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竜の道 (上)|#5| 白川 道

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大野木の病室にはもう行かないこと、いつもどおりに素知らぬ顔で変わらぬ生活をしつづけること──。そう言い含めて、由加とは病院の前で別れた。

大野木の女房に連絡を入れるのは、バッグと会社の金庫のなかを点検してからだ。

途中、喫茶店に寄り、まずバッグの中身を調べた。

預金通帳が六冊。通帳入れのなかには印鑑もある。通帳は、女房と大野木自身の名義の物、残り四冊のうち三冊は由加を含めた囲っている女、もう一冊は知らぬ男の名前となっている。それぞれの通帳を開けて見た。

女房と大野木の物には、それぞれ一億五千万ずつ、見知らぬ男のには九千万、三人の女たちの通帳は出入りが激しく、残高は由加が七千万、他のふたりは六千万、五千万となっている。

通帳の他には、茶封筒のなかに、証券会社、証券金融会社の預り証が三十五、六枚、そして手帳が二冊と金庫の鍵。手帳の一冊は、大野木のスケジュールや細かなメモが書き込まれた仕事用の物、そしてもう一冊には、きれいに整理された数字がびっしりと記されている。

ノンバンクや証券金融会社との取引明細、そして顧客からかき集めている資金の詳細だった。指先で顧客の名を追った。大野木の仕事を手伝うようになってから知った名が羅列されている。

むろん曽根村の名前もある。お目当ての医療グループ「健宝会」会長、緑山永三(みどりやまえいぞう)の名前を目にしたとき、竜一の口もとはおもわずほころんだ。

ちょっと考えてから、三人の女たちの通帳と印鑑、それに証券会社と証券金融会社の預り証が入った茶封筒だけを懐(ふところ)に入れ、残りはバッグに戻した。

喫茶店を出て、プレジデントを飛ばした。八重洲口のホテルの一室を借りた足で近くのコピーサービス屋にむかう。二冊の手帳とすべての預り証をコピーし、ホテルの部屋にバッグを置いて金庫の鍵だけを手にして大急ぎで会社に帰った。

一時半。社内には総務部長の原田と数人の社員がいるだけで大半が出払っている。田沼の姿もなかった。

視線の合った原田が軽い会釈をよこしたがすぐにデスクに目を落とす。

社長室に入ってドアに施錠した。

大野木のデスクの背後にある金庫に足を運ぶ。鍵を差し込むと、カチャリと小気味のよい音とともに金庫の扉が開いた。

急いでなかを点検した。輪ゴムでくくられた紙包み。開けると六本のカセットテープが出てきた。用心深い大野木は、秘密の会談を持つとき、気づかれぬよう必ず隠しマイクを仕掛ける。

それが後日の自分の保身につながることを経験から熟知している。束になった書類を引っ張り出し、使えそうなやつだけを選(よ)りすぐった。五分もかからずにすべての作業を終えた。

仕事で使うアタッシュケースにカセットテープと書類を入れて八重洲口のホテルに取って返す。もう一度コピーサービス屋に出向いて、書類のすべてをコピーした。

ホテルのベッドに横たわりひと息ついた。慌ただしい時間だった。しかし神経は研ぎすまされている。たばこを吸う竜一の口元には自然と笑みが浮かんできた。

二時半。ようやく大野木の女房に電話をする気になった。きっとヒステリックな声を上げてわめき立てることだろう。うんざりする。

適当な作り話は考えてある。信じようと信じまいとどうでもいいことだった。

昨夜、ある料亭での会食のあと、社長は女と消えた。その女の家で倒れた社長は今、千駄木のN医大附属病院に担ぎ込まれている。つい先刻、社長のバッグを携えたその女と会ったが、後難を惧れて女は名を名乗らなかった──。

大野木のバッグの中身を女房が知らないとの確信はある。でなければ、女三人の名義の通帳を入れてあるわけがない。女房は、自分と大野木名義の預金通帳の残高を目にして小躍(こおど)りすることだろう。

コール音を三つ聞いただけで、女房が出た。落ち着いてくださいよ──。受話器を少し耳から遠ざけて、ゆっくりとした口調で作り話を聞かしてやる。

案の定、金切り声が鼓膜にひびいた。たばこを吹かしながら、金切り声が静まるのを待った。興奮して、泣いているようだった。

もし大野木に子供でもいれば事はこうは簡単にはいかなかっただろう。世間知らずの年老いたバカな女相手など赤子の手をひねるようなものだ。

竜一が流す無言に、ようやく女房は不安を覚えたようだ。金切り声に代わって、うろたえた声で、どうしたらよいのか、と訊いてくる。

「軽い脳梗塞のようです。幸い、命には別状はありません。たぶんご存知ではないでしょうが、社長は今、ある相場で失敗なさって多額な負債を背負われている。それで心労が重なったのではないでしょうか」

