トランスジェンダーの"正しい"定義、その根本的問題
どうも。能書きを書くことを趣味としているものです。
今回は、トランスジェンダー問題をとっかかりにしながら、現代リベラリズム思想の問題点について、批判的な文章を書いていきます。
というのも、友人がこちらの記事を見て、なるほどと思っていたようなので。
朝日新聞系メディアであるGlobe+による、活動家 西田彩氏へのインタビュー記事「自称すれば女性?トランスジェンターへの誤認 マジョリティーは想像で語らないで」です。トランスジェンダーとは何か、について、SNSのヤツラは曖昧かつ現実を反映しない認識に基づいて語っている……と批判し、そしてその状況を是正するために”正しい認識”を広めようとしています。実際、記事で語られているトランスジェンダーの定義や特徴に関する知識は、一般的に"正しい"とされるものです。
しかし僕は、そういうのを"正しい"と思っているから、実際世の中は、とりわけリベラル界隈がおかしなことになるのだ、と考えています。
以下、批判的な内容を、件の友人を想定しつつ書いていきます。
最初に結論を言っておきますと、僕の主張は最終的に、
「痛みの無い人生を送りたい、とかいう妄言は捨てろ」
という一言に集約されます。
+トランスジェンダーの“正しい”定義
とりあえず、記事から重要部を引用しておきましょう。
これが、トランスジェンダーの"正しい"定義です。
まず、この定義がなぜ"正しい"とされているのか? を友人向けに解説しておかないといけません。第一に、僕が友達に伝えるべきだと思う"正しさ"の理由、それは、この定義が生物学を用いていないという点です。「遺伝子に問題があって男/女なのにチンコ生えている/いない人」みたいな定義を使ってない、純粋に社会科学的な説明しか使ってないことが、ここでは重要です。
なぜ、生物学を用いないことが重要か? それは、ハッキリ言って、ジェンダー学が生物学に強い不信感を持っているからですね。
ぼんやり知っているとは思いますが、かつて、同性愛者というものは変態性癖の一種であり、変態性癖は医学と精神学の治療によって正常に戻せる、と考えられいました。その時代のトランスジェンダーってのは、もうとても悲惨で――幼少期から虐待めいた教育を受けるわ、薬を飲まされてわざと不健康にされるわ、あれこれを切り取られてとりかえしのつかない体にされるわ、最終的に鬱で自殺したりで死んでしまうわ——そういう一連のやつを推し進めていたのが、当時のアメリカの医者と生物学者だったんですよ。
こんなやつらの「科学的」な定義とか採用してたら、俺らの社会はまたトランスジェンダーの人たちに酷いことをやりかねーぜ!!!
……というわけで、ジェンダーという思想は、理系科学、とりわけ生物学には完全に背を向けているのでした。その考え方が、紹介されている"正しい"定義にも現れていますね。
ジェンダー学が理系科学を拒否した思想であることも、一部のジェンダー専門家や専門書の信頼できなさを増醸したり、それらを真にうけた人々がツイフェミとなって極端な発言をしていたり、あるいは逆に、弁のたつ科学者が市井のジェンダー主義者をテレビ番組でボコボコに論破する様がバズったり、まあいろいろ現代社会で影響がある(つまり友人が目にするジェンダー批判の多くがこの論点に依拠している可能性がある)のですが、今回それは議題ではありません。今日は別の話を主にします。
で、ここからが本筋。もう一点、この"正しい"定義から読み取れるものがありますね。それは、できるだけ広い範囲を定義の内に収めようとしている、ということです。
引用した定義が示すのは「帰属感情を抱けない人」です。「『強い』違和感を抱いている人」とか「生活に不備を生じている人」とかではない。もちろん「当該の医学的診断を受けた人」でもありません。これは実際、条件としてだいぶ気軽です。砕けた言い方をすれば、本人が心の中で思っているだけで良いのだと、明言しています。
