あなたに音楽理論が必要かどうかのガイドライン

インターネット上で「音楽理論は必要か、不要か」という議論を目にすることがたまにあります。

個人的には、これに関しては双方納得いく主張があり、そもそも相反するものではないと認識しているのですが、そう思う理由を順を追って記していこうと思います。

その前に、筆者が何者かについて軽く触れておこうと思います。
幼少期から音楽に親しみ、衝動的にバンドを始め、そののち音楽学校で理論について学び、今では演奏や作曲などの分野で仕事をしています。
(筆者の経歴についてくわしくは担当作品一覧をご覧くださいhttps://lit.link/gentomiyano)

自分の出自では「理論なんていらねーよ!」という気持ちと「理論を学ぶことは大切だし、楽しい」という気持ちの両方が理解できる立場なのではないかな、と思っています。分断を招くためではなく、どちらの立場の人にも何か助けになるとよいなという思いがありこの記事を執筆するに至りました。少々長くなりますが興味のある方はお付き合いください。


「音楽理論」が示すもの

まず前提条件として、現代に存在する音楽のほとんどが西洋の古典的音楽を規範として成立しています。そして、一般に「音楽理論」と呼ばれるものは、その規範に基づいて「正解」「不正解」が決められている、というような解釈になります。

この時点で、"それ以外"の大多数の音楽に関しては除外されてしまうことになります。もし、あなたが西洋音楽の影響を全く受けていない音楽を今から始めようという意志があるのであれば、この時点で西洋音楽理論の大半が不要になるでしょう。

しかし、だからといってその場合でも「理論」が不要になるとは限りません。なぜなら、邦楽(JPOPという意味ではなく伝統的な日本の音楽)であろうと、インド音楽であろうとアラブ音楽であろうと、その音楽に固有の「約束事」はきちんと伝承されているはずで、それが理論として体系化されていなくとも、少なくとも師匠から代々直伝されるという意味では「型」は残っているはずだからです。あなたが音楽について体系的に学ぶ意思がないとすれば、これらの音楽を学ぶ手段はかなり限られてしまうでしょう。

さて、先ほど「正解」「不正解」とあえて書きましたが、これらはそう認識するべきではないと私は考えています。そもそも、芸術や表現に不正解などあるはずがないし、あるべきではないというのが大多数の意見でしょう。
その代わり、「傾向と対策」や「あるある」にあたるのが理論であると思います。
音楽に限らず、あらゆる美術には体系的にまとめられた知識の蓄積があり、それを専門に学び、教える機関が存在するにはそれなりの根拠が必要です。数百年以上の音楽の歴史の中で、誰かが気づいたことをまとめ、次に繋げやすいようにしてくれているというのが真の意味になると思います。

一方で、これらを逸脱することを目標にした音楽(現代音楽の極めて実験的な類のものや、ノイズ的な電子音楽、あるいは非楽音的なリズムで進行するハードコアな音楽など)が存在するのも確かですが、そもそも理論を知らずにそれが「逸脱している」とどうやって判断できるのでしょうか? この点には疑問が残ります。
もし、あなたが「つまらないお約束事なんてごめんだ!」と思ったとしても、あなたの感性で作ったものがその"お約束"に則っていない保証はありません。なぜなら、人間が数百年数千年と積み重ねてきたものは、驚くほど身体に染み込んでいるからです。

「理論」という言葉が持つ堅苦しさ

ここまではまず「音楽理論」というものが音楽においてどのようなものかを定義しました。 では、なぜ「音楽理論は不要」という意見が生まれてくるのかについて考察します。

1.正直何書いてあるかさっぱりわかんねーし

一つの視点としては、「導入の障壁になりうる」ということです。

私自身、音楽未経験の人に音楽について説明しなくてはならないとき、極力理論的な部分や専門用語を避けるよう努めることが多いです。
音楽に限らず、何かについて説明されたときに「理解不能な用語が羅列されている」状態ほど不愉快なものはありません。 そのため、できる限り平易な表現を使おうと努力しています。(限界はありますが)

自分自身の体感としてもそれは感じます。仮に理論書の1ページ目から音楽をスタートすることを強いられていたら、私はここまで音楽にのめり込むことはなかったでしょうし、音楽を生業にすることにもならなかったでしょう。だって、なんかわからないけどギターをジャーンってやったらカッコよかったんだもん。それ以上のことって要るか?勉強してたって未だにそう思うんですから。

音楽理論をお勉強のように押し付けられた結果、音楽を嫌いになり、音楽に対する興味を奪われてしまったらたまったものではありません。
そのため、初期の習得段階では音楽理論をやるべきではないと個人的には考えます。
後述しますが、そもそも、音楽理論で説明されていることが実感として理解できないと思うのです。

2.感性だけでもカッコイイことできるじゃん

もう一つは「(おそらくは)理論に基づいて思考していないであろう存在」を認めることです。

よくある話では、「あの某作曲家は譜面が読めずにあれだけの曲をつくったらしい」とか、「あの伝説的ロックギタリストは音楽理論なんてまったく学んでいない」という旨のインタビューや文献があります。