多額な負債? 女房の息を飲む気配が伝わってくる。

「もしかしたら会社も危ないかもしれない。私は、それで内密の仕事を社長に委ねられてここ半月ほど奔走しているのです。もし、社長が倒れたことが公になると、奥さんのもとに債権者が殺到する事態も考えられる。ですから、このことはくれぐれもご内密に……」

言い終わらぬうちに、ふたたび女房の狂ったような金切り声と泣き叫ぶ声が受話器をひびかせる。

「落ち着け」

一喝した。瞬間、金切り声がピタリと止まった。たぶん、会社の人間の一喝を浴びたことなど初めての経験だろう。頭の中は真っ白なはずだ。手のなかに入れたも同然だった。アメもくれてやる。

「私の手もとには今、社長と奥さん名義の預金通帳があります。しめて三億です。このお金と、白金台のご自宅だけはどんなことがあっても債権者の手に渡すことはいたしません。ですから、社長が回復なさるまでは、私の指示に従ってください。約束できますか?」

約束の言葉に、特別に力を込めた。

女房が押し黙った。それなりに考えをめぐらせているのかもしれない。

ややあって、このことは原田や田沼も知っているのか、と猜疑心(さいぎしん)のこもった声が返ってきた。

「教えていません。社長からは相場のことは一切彼らに口にしてはならない、との厳命を受けていました。もし彼らが実態を知れば、あしたからは出社しないでしょう。そうなればどういう結果になるかはおわかりいただけるとおもいます」

しかし、貴方(あなた)は入社してまだ一年半の身だ──。なおも女房は食い下がってくる。言外には、竜一よりも原田や田沼のほうに信を置いている匂(にお)いを漂わせている。

「私が社長に仕えてからの、社長の私に対する信任ぶりをご理解いただいているものとばかりおもっておりました。はっきり申し上げます。ふたつにひとつです。私を選択なさるか、彼らを選択なさるか──。奥さんの選択しだいで、私は一切から手を引かせていただきましょう」

勝負は目に見えていた。竜一の余裕の言葉はより強い圧迫となってひびくことだろう。

もう一本のたばこを口にくわえたとき、わかりました、との観念したかのようなか細い女房の声が竜一の耳に届いた。

「そうですか。私も先ほど申し上げた約束はきちんと守らしてもらいます」

夕刻の五時には病院にうかがえる、そのときに、二通の預金通帳をお渡しする──。

最後にその言葉を添えて竜一は受話器を置いた。

たばこの煙を目で追った。もう大野木の女房のことは頭の片隅にもなかった。今度の一件が終われば、大野木にも用はない。「株式日日新報」から放り出すつもりだった。

「株式日日新報」を次のステップに踏み出すための礎(いしずえ)にする──。それは入社して三ヵ月目に、竜一が胸に秘めたことだった。

大野木に向島の料亭で初めて曽根村始を紹介されたとき、竜一は、彼の豪放磊落(らいらく)な性格とは別に、隠された知的な一面の匂いを感じ取っていた。

「紫友連合会」という組織の名はむろん知っていた。小さな団体はいくつかあるが、「桐羽(きりば)会」、「大東亜共栄興業」、「紫友連合会」の三つを称して、関東広域三団体と呼んでいる。

しかし「紫友連合会」の会長が曽根村であることを知ったのは、向島の料亭での初対面のときのことだった。

あの日以来、暇を見つけては、新聞・雑誌などのさかのぼった記事を探し、「紫友連合会」と曽根村始についてを調べてみた。今では大旨(おおむね)、その輪郭をつかんでいる。

日本最大の裏組織は、神戸に本部を構える「日黒(ひぐろ)組」だ。全国に組織網をめぐらし、傘下団体二、三百、その構成員数は末端の人間も含めれば、二十万とも三十万とも言われている。

関東の裏組織の歴史は、関東制圧を悲願と掲げるこの「日黒組」との暗闘の歴史とも言い換えられる。

「日黒組」の東上を防ぐために、関東の組織は、事あるごとに手を組んで、共闘態勢を敷いてきた。そしてそのたびに小さな組織の合従連衡(がつしようれんこう)がくり返され、今日の、一見バランスが保たれているような情況が作り出されている。

