竜の道 (上)|#4| 白川 道
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大野木の愛用車、プレジデントを飛ばして千駄木に着いたのは前場(ぜんば)の引ける十一時ちょっと前だった。
団子坂(だんござか)から少し入った所にある由加のマンションに横づけにして短波放送に耳を傾ける。
結局、堤製薬は値をつけずに、千五百七十円ヤリ気配のまま前場を終えた。たぶんこの調子では、きょうはストップ安に見舞われるだろう。大野木はどのくらい堤製薬を集めているのだろうか。
他の客の資金はどうでもいい。問題は、「紫友連合会」会長、曽根村始だった。
たばこを一本吹かしてから、マンションの玄関にむかう。
新築の四階建て。由加の部屋に泊まった大野木を何度か迎えに来たことはあるが、マンションの外までで、まだ一度も直接部屋を訪ねたことはない。
四階の一番奥。ネームプレートを確かめてから竜一はエレベーターに急いだ。
チャイムを鳴らすと、返事の代わりにいきなりドアが開いた。薄化粧をした由加の顔は青白かった。やや派手めな赤い外出着をまとっている。
「お待ちしてました。心細くって」
電話に出たときの狼狽(ろうばい)した声ではなかった。いくらか落ち着きを取り戻したようだ。
「それで、社長の容体は?」
「幸いというか、命には別状はないようです」
答えた由加が、一瞬迷った顔をしたが竜一を部屋に招き入れた。
3LDK。部屋のなかはきれいに整理されている。
「意識のほうは?」
リビングのソファに腰を下ろすなり、竜一は訊いた。
気になるのはその一点だけだ。
由加が首を振った。
「少しようすをみるそうです。ご自宅のほうにはどうしたら?」
由加が不安げに訊く。
大野木の女房には二度ほど会っている。女好きの大野木ではあるが、彼がよそに女を囲うのがうなずけるようなギスギスした癇癪(かんしやく)持ちの女だ。きっと由加は、そのことも大野木から聞かされているにちがいない。
「私のほうから連絡を入れますよ。口実は適当に考えて、ね。決して貴女(あなた)の存在が露見しないようにしましょう」
由加の店がまだ軌道に乗っていないことは知っている。女房に知られて大野木からの資金援助の道が断たれることを一番惧れているのだろう。竜一の言葉に由加が安堵(あんど)の表情を浮かべた。
その由加の心理につけ込むように、竜一は言った。
「しかし、命に別状はない、といっても、脳梗塞というのは、治ったとしても後遺症を抱えるようですよ。言葉を自由に語れなくなったり、はっきりとした意思表示ができなくなったり、ね。そのあたりのことを医者はなにか言ってませんでしたか?」
首を振りながら由加が安堵の表情を不安のそれへと変える。
それとなく室内をうかがった。大野木が肌身離さずに持ち歩く黒革のバッグ。なかには社長室に備えつけの金庫の鍵が入っている。竜一への信頼を厚くしている今でも、大野木はその金庫だけは絶対に手を触れさせようとはしない。
「もし社長がそのような状態──、最悪、貴女(あなた)という存在の記憶すらも失ってしまわれたとしたら、どうします?」
「そんな……」
不安を通り越し、半ば怒りのこもった目で由加が竜一を見つめてくる。
大野木は抜け目のない男で、囲った女にすべてをポンと買い与えることはしない。小料理屋もこのマンションも名義こそ由加になってはいるが、すべて銀行からの借り入れで、大野木が保証人になっているだけだ。
女を繋ぎ止めておくにはそれが最良の方法であることを年老いた大野木は知っている。
「私はどうしたら……」
由加がのぞき込むような目をむけてくる。瞳のなかの媚(こび)。大野木と一緒にいるとき、何度となく竜一にむけてきたあの媚だ。
「貴女(あなた)も困るだろうが、私も困る」
由加の眼差(まなざ)しを正面から受け止めた。
「社長は、私を信頼しているとおもいますか?」
「それはもう……。斉藤さんには自分のあとを任せてもいい、と口にしていたこともあります」
「貴女はどうです? 私を信頼できますか?」
「もちろん信頼しています」
由加の瞳が微妙に揺れている。
「では、すべてを私に任せられますか?」
「すべて、を……、ですか? どういう意味でしょうか?」
竜一の真意を推し測るように、由加が一、二度瞼をしばたたかせる。
「文字どおり、すべてをですよ」
