「石炭とブランデー」第9話
第8話
9・記憶
仕事をした方が気が紛れるので、それからの一ヶ月は、仕事ばかりしていた。
私の好きなクランプスに奥様がいたことを知ってから、という意味だ。
やることは山ほどある。古い森での魔女の暮らしは、全てを文明の利器に頼ると言うわけにいかないので、探せば探すほどやるべきことが見つかるのだ。
精霊たちの力を借りて屋根の苔と泥を落とし、外壁や窓を磨いて、歪んだ木扉は自分で工具を持ち出して直した。竈と暖炉の煤を落とし、薪もたっぷり用意した。
カーテンやマット類を全て洗い、穴の開いた箇所は修繕して、模様の寂しい部分に草花の刺繍をいくつか施す。古い衣服をほどき、パッチワーク用の布にする。
ジャムを作る。ハーブを乾かす。雪が降る前に樹皮や地衣類の採取をする。
鶏小屋と鳩小屋の掃除をし、新しい敷き藁を入れてやる。
魔女学の本、地理の本、歴史の本、お料理のレシピ、物語の本、書庫の整理。
もちろん、魔女商品であるブランデー作りの仕事も怠らない。
十二月が淡々とやって来て、私はついに、十八歳の誕生日を迎えた。
暖炉の前のソファに座って一人、ブランデーのミニボトルを前にしている私の足元に、実体に宿ったヤドリギの精が大中小と三体、コロコロと転がってくる。
いつも一緒にいてくれる子たちだ。私の気持ちを察して、心配してくれているのがわかる。暖炉の精も、いつもより不安げに揺れている。
「ありがとう。でも大丈夫だよ」
ヤドリギたちの丸い体をポンポンと叩いて、私は心境を明かした。
「今日で終わりにするつもりなの。だって、今日が始まりだったんだから」
十二年前の今日、聖ニコラウスの日の前夜。
幼い私は、とあるクランプスに命を救われた。
それから彼は、毎年この日になると、邪霊除けのお守りを届けに来てくれるようになった。
私は彼に恋をしたけれど、その恋はもう、決して叶わない。
最後に一度だけ夢を見て、本当に全部終わらせようと思った。
記憶が戻る際の付き添いは、最初に思った通りに、夢の中で彼にしてもらう。
私は<恋のブランデー>とラベルに書かれたミニボトルを手に取った。
蓋を開けて半分ほどコップに入れ、匂いを嗅いでみる。少し怖い。
でも思い切って口をつけ、息を止めて、一口飲み込んだ。
喉が焼ける。
甘い、香り。
◆
その日だけ扉が開いていて、何故か外に出られたのだった。
妹が生まれてからというもの、私は危ないことをするという理由で、どんどん家の隅に追いやられた。誰も私を顧みない。お風呂も食事もまばらな間隔。
嘘つきは黙れと言われて、私は自分の喉を自分で封じた。
たまに訪れる不思議な光、優しい風や土や緑。でも、誰もその存在には気付かないし、教えても信じてくれない。怖くて悪いものがいる。いつでも傍にいて、私を齧ろうとついて来る。私は食べられちゃった方がいいのかな。
いつの間にか暗くて寒い冷たい部屋で過ごしていた。
壁際に山積みにされたシリアルバーとペットボトルの水で、なんとか空腹を誤魔化す。ティッシュやトイレットペーパー、段ボール箱もあるのが助かった。
トイレは部屋の隅にするしかないから、私はいつも臭くて汚い。
硬い床に段ボールを敷いて薄い毛布に包まって、震えながら眠っていた。
外でたくさんの人が行き来する音、車のドアを開け閉めする音、重い何かを運ぶ掛け声なんかが聞こえて、最後に扉がガチャリと音を立てた。
私はびくついて目を開けた。何か怖いものが入ってくると思って、身を縮こまらせた。でも、何も入って来ない。
すごく長い時間が経って、外はすっかり静かになっていた。
真っ暗な部屋の中に一筋、青白い光が見えた。
私は恐る恐る立ち上がって、その光の方へ歩いた。
短い階段の上に扉がある。その隙間から光が漏れていたのだ。
手探りでドアノブを見つけて引くと、すんなり開いた。
私は外へ出た。
真夜中で、星が輝いていた。
人は誰も歩いていない。月はないけれど、星明りが雪に当たって周囲は明るい。
目の前にふわふわと、懐かしい光が飛んできた。
それがいいものだと知っている私は、後からついていった。光の先に、大きなモミの木が見えてきた。広場の真ん中に飾られている、クリスマスツリーだ。
根元にはプレゼントの飾りがたくさんあって、光に導かれた私は、そこで力尽きて座り込み、あまりの寒さと空腹に、気絶するように眠ってしまった。
「師匠! 子供がいる!」
誰かの声と、肩を揺する感覚に、うっすらと目を開けた。
恐ろしい悪魔のような仮面が目の前にあった。私は驚いたけれど、逃げるほどの元気はなくて、ただ目をつむって顔を背ける。ついに食べられちゃうのかな。
「大丈夫、怖くない。人間だよ」
間近で聞こえたその声に目を開けると、今度は人間の顔があった。
悪魔の仮面を上にずらして、私をじっと覗き込んでいる。
「瞳の中にオーロラがある。君は魔女だな」
そう言う彼の瞳には金の星が煌めいていた。若い男の人だ。父さんよりもずっと若い。たぶん隣の家の、まだ学校に通っているお兄さんくらい。
「名前は? 俺はユルゲン」
先に名乗ってくれたので、私も答えようとしたのだけれど、喉を自分で封じているので、喋れなかった。
「師匠が来た。悪いけど顔を隠す」
そう言って彼はまた仮面を被ってしまった。もうちっとも怖くない。
同じような悪魔の仮面を被った、もっと大きな人が来て、私を温めてやるようユルゲンに命じた。
私は臭くて汚いのに、彼は少しの迷いもなく、自分の纏った毛皮の中に私を包み込んでくれた。すぐに安心できる場所に連れて行くからな。そう言って。
「センターに連絡を取る。お前はまだ見習いだから、記録上は私が発見者になるが、お前が見つけた子だ。来年一人前になったら、お前が黒玉を届けてやれ」
ユルゲンが頷き、大きな人は、何か平たいものを耳に当てて誰かと話し始めた。
「すぐに受け入れ可能な魔女工房のリストだ。この中からお前が選べ」
大きな人が差し出す平たいものを覗き込み、ユルゲンが何かを指差す。
「ここが近い」
「よし、向かおう。その子を抱いて俺の背に乗れ」
大きな人が角の生えた獣の姿に変わり、ユルゲンは私を抱き上げてその背に跨った。私を獣の広い背中にそっと寝かせると、上に覆い被さる。
「苦しいけど我慢してくれ。落ちないためだ」
苦しくない。それに、温かかった。
誰かに抱きしめてもらえたのが随分と久しぶりで、目から涙が溢れた。
熱い涙が、私の喉を封じていた何かを溶かす。
ユル……と、掠れた声が少し出た。
こみ上げる涙で、それ以上は喋れなかった。
私はもう、安心できる場所にいる。
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第10話
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