これは意図してのことです。自分トランスジェンダーかもしれん……と悩んでいる人に、いいえ貴方は定義上のトランスジェンダーではない、とか言う必要が一切ないように、配慮した上で文言が選ばれている。対象になり得る人を残さず拾い上げたいという素朴な思いが感じられますね。
まあ、トランスジェンダーってのは、そもそも、レズでもゲイでもバイでもない人、という意図で生み出さなばならなかった用語ですしね。思いとは関係なく、範囲が広くなるのも当然という面もあるが……。
僕が今回、主に批判していくのは、この点についてです。
+普通を強調して本末転倒
もっかい繰り返しておきますね、トランスジェンダーの定義は「割り当てられた性別の集団側 には帰属感覚を抱けない人」です。
この定義には大きな問題がある僕は考える。というのも、この定義に従うならば、社会は別にトランスジェンダーの人を特別助ける必要はない。あまりにも条件が軽すぎる。
社会に割り当てられた集団に帰属意識を抱けない人とか、そんなもん他にいくらでもいる。
僕のある友人の話をしましょう。彼は度を過ぎて口下手です。もう十何年か友達をやっていますが、「おお」「うん」「いや」以外の台詞を聞くことがほとんどありません。何がしたいとか、どこに行きたいとか、考えたりはするのでしょうが、こちらから聞き出さなければマジで何も言いません。こっちから気をつかって、お前麻雀好きだったよな? するか? と聞いたら嬉しそうにするとかいう感じ。どこでもそんななので、もういいオッサンなのに、安い派遣しか仕事をしてなくて、いつも金が無いです。親の持ち家が無くなったらだいぶ不味いことになるでしょう。僕らはいつも、生活保護ってのはお前みたいな奴のためにあるんだからちゃんと受けろ、と言ってます。
別の友人の話をします。彼は自他共に認める映画ファンですが、ちょっと趣味が特殊です。いわゆるB級映画ですらない、ミニシアター系の低予算作品を好んで見ます。一方で、ハリーポッターやロードオブリングは、面白くなさそう、と言って見もしません。大作映画が好きな僕なんかとは、おもしろいつまらないで、結構口論もしますね。彼のオススメ映画を見ることも、結構あるのですが、僕が心から誉めれることは少ないです。これは、たぶんどこに行っても概ねそうで、彼が人生を賭けてすらいる映画趣味を他人大多数に理解してもらえることは、生きてる間ほぼ無いはずです。
彼ら、僕の友人2人が、社会集団にしっかり帰属感情を抱いているか?
そんなわけないですね。普通に社会の弱者、疎外された人物です。
じゃ、彼らが社会に帰属意識をだけるよう、社会は支援すべきなのか?
そんなわけがないんですよ。
彼らの弱さや苦難は、彼らの問題だ。
で、彼らを別に助けないのに、トランスジェンダーの人を助ける理由があんのかという話になるわけです。
前段で「この"正しい"定義は誰も取りこぼすことのないよう、極めて広い範囲をカバーしようとしている」と言いましたよね。そのせいでおかしなことが起こっているんですよ。広範をカバーしようとしすぎです。
別に僕や僕の友達みたいな完璧な社会的弱者を例示する必要などもない。そもそも社会に完璧な帰属意識を抱いているやつなんて、この世にいるのか? 性別、のニ文字を外すだけでほぼ全人類が入りかねない、トランスジェンダーの人とトランスジェンダーの境界が限りなく曖昧になる「定義」を、彼らは"正しい"と考えて使っているんです。
いや、それもまた、ある意味狙い通りなのかもしれませんよ? トランスジェンダーは普通と同じですよ、と言うことだって必要でしょうからね。そうだとしたらそれには全く賛成です。いや、まさに、トランスジェンダーとかただの普通の人だと僕は思ってますよ。僕らと何も変わらない。目の前にそいつがいても、何にも区別なく接する。友達として対等に扱う。いま紹介した二人の友人と同じように。
でもただの普通の人、対等の人なんだったらら、別に特別な支援対象にしなくていいんじゃないのかい?
周囲にわかってもらえない。
だから疎外感がある。
それで人生が辛い。
言ってしまえば、そんなの当たり前です。それの何が問題だ?
