思います。

5.募集、マッチング、研修、実施を完了させる

僕が参画したのが8月頭、イベントの本番の開始日が10月13日だったので、実質二か月での募集から実施という流れでした。今の僕でもこのオーダーやりきれるかな・・・というものでした。

周りの協力もあり、無事に実施まで持っていきます。寝袋持って、ボランティアセンターに泊まったりしていたのが懐かしい。

鳥取県内を横に広く会場設定されていたので、開会式は鳥取(10月12日)、閉会式は米子(11月4日)でした。開会式はボランティア会場統括でした。現在の天皇陛下が皇太子として来られていて、警備が凄かったのを覚えています。閉会式ではグランドフィナーレという市民イベントの会場責任者として、米子市の方々と学生たちも巻き込んで運営していました。

6.今につながる価値観を得た時間だった

怒涛の運営の中で、地域の方の地域に対する考えに触れられたこと、いろんな人のいろんな得意不得意があること、みんな同じく良い場を作りたくて動いていることなど、大学生が関わる事の可能性など現在のコーディネーターとしての考え方につながる経験をしていると思います。

すべてをボランティアにすることや、経費削減を目標としたボランティア導入については、今でも疑問ですが、やりたい人の関わりの余白を作るという意味では、よい場に立ち会えたと思います。

もちろん、運営中においては内部で意見の衝突があったりしましたが、時間がたてば戦友ということで、たまに市内で会うと挨拶をくれたりします。

ここを振り返ってみると、自分自身がインターンシップという形ではなかったにせよ、今、提供している場が似ているんだなと再確認しました。

自分自身を被験者として、もう少し考えてみたいなと思いました。

今日のおまけページは、ボランティアセンターの運営を23歳で任されたのが、何とか完成まで持ち込めた理由を自分なりに分析してみます。

おまけページは単体だと200円の記事になります。月額マガジンとしているので、500円で月に15~20くらいの僕の経験や考えの深いバージョン、たまに雑談を覗き見ることができます。興味があればぜひ。

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