「紫友連合会」の母体は、元々は横須賀を根城にする「曽根村組」というてきや組織だった。初代組長は曽根村始の父親、曽根村譲(ゆずる)である。

曽根村譲は、終戦直後の混乱を背景に、横須賀から横浜、東京へとしだいにその勢力を拡大していった。そして今から二十年ほど前に六十七歳で没したのを機に、ひとり息子だった曽根村始がまだ三十五歳という若さで「曽根村組」の二代目を継承した。

曽根村始が二代目組長としてやくざ社会に名乗りを上げたときは世間の耳目を集めた。その若さのせいでではない。彼が当時としては珍しく、東京の名門私学を卒業した歴(れつき)とした学士だったからである。

しかし曽根村始は、単なるひ弱な学士ではなかった。父親の譲の血を引き継ぎ、裏の世界では武闘派として名を馳(は)せた。そして次々と弱小の組織を飲み込んで、またたく間に「曽根村組」を、関東では三本の指に数えられる大組織に育て上げた。

だが曽根村始の瞠目(どうもく)すべき点はこれからだった。彼は、裏社会の体質がいずれ変革するだろう、と読んでいた。というより変革せざるを得なくなるだろう、と踏んでいた。

時代はもはや戦後の混乱期ではなく、日本は一大経済成長の時代へと突入していた。暴力に代わって支配するもの──それが政治であり、経済である、と看破(かんぱ)していたのである。

肥大化したとはいえ、「曽根村組」は他団体を吸収し併合した寄合所帯にすぎない。権力の集中、利益の集中は、いずれ肥大化した組織のなかでは軋(きし)みの因(もと)になる──。そう曽根村始は考えた。

そして四十二歳のとき、彼は組織の変革、改造に着手した。これまでに吸収した他団体に権力と利益を分散して組織を合議制に切り換え、共存共栄の道を選択したのである。

名称も「紫友連合会」と一新し、曽根村始がその初代会長に就任した。権力と利益を分け与えるということは、それに伴う義務も発生する。

曽根村始は、それを機に、各傘下団体の構成員のはねっ返り的暴力行為を厳禁した。風通しのよくなった組織では、監視の目も隅々に行き届く。無益無用のトラブルは激減した。その代わりに、「紫友連合会」のしのぎの舞台は、金融、不動産などの経済色の濃いものへと移行してゆき、今では政界や経済界の裏に太いパイプをつなげるまでになっている。

これらの予備知識を詰め終えたとき、竜一ははからずも曽根村始の知遇を得ることになったのは、神の──いや、ふたりのジョン・ドゥの引き合わせによるものだとおもった。竜二に宣言したこと──裏の世界で君臨するためには、曽根村始こそが正に不可欠の人物との確信を抱いたのである。

たばこを灰皿に押しつぶし、ひとつ大きく深呼吸をしてから、竜一はふたたび受話器に手を伸ばした。気持ちを鎮(しず)めながら、教えられていた曽根村始の電話の番号を正確に、順に押してゆく。受話器を握りしめる掌は若干汗ばんでいた。

──どちらさんでしょうか。

慇懃(いんぎん)な応対の男の声が流れた。曽根村ではない。

「斉藤一成と申しますが、曽根村会長をお願いできますか」

自分でも驚くほどに平静な声を出すことができた。

──どちらの斉藤さんで?

竜一の声が若いからだろう、相手の男の怪訝(けげん)そうなようすが伝わってきた。

「大野木の社の者とお伝えいただければわかっていただけるとおもうのですが」

電話が保留にされた。長い時間におもえたが、たぶん数秒だったろう、竜一の耳に聞き覚えのある声が流れた。

──おう、あのときの若い衆だったかな。

曽根村が自分の名前を記憶していてくれたことが、いくらか竜一の興奮を呼び起こした。

「あの節は失礼いたしました」

型どおりの挨拶(あいさつ)の言葉を述べたあと、お伝えしたいことがあって電話をさせてもらった、と竜一は言った。

──ほう。わしに伝えたいことが……。どういうことかな?

大組織の会長とはおもえないような曽根村の物言いだった。

「じつは、今朝、社長の大野木が倒れました」

──大野木が倒れた? 病気か?