誰だってそう。僕だってそうなんだ。
ちょっとぐらいの汚れ物ならば残さずに全部食べてやる。
+いつのまにか利己的
こういうことを言うと、想定される反論というのがありますね。
まず第一に、いいやトランスジェンダーの人たちの苦しみは普通ではなく特別である(なぜなら幼少期からずっとだからだ、社会的属性によるものだからだetc..)、という反応が返ってくる可能性が高いですね。
これに対しての再反論はこうです。「自分の人生は他人の人生よりも大変だ、とか言ってて恥ずかしくねぇのか」
いや、実際、当事者の人はこんな恥ずかしいこと言わないと思います。言うのは、真に当事者の人生を理解してない支援者(または支援者気取りの外野)でしょう。自分のことではないから、自分が支援したい人たちに恥を負わせていると、気づけないんでしょうね。
本当に理解者でありたいと願い、彼らの人生をマシにしたいのならば、ここでは身体障害者で有名な「心までカタワになるな」という警句を思い起こすべき。トランスジェンダーの苦しみは特別である、というような主張はあの警句の真逆。心までカタワになればいいと言っちゃってる。
精神論を離れて、現実の話をしますと、人生の辛さは個別具体的であり、トランスジェンダーかどうかでは判別することはできません。ゲイだという理由でご飯を食べさせてもらえない小学生は助けるが、それはゲイは社会に帰属意識がないから、とかではない。飯を食えてないからです。飯を食えているゲイの小学生にご飯は与えなくていい。社会的属性によって人生の苦しみの多少は判断されなくて、個人個人を見ないといけないです(この話は記事のオチ部分でもします)。
別の反論も考えときますか。
第二の批判意見として、さっき僕が紹介したような友人たちは真に社会から疎外されてなどないだろ(トランスジェンダーの人たちは違うんだぞ)、と言われることもあるかもしれませんね。
僕の友人たちについて言えば、それは実際その通りで……そもそも、僕の友達だ、と紹介しました。つまり彼らには帰属意識をもつ仲間たちがいます。家族とか、僕たち以外の知り合いもいるでしょう。彼らは厳密な意味で「社会に帰属意識が無い人」などではない。それはそう。
でも、じゃあトランスジェンダーの人たちには友達とか理解者とかいないんですか? いや、いるはずなんですよ。トランスジェンダーであっても、厳密に言えば、社会から疎外などされていない。これが第二の再反論です。 記事が紹介している、トランスジェンダーの定義は「社会に割り当てられた集団に帰属意識を持たない」とか、簡単に言っちゃってくれてますが、厳密に『社会』とは何のことで、『割り当てる』とはどうすることでしょうか。記事や記事を読んだ人は、なんとなく、社会とは国家全体のことであり、割り当てるとは常識や法律で強制することだ、ぐらいに理解しているはずですが……そんな単純ではない。社会ってのは別に全体のことではないし、割り当てとかも別に万人への強制ではない。
社会はもっと多層的で、様々な姿や規模を持っています。地域社会があり、職場の社会があり、家族の社会があり、友人関係の社会があり、インターネット内に社会があり、国家と国家の関係する社会があります。そして、個人としてのヒトは、それらに重層的に属しています。日本国民であり、友人であり、夫・父であり、職場のベテランであり、サブの職場では臨時雇いに過ぎず、インターネットにはアバターとハンドルネームを持っていたりします。普通、人はそうやって複数の社会に属している。
だから、例えば一つの職場で何かあって帰属感情が無くなっても、家に帰ったら家族や友人の社会に帰属しているので生きて行ける。これはマジで普通のことなんですよ。
つまり、たとえトランスジェンダーの人たちが性別という一側面で国家?から疎外されているとしても(本当にに"疎外"まで言っているか?という論点もあるが置いておく)、トランスジェンダーの人たちはそれとは別の「社会」に帰属感情を持っているはず。それは理解ある家族かもしれないし、昔からの友達かもしれないし、ゲイバーの常連仲間かもしれませんが。
いずれにせよ、トランスジェンダーの人たちは、必ずしも社会から疎外された人たちではない。少なくとも、僕の友人たちと同程度には、社会に包摂されているはずなのです。
更に、第3の想定反論も考えときますね。