これを拠り所にしたい気持ちも非常に理解できます。一見すると、例えばストーンズのキースやピストルズのシドが楽典を片手に「これがセカンダリードミナントで…」などと呟きながら作曲に勤しんでいる姿は全く想像できないし(もしそうだったらごめん)、仮にそうだったとしても、そう見えるようにプレイしないのがロックンロールやパンクだと思う。

同様に、機械の使い方から先に覚えるようなヒップホップやテクノなども同じことが言えるでしょう。むしろ、テクノやハウスなどは当初、音楽を学んでいない人々でも音楽を作れるようになったというのが歴史的に大きな出来事だったと認識しているので、余計にそう感じるのではないかと思います。

しかし残念ながら、彼らが作った音楽が「理論を逸脱」しており、かつ「全く体系化されていない」音楽を生み出していたか?というと、答えはノーだと思います。

彼らは少なくとも、誰かに手ほどきを受けた、もしくはレコードを聴いて真似をしたりしたもので、確実にすでに存在する音楽に影響を受け、それを実践していたはずです。
その際に彼らが実際どれほど理論としての理解度があったかは知る由もありませんが、少なくともバンドのギタリストであれば「ファーストヴァースの最初のコードはG7で、4小節目からC7だ」というような会話は共通認識としてしていたでしょうし、そうでなかったとしても少なくとも「拍・小節」の概念を理解し、どんな音が心地よく感じるかについては考えていたことでしょう。この時点ですでにポピュラー音楽理論の規範に則っています。

「コードの押さえがわかることは音楽理論と関係ない」とお思いでしょうか?和音とインバージョンはごく初期に学習するような内容だからそう思わないかもしれませんが、れっきとした音楽理論です。

ただ、 前述した「音楽理論に則っていない(とされる)人々」というのは、間違いなく耳がよく、音楽を耳と感覚で判断することに関してはとてつもなく優れています。 仮にですが、そういう人たちがみっちりと理論を学ばなければならない状況下に置かれたとき、おそらく「普段やっているし、知っていることだな」と認識すると想像できます。彼らが用いていないのは「言葉」だけなのです。

なぜそう言えるかと言えば、彼らが生み出してきた音楽を分析したとき、理論という観点から見ても納得がいくものだからです。

一般に天才と称されるジミ・ヘンドリックスは、自身の演奏でもかなり複雑なコードボイシングを用いていますし、
かつ発売されたばかりの新曲をすぐに自分でプレイできたと言われています。これも耳が良かったか、理屈を理解していたかのどちらかでしょう。
どちらかというと前者の「耳が良かった」という印象から、「才能」であると断定されているような気がします。

音楽はコミュニケーションツールである

さて、次はあなた及びあなたの周囲で置かれている状況について考えてみます。

音楽を他者と一緒に演奏するとき、必ずコミュニケーションが必要になります。このコミュニケーションとして最も強力で世界共通なのが「譜面」です。

あなたがよほどの超人的な記憶力を持ち合わせていない限り、今初めて与えられた曲を正しく演奏することは極めて難しいでしょう。
しかし譜面があれば、少なくとも(それが良い演奏であるかは別として)音楽を頭から終わりまで進行させることができます。
これができるのは、古来より音楽の仕組みが体系化され、名前をつけておいてくれたおかげに他なりません。

譜面といえど、いわゆるクラシック音楽や吹奏楽などに見られるような「演奏すべき音符全てを指定している」ものに限らず、主にポピュラー音楽の間ではリズム譜と呼ばれる、最低限の構成とコード、そしてキメやブレイクと呼ばれる約束事が記されているものや、ジャズにおけるリードシートと呼ばれる、主要なメロディラインのみが記されたものも含まれます。
これらはアンサンブルにおける道筋を示す、いわば地図のような役割を果たします。最低限このルールを理解していれば、たとえばバンドのように曲を覚える期間やリハーサルを重ねることがない状態でも、音楽を成立させることができます。

もちろん、そうではない衝動や精神を直に音楽に叩き込みたいという人も多いでしょう。しかし逆に言えば、音楽理論をよく理解しているミュージシャンがすべて無機質でつまらない音楽をやっているでしょうか?そんなことは決してないと思います。
むしろ、この瞬間何の音を選べるのか?という選択肢にワクワクすることができますし、鳴らすべき音に確信を持っているからこそ魂を込めることもできます。

逆の話をすれば、どれだけ紙面上の用語や理論について理解していたとしても、演奏技術や耳(感性)が育っていない限り、理論は何の機能もしません。

音楽理論というのはあくまで「人が心地よいと感じてきた現象」に名前をつけたものであることを考えてください。

あなたに音楽理論が「必要ない」とき、おそらくあなたの耳は理論を必要としており、あなたが音楽理論を「必要だ」と感じているとき、あなたの感性はそれに支配されることを望んでいない、と思います。
つまり、どちらのルートを辿っても同じことなのです。

つまり、理論が必要かどうかという議論は「あなたがどのようなコミュニケーションを欲しているか」にかかっています。

あなたが仲間とスタジオやライブで爆発的な衝動をぶつけ合い、そこの誰もが音楽理論について全く関心がなかったとしても、あなたを含めた皆がハッピーで、良い音楽だと感じられているのであれば、それは素晴らしいことです。