特に驚いているふうは感じられなかった。命のやり取りを日常とする世界では病気で倒れることなど、それこそ蚊に刺されたほどの意味しかないのだろう。

「はい。病気です。脳梗塞の疑いが持たれております」

竜一は事の一部始終を脚色を交じえずに端的に語った。じっと聞き耳を立てる曽根村の表情が回線を通じてもヒシヒシと伝わってくる。

──命に別状はないというわけだな。なら問題はないだろう。

拍子抜けしたように曽根村が言った。

「そうとばかりは──。じつは、問題がふたつほどあります」

──どういうことだ?

「ひとつは、脳梗塞という病気は、治ったとしても後遺症を抱える惧れがあるということです。記憶、言語に支障をきたすかもしれません。もし、そうなれば、大野木社長の再起は難しいかもしれません。そしてもうひとつは──」

竜一は時計に目を走らせた。二時四十分。引けまではまだ二十分ある。

「今、会長が大野木社長に資金提供されている、例の堤製薬の一件です。きょう、堤製薬は朝方から売られ、相場が崩れています。まだ引けてはいないのですが、たぶんストップ安に見舞われるのではないか、ということです」

一気に、ここまでを話し終えた。

しかし曽根村には動じた気配は微塵(みじん)もなかった。無言が竜一の先の言葉を促している。

「会長は、いかほど大野木社長に託されておられるのですか?」

──それを知ってどうする?

曽根村の口調には愉(たの)しんでいるような気配すら感じられた。それがいくらか竜一に焦(あせ)りを覚えさせた。

「大野木社長があの状態です。この私にすべてをお任せ願えませんでしょうか。もし任せていただければ、会長にご迷惑は一切おかけしないことを約束いたします」

ちょっと沈黙が流れた。竜一は汗ばむ手で受話器を握り直した。

短い咳払(せきばら)いのあと、三つだ、と曽根村は言った。試しているのだろうか。大野木のメモには、曽根村の出資額は二億と記されていた。

「わかりました。三億ですね。私にお任せいただけるなら、三億にビタ一文欠けさせないどころか、相場のいかんにかかわらず、それに上積みした金額で会長のもとにご返却させていただきます」

──相場のいかんにかかわらず?

「お任せいただければ、私なりの方法で、ということです」

──ほう……。

曽根村の応対からは愉しんでいる気配は消えていた。

──斉藤一成と言ったな……。おまえは、任せるということがわしらの世界ではどういう意味になるのか、それと覚悟の上で口にしているかな?

「むろん承知しております。ご期待に沿わなかったときには、私の身は会長のお好きなようにされて一向にかまいません」

曽根村の含み笑いが回線に流れた。

──若いのにいい度胸だ。他の客にも同じことを言ってるのか?

「いえ、正直に申し上げて会長だけです。相場を張る、ということと株を保有するということは、まったく別の経済行為だと私はおもっています。会長は株を保有された──。しかし、他の客は相場を張ったのです。相場にアクシデントはつき物です。他の客には、そのアクシデントで泣いてもらう、ということになるでしょう」

──おもしろいことを言うやつだな。しかし、なぜそこまでわしに肩入れする? 見返りはなんだ?

「これから先の私の人生で、会長は私にとって必要な方、そう私が判断したからです。見返りは一切、欲しておりません」

ふたたび曽根村が沈黙を流してきた。そして数秒後、曽根村の哄笑(こうしよう)が回線を揺すった。

──わかった。すべてを任せよう。おまえなりの方法とやらを、とくと見させてもらおうじゃないか。久々に、わしもおもしろい場面を味わえそうだ。それで、おまえの約束とやらの期限はどのくらいを考えればいいんだ?

「ひと月、いえ、二週間ほどいただけますか。事の処置が終了ししだい、会長にご連絡申し上げます」

──ひと月、やろう。いいか、おまえにひとつだけ教えておいてやろう。約束の期限と人間の寿命というやつは、比例するんだ。切羽詰まった約束事で動く人間は、切羽詰まった寿命でしか生きられん。

哄笑のあと、突然電話が切れた。

受話器を握りしめたまま、しばらく竜一はじっとしていた。

曽根村の心を摑(つか)んだ……。電話で話していたときの高揚感に代わって、竜一の肚の底にはえも言われぬ充実感が滲みはじめていた。

切羽詰まった約束事で動く人間は、切羽詰まった寿命でしか生きられない──。たった今、曽根村が口にした言葉を竜一は復唱した。

どこか違和感を覚えた。

おれはおれ流の生き方をする……。

竜一は空(から)の大野木の黒いバッグを壁にたたきつけた。口もとに笑みを洩らしながら──。

◇ ◇ ◇

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竜の道(上) 白川道

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