一つ目にも繋がりますが、それでも性別での社会的疎外は特別なんだ、と言ってくる人がいるかもしれません。性別で社会的に阻害されることは、他のことよりも特別に辛いのだ。トランスジェンダーであるのとは、男性であることや女性であることとは全く違うのだ、だから特別な配慮が必要なのだ、とか。本来、ジェンダー界隈が不信感を持ってるはずの、生物学に根拠を求めたりもするかもしれない。
これを言ってくる相手がいたら、僕はめちゃくちゃ叱り飛ばしたいと思います。「自分が何言ってんのか分かってんのか!」。実際のところ、これは想像上の反論を僕が作っただけですので。現実には、この相手は存在しないで欲しい。
僕はですね、ここまで、トランスジェンダーであることは普通だ、普通と同じに扱うんだという話をしました。それにレスバで反論したいがために、トランスジェンダーを普通扱いするな、トランスジェンダーを差別しろ、と言ってきてるってことです。
悪意がなくてもというか、悪意がないからむしろダメですよね。無意識の差別ってやつでしょそれは。20年前のベストセラー、社会福祉エッセイの金字塔「五体不満足」を読み直して、出直してきてください。まあ、出直す必要のある人とか存在しないはずですけれど。
……他にも反論はあり得るかもしれませんが、だいたいはこのあたりの応用で反論可能なはずです。いずれにせよ、ここでは簡単なんですよ反論とか論破は。何の意味もないくらいに。
だって本当に事実でしかない。事実を言うだけでいい。
トランスジェンダーではなくても、トランスジェンダーと同程度に辛い人がいる。トランスジェンダーであっても、別に人生が辛くない人もいる。
なのにトランスジェンダー属性の人たちに、配慮と利益を誘導するのは、利己的といえる。これを覆したかったら——利益の誘導はするがそれは利己的ではないと言うしか無いわけですので——平等、という価値を破壊するかしかない、それはどんな思想にも無理。LGBTってジャンルは、機会平等とも関係ないので(アイデンティティの問題であることは批判対象の記事でも橋長されている通りです)、アファーマティブアクションが効くような感じでもないし。
+全ての痛みを消し去りたい願望
っていうか本来は、社会にある差別を廃して、平等を実現するためにやってたはずなんですよ。トランスジェンダーを援護したい人たちもね。
それがいつの間にか、平等を破壊するような、利己的な自分本位の主張にすり替わってしまう。そうなる定義をメディアで"正しい"と言ってしまう。 なぜなのか? それがこの記事の批判であり、問題提起です。
再度、強調しておきたいのは、僕は、当該記事で紹介されている定義に思想的な問題がある、と言っているのであって、記事のインタビューで喋っているような活動家さんのLGBT活動が邪悪だとか言っているわけではありません(思想的に浅いとは言っているが)。
記事でもよく読んだら強調されてますが、LGBT活動家が無くしたいのは、トランスフォビア、なんですよね。フォビアとは恐怖症の意味で、つまり、うわっ、ホモだ! 怖い! キモイから寄るな! という感情が世間一般に広まっている状態のこと。
社会とは多層的で、個人が複数に属している、いう話をさっきしましたよね。でもそれは、全体が無いという意味ではない。仮に社会集団A・B・C・D・E・F・Gがあるとして、普通の人は大抵A~Eの社会に普通に属することが出来て、社会F・Gから疎外されているとしても生きていける。
ところがトランスフォビアってものが世間一般に広まっていると、LGBTの人は社会A~Gの全部から高確率で疎外されちゃって、新しい社会Xを作ったり探したりする必要に迫られる。これは、先述通り厳密に社会から疎外されてるわけではないとはいえ、不合理でしょう。クレヨンしんちゃんがピーマン嫌いといってるから幼稚園でピーマン嫌いが増える、みたいなノリで、トランス嫌いに増えられたら、いくら何でもたまらんわけですよ。
それを無くしたい、せめて減らしたい、という願いと行動は妥当だし、普通にわかる。
でも、それが狙いなのに、実質的に「平等は破壊します、我々が気に入った弱者にだけ利益誘導します」みたいなことメディアで発信してる。そりゃむしろトランスフォビアとヘイトが加速しちゃいますよ。逆効果です。
マトモな人は判ってくれる? 今現在判ってない人に判ってもらうのが必要なんでしょうが!
