ノーコンティニュー

おれ達はテレビゲームと共に育った。テレビゲームをクリアしてクリアしてテレビゲーム以上に楽しい娯楽がなければひたすらにプレイをした。

ほぼスーパーファミコンと同じ歳のおれはゲーム機の進化と共に育った世代だ。初代ポケモンもストライク。そんなおれ達も30代。つまり平成育ちはみんな大なり小なりテレビゲームに影響を受けている。と、思っている。(テレビゲーム以上に面白いものを子供に提供できなかった親世代をある意味呪うはまた今度)

注意してほしい。ここでいうゲームはテレビゲームのことで、スマホで遊ぶアプリゲームではない。おれより下の世代はアプリゲームがその主軸だからまた物の見方が変わっている。おれはテレビゲーム世代だ。話はそこからだ。

テレビゲームにあって他の娯楽にない特徴を考えるとひとつ大きな価値観が見つかる。この価値観は平成育ち以降にはもはや共通の基本的価値観と思っていいはずだ。お正月に初詣に行くのと同じレベルで身近すぎて意識しないレベル。しかし意識しないが故に弊害も孕んでいる、常識。

ゲームオーバー&コンティニュー

そのままの話だ。例えば主人公がヒロインを救出しないといけない状況。しかしプレイに失敗。救出できなかった。ゲームオーバー。すると(ゲームセンターじゃないから追加課金は必要ないので)自動的に時間が少し巻き戻ったある地点からやり直しを始めることができる。ある地点での状況は変わらないけれどプレイヤーである自分だけは救出失敗の記憶は残っている。つまり原因と対策を練って再挑戦する。コンティニュー

みんな現実はこうじゃないことはわかっている。でも目の前のゲームの世界は常にコンティニューができる。何度も何度も何度もやり直して、人によっては完璧なセーブデータを作り上げることに心血を注ぐものもいる。

すると、おれ達はこう思う。なんで現実世界はやり直しができないのだ、おかしい。思いびとに振られた恥をかいた傷つけた人間関係がこじれた金がない容姿が醜い能力がない心が弱い、あのとき逃げてしまった、自分よりも圧倒的に優れた人間にであってしまった、両親はクズだった。・・・おかしい。一度リセットしてコンティニューだ。どこからリセットすればいいんだろう、人生の。

そんな思考回路に進んでしまう。おれはそれが仕方のないことだと思う。意を介さず上手くいかない方向へ進んでしまったが決してやり直せない。普通に考えてつらいよ。

でもそれが現実だとみんな知っている。タイムマシンやタイムリープ能力でもない限りコンティニューはできない。だから、過去改変のタイムトラベル系SFは現在もみんなから好かれていてむしろ映像技術の進歩も含めて流行っているんじゃないかと思う。

<これはただのゲームでありフィクションだ。いち作家の妄想以外の何物でもなく過剰摂取に誤用にご注意ください>

現実は上手くいかないことがたくさんありそれを受け入れることの方が大切だ。そんな言葉が大きくのしかかる。そこを「娯楽」として距離感を保ち、現実の例外として受け入れていまを生きる為のアイテムの一つにする。

直立二足歩行型の巨大ロボットは自重をその両脚で支えることはできない。歴史上の偉人、劉備玄徳が本当に「徳」のままに生きたのか、なわけない。人間は善悪美醜含むもの。

萌え萌えな言動と天然(というには憚られる頭の悪さ)を前面に出された二次元の女の子。これは非社交的な男の妄想を満たすだけのもの。オタサーの姫がオタクどもの願望に答えてその集団での地位を獲得するための手段。処世術。

人間の世界には、虚構が多過ぎる。みんな詐欺まがいの言動を相手にぶつけてずるく生きている。そんな世界がただそこに在る。そしておれはただその中に在る。

ただそこに在ることは意外に難しい。詐欺でのウソでも建前でも言葉はなんでもいい。社会性を維持しながら生きるためには全員が世界を欺いている。

ショックだけどまずはそれを自覚しようぜって話を、道徳の時間に話して「世界」との距離感を保たないと、生きててつらい気がする。そう、そしてまた「娯楽」が希望と諦めないことを推してくる。それで上手くいく事例をこれでもかとすり込んでくる。それ自体は止めようがない。虚構だから。大事なのは、世界との距離感だ。

シュタインズゲートのアニメを観終わって感動したので書いた。

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