沈黙し、由加は目を伏せた。沈黙は迷いを表わしているのではない。計算を働かせているのだ。
透き通った由加のこめかみに細い血管が浮き出てくる。顔を上げたとき、由加の唇はかすかに震えていた。
「私も欲しい、と……」
「多大な借金を抱えて生きてゆく自信がありますか? あるのなら、それはそれでいい。私は私で、別の道を探すとしましょう」
ソファから腰を上げ、竜一は帰るそぶりをした。由加が肚をくくっているのはわかっていた。
「待ってください。すべてをお任せしたら、きっと私を守ってくれるのですね。そう約束してくれるのですね」
見つめてくる由加の目は計算を終えていた。
「くどいですね。私の目的は、貴女(あなた)ではない。その証(あかし)として、貴女を欲しているだけだ」
「わかりました」
由加が腰を上げ隣の部屋のドアに手をかける。
竜一はその由加の背後に近づき、そっと肩を抱いた。瞬間、電流が走ったように由加の身体がピクリと反応した。だがすぐに、全身の力を抜く。うなじの部分に唇をはわせた。由加の手が肩を抱く竜一の手をそっと握りしめる。
「時間がない」
耳もとにささやく。
カーテンが引かれた寝室は薄暗かった。けばけばしい色をした大きなダブルベッド。壁には、そのベッド全体が映るような巨大な鏡がはめ込まれている。どうやら大野木の趣味らしい。
竜一に背をむけ、由加がベッドの上で正座した。自ら衣服を脱ごうとはしなかった。竜一にはぎ取らせたいのだ。無理やり抱かれた──。
万が一のときの大野木に対する保険だろう。顔に似合わぬしたたかさは、何度か会ううちに竜一は見抜いていた。そして時折、自分にむけてくる瞳のなかに、大野木では満たされていない飢(かつ)えた欲望の火が宿っていることも。
由加の部屋で大野木が倒れたことを知った瞬間、すぐに竜一の頭のなかではこの脚本ができ上がった。たぶん他のふたりの女だったらこうはいかなかっただろう。
由加の身体は二の次だった。竜一は素早く薄暗い寝室のあちこちに視線を走らせた。お目当ての黒いバッグは、ダブルベッドの後ろにある化粧台の隅に置かれていた。
枕元のスタンドの明かりを点(つ)けた。
「消して」
正座した由加が挑むような目を竜一にむける。
「社長とするときもこうするんだろう」
わざと荒々(あらあら)しい手つきで由加の衣服をはぎ取ってやる。型どおりの抵抗らしき抵抗を由加が示す。頬を一発、軽く張ってやった。それを待っていたかのように、由加が抗(あらが)いの動作を止めた。
むき出しになった由加の白い乳房に唇をはわせる。由加の示した羞(はじら)いは一瞬だけだった。もどかしいように竜一のスーツを脱がせにかかる。
くすぶりつづけた欲望の残り火を抱えた由加は激しかった。白い肌を朱に染め、背を、腹を波打たせてもだえる。竜一は由加のなすがままに委(ゆだ)ねた。
「貴方(あなた)は悪人よ。最初に見たときから、わかっていた」
喘(あえ)ぎ声で由加が言う。
「なら、この顔はどうだ」
由加の首をねじり上げた。巨大な鏡に顔を映してやる。スタンドの薄明かりのなかで由加の顔が歪んでいる。
「この世の一番の罪悪は、中途半端なこと、ただそれだけさ。自分の顔をしかと見ろ。おまえはどうしようもない淫売(いんばい)さ。淫売はとことん淫売らしく生きればいい」
由加が竜一の手をはねのけた。ふたたび狂ったように求めてくる。粘膜を通して押し寄せてくる快感。しかし竜一の意識は、その快感とは遠いところにあった。むしろ覚醒(かくせい)していた。
果てた由加が気を失ったようにうつ伏している。たばこに火をつけたとき、由加の指先が竜一の背をゆっくりとなぞった。
「これ……、なんの傷跡? 太腿(ふともも)のあたりにもこれと同じようなのがいくつもあった……」
あのくそっタレの養父母に刻印された火傷痕──。
由加の言葉が、女を抱くのが二年ぶりだったことを竜一におもい出させた。
最後に抱いた女は、ふたり目のジョン・ドゥ、斉藤一成を能登半島の山中に葬ったあと、金沢で買った娼婦だった。
その娼婦も同じことを訊いた。平手打ちをくれたとき、女の絶叫を聞きつけたやくざ者が顔を出した。連れて行かれた路地。血へどを吐きながら、やくざ者は怯(おび)えの色を滲(にじ)ませた。
半殺しにしたやくざ者を路地裏に放り棄(す)て、竜一は深夜の電車で酒を浴びながら大阪にたどり着いた。