あるいは、あなたがベッドルームにいて、その名も知らぬインスピレーションをマシンのツマミやMacBookの数値の操作にぶつけ、素晴らしいトラックが生まれるのであれば、それも十分素晴らしいことです。

逆に、そうした営みに対して説教じみたことを言うのは野暮なことです。
音楽は何のためにあるか?その場の人間がハッピーになったり、思い描いた素晴らしいものを形にするためにあるのだと思います。
そこに理屈が通っているかどうかは、産み出されたものの良し悪しの基準にはなりません。

しかし、そうでない場合、
たとえばブルースやロックンロールというのは人によっては一見理論とは対極に位置している音楽と思うかもしれませんが、少なくともそれが成立するのは12小節という優れたフォームがあるからであり、お約束事としてその場の皆がそれを理解しているから成立できるのです。
「よくわからないがやってみるか」と言ってキーやチェンジ(進行)を完全に無視して演奏しても、良いアンサンブルになるとは言い難いです。
定められた約束事に基づいて、初めて会う人とも音楽を成立させたいと考えるとき、ただ一度でその全貌を理解できる極めて優れた耳と記憶力を持っていない限り、理論はおそらく必須になります。
前述したように、「コードネーム」「キー」「ルート」といった概念も立派な音楽理論です。

「理論がわかる」ってどの状態?

まず条件を揃えるために、「どこまでの理解が必要か」を考えるべきです。 自分が表現したい音楽のツールになりうるのが音楽理論です。

おそらく大半の人が「理論」と言っているのは、「なんたらスケール」とか、「なんたらモジュレーション」とか、「アボイドがどうたら」とか、そういう話ではないでしょうか。

では、その何たらスケールを理解した結果、音楽は良くなったのでしょうか?答えがノーであれば、別の道を考えるべきです。

逆に、それを前提としていなければ生み出せない音楽は間違いなくたくさんあります。そういう音楽を目指す人にとっては、「おいおい、それくらいは理解しておいてくれよ」という気持ちになるのもわかります。
つい説教くさくなってしまうのは、単にあなたを馬鹿にしたいわけではなく、もう少しコミュニケーションが円滑になる方法があるならば、それを選んでほしい、という気持ちでしょう。
でも本来は別に、「わかってるから偉い」なんてことはないんですね。わかってるとできることが増えて楽しいし、できない人にとっては「すげーなあ」と思うことがあるかもしれません。でも、しっかりと順を追って考えれば、誰にでも平等でいてくれるのが理論だと思っています。

理論は「敵」ではない

よく言われる「理論を気にすると感性がつまらなくなる」というのは、そのツールがゴールにすり替わってしまっている状態であり、優れたインスピレーションを形にした後、後から名前をつける行為ではそのようにはならないはずです。
もしそうなってしまうのであれば、前述したように耳や音楽そのものの感じ方の方に原因があると思います。

もう一つの問題は、ある程度のことに説明がつけられるようになってくると、大抵の体験が既知のものになってしまい、純粋な感動が失われることにあります。これは習熟度が高いほど避けられない問題です。
初めて音楽をプレイした時、それがどんな初歩的なものであっても世界の真理を見つけたように衝撃的だったのではないでしょうか?
それが年々無くなっていくのではないか?
「音楽理論が必要ない」と拒絶反応を示す人は、ある種それを恐れているのではないかと思います。

複雑なことはわからないが、そのかわりに十分な感性とそれをアウトプットする手段を持っている人は、
「”理解って”しまった」ゆえにその泉のような創作意欲を失ってしまう恐れがあります。たとえば自分のつくっている音楽が全部おんなじコード進行だったとか気づいたりしたら、曲作るのがちょっと怖くなったりしませんかね?そんなことになるくらいなら、このコードがセブンスかどうか、この進行が何の曲の何て言う進行と同じか、とかそんなことを考える必要はないのです。もしそれを譜面にしたりアンサンブルにする必要があったならば、それをよく理解している仲間を見つけましょう。必ずどうにかしてくれるはずです。

逆に、音楽を学ぶ意欲があり、ある程度の習熟度に達したあなたが、それらの問題に陥ったときには、理論を追求する必然性が出てきます。
高度で複雑な音楽理論は幾何学のようなものであり、ある種の芸術性も含んでいます。 「超越者」になってくると、それそのものが芸術になるのです。
「世界の真理を見つけたような衝撃」は、理論を突き詰めることでも十分に体感できると思います。もっぱら自分はまだそこまでには到底至っていませんが、未だに新たに学ぶことが嬉しくて、少しずつですが学習を進めています。

あなたが困った時、きっと理論はあなたを助けてくれるでしょう。そう考えると、理論も悪くない、と思えるのではないでしょうか。

いずれの場合にせよ、大切なのは「耳」だと思っています。音楽を聴き、それを実践することは大きな財産になります。自分が心地よい音楽を届けるために、努力を惜しまずに取り組んでいきたいものです。


最後までお読みいただきありがとうございました。

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