「二度と、おれにその質問をするな」
竜一の視線に、由加があのときのやくざ者が見せたのと同じ怯えの色を浮かべた。
十二時五分前。やらねばならぬことがまだ腐るほど残されている。
スーツを着、鏡台のわきにある黒革のバッグを手にした。使い込んだ年代物の牛革のバッグの表面はなめらかで、まるで人肌のような感触がある。
竜一を見つめる由加の顔がいくらか強張(こわば)っている。大野木がそのバッグを絶対に人の手に触れさせないのを知っている。
「すべてをおれに委ねたんだろう?」
突き放すように言った。
覚悟を決めたように由加がうなずく。
「着替えろ。時間がない」
打たれたように、由加が身体を起こす。
大野木が運び込まれたのは、ここから車で数分とはかからないN医大の附属病院だ。病状だけは確かめておかなければならない。どれぐらいの時間の余裕があるか──。それしだいで、脚本は幾重にも展開する。
由加を車に乗せ、病院に着いたのはそれから十五分後だった。
大野木は救急棟から、「面会謝絶」の札がかかった脳外科病棟の一室に移されていた。
貴女は近親者か──。ナースステーションで由加が五十がらみの大柄な看護婦に詰問口調で訊かれている。どうやら大野木との関係は濁しているらしい。由加が救いを求めるような目を竜一にむけてくる。
「私たちは、患者さんが経営する会社の人間だ。奥さんはすぐに呼びますよ」
看護婦が竜一を一瞥(いちべつ)する。
「すぐに呼びます。って、貴方、運び込まれてからもう五時間以上も経ってるのですよ。もしものことがあったらどうするのですか。入院手続もきちんとしていただかないと──」
「すべて、早急に手を打ちましょう。で、容体のほうは?」
大野木の意識が戻ったのかどうか、それが一番の問題だった。意識が戻っているのであれば、今頭のなかに書いている脚本は変更する必要がある。
看護婦は首を振った。直接担当医から聞いてくれ、と他人事(ひとごと)のように言う。
「患者の病状しだいでは、会社が倒産しかねない。策を講じなければならないことがたくさんあるんだ。貴女にその責任が取れるのかね」
声に、いくらかの恫喝(どうかつ)を込めた。一瞬、看護婦が怯(ひる)んだ表情を見せた。そのとき、眼鏡をかけた白衣の中年男が看護婦を従えてエレベーターから出て来た。
看護婦が男に声をかける。大野木の担当医だった。
竜一は丁重に頭を下げ、もう一度、大野木の病状を訊(たず)ねた。
「幸いというか、大事に至らずにすんだ。精密検査の結果しだいだが、数日はようすを見ることになるでしょう」
「意識のほうは?」
「ごらんのとおりだ」
そう言うと担当医は大野木の病室にかけられている「面会謝絶」の札に顎をしゃくった。
「きょう、意識が回復するかもしれんし、あしたになるかもしれん。いずれにしてもここ数日のことでしょう」
「脳梗塞というのは、後遺症の心配があると聞きましたが……」
「ケースバイケースですよ。意識が回復してみないと、なんとも言えんですな」
患者は大野木ばかりではない、と言わんばかりに担当医は話を打ち切り、看護婦を促して、やはり「面会謝絶」の札がかかった別の病室に姿を消した。
ナースステーションのなかでは先刻の大柄な看護婦が竜一たちの存在を忘れたかのように若いふたりの看護婦にしきりと何事かを指示している。
由加に目配せをしてから、竜一は素早い動作で大野木の病室に入り込んだ。
大野木はベッドで死んだように眠っていた。真っ白なシーツが大野木のドス黒い顔をよりドス黒く、まるで癈人(はいじん)のように見せている。
痩(こ)けた頬の上の眼窩(がんか)はさらに落(お)ち窪(くぼ)み、額の老人斑のいくつかはまた一段と大きな染みに育っているかのように竜一の目には映った。
しかし、色と欲の世界にどっぷりと浸って生きてきた老人の顔には、依然としてそれらへの未練が断ち切れていないのが滲み出ている。
担当医はああ言ったが、大野木の意識がすぐに回復するようにはとても見えなかった。
なにひとつとして心配することはないぜ、大野木さん。ゆっくりと心ゆくまで眠るがいい。おまえさんが目を覚まそうと覚まさなかろうと、このおれがすべてを取り仕切るようになるんだ……。
一瞬、大野木の鼻と口とを両手でふさぎたいような誘惑を覚えた。その誘惑を振り払うように、竜一は大野木のベッドに背をむけた。
◇ ◇ ◇