そんなだから、しっかり発信を読みこんで勉強したつもりのインターネッターがツイフェミとなって極端なこと言ったりさ、逆にアルファツイッタラーが匿名の誰かの極端さをリベラル全体のモンと見做して論破棒で叩いてバズったりさ、そう言う風になるじゃないですか。
そしてこれらの前置きをしたことで、ようやく僕の主張を展開できます。
僕は、そういった、ジェンダー論の議論に発生しがちな炎上や不寛容の拡散に関する責任、リベラリストたちのヘイトを買いがちな言論発信の責任は、大元の現代リベラリズム思想にあると思ってる。
SNS環境とか、政治とか、時代とか、個人の無能のせいではない。
もっと根本的な思想の方向性が悪い。
現代リベラリズム思想はですね、痛みの無い完璧な人生というものを、夢想してしまっているんです。
パワハラに会うことはない。
差別されることもない。
貧困に苦しむこともない。
教育を受け損ねることもない。
戦争が起きることもない。
プライバシーの侵害も起こされない。
暴力は使わないし使われる可能性がない。
およそ人権というものを侵害されることは一切無い。したがって己の尊厳を守るために戦う必要なども一切発生しない。
そういう人生を本気で理想として掲げていて、そうでない状態は理想じゃ無いから間違っている、改善を求めて抗議するのが、現代リベラリズムです。
これはおかしいんですよ。
このおかしさを表現するため、僕は仲間内で、人生において発生する苦難のことを「痛み」と呼んでいます(今も使いました)。文学批評用語からの拝借ですが。
+「痛み」のある人生を生きよ
マツコデラックス、みなさん好きですよね。僕も結構ファンでして。あの人の何が魅力かというと、すごく痛みのことを理解している。
「あぁ〜わかる〜。アタシもそう」とか
「だってしょうがないじゃない!!もおお!!」だとか
「アンタ本当にバカなんだから!」だとか
「今でこそこうだけど……ホントはアタシも〜」だとか
マツコの声と言葉には、百戦錬磨の深みと理解がある。それはたぶん——論旨が論旨なんで、しょうがなく露骨な言い方をしちゃうんですが——マツコがLGBT且つデブブサのオッサンであることと、まあ無関係ではないでしょう。あとたぶん、これは必ずしも個人の特性でもなくて、古き日本のゲイコミュニティ全般に広く存在した特徴なのかもしれんが。
ともあれ、人生における痛みが、それに立ち向かったことが、マツコデラックスの魅力ある人間性を形作っているんです。
だから思想は、全ての痛みを消し去ろうとしてはダメなんですね。
痛みのある人生をこそ、祝福しないといけない。
人間は皆、マツコデラックスになるべきだ。
……いや、わかってますよ。僕にもマツコが「アタシみたいな人生を送る人とか居ない方がいいに決まってるじゃない!」とテレビ越しに叫ぶ声が聞こえます。
でもそれとこれとは話が別です。
そもそも「痛み」を完全に世界から消し去るのは不可能です。痛みのある人生を送る人は、どう足掻いても出てくる。なのに、思想が「痛み」を消し去るべきと定義し修正を願うこと、彼らの人生の痛みを否定することは、「貴方の人生の痛みは、外的要因にもたらされました。本来は無いはずのものでした。貴方の努力は根本的には無駄で回り道で価値のないものでした」と言っちゃうことに繋がる。
そんなことを言う思想が、健全なはずがない。
むしろ、彼らの人生の現状は素晴らしいと言い、肯定しないといけない。
「あなたは確かに人生の苦難にあいましたが、これは避け得ないことだったし、むしろそのことで貴方はより魅力ある人間になりました。苦難にあったこと自体が良いことでした。よく頑張りました」と伝えないといけない。
古代から長く続く、仏教をはじめとする伝統宗教が伝えてきたメッセージと同じであることにも、注意してください。つまり思想として有効さが保証されているんです。
このメッセージは、例えば「差別される人をこの世から無くそう」などという考えからは、絶対に出てきません。
現代リベラリズムに欠けているのはこれなんです。
再度、対象記事を批判し直しましょう。
もう一度"正しい"定義の文を引用します。
この定義の裏には、「割り当てられた集団に帰属感覚をけないのはダメだから是正すべき」という現代リベラリズム的な前提があります。
実際、紹介してるこの記事は、定義の提示のあと、身体違和の発生とそれを解消するための性的移行の説明に終始します。
その違和感は我慢できないほど辛いのかとか、本当に解消すべきなのかとか、違和が本当に思春期の勘違いだったらどうするのかとか、移行リスクとコストのデカさは効果に見合うのかとか、そういう説明はしない。説明する必要すらないただの前提としてあつかう。知識のない人向けに解説するのが記事の趣旨なのにですよ。
また、記事の末尾も引用します。
社会的包摂を用意するのはマジョリティの側であり、自分ではない、という考えを隠そうともしない。理解されるのは自分たちであり、自分たちも歩み寄りますとかではない。対等であると言いながら、トランスジェンダー側は何を提供するのかという発想がない。
「痛み」が存在するのは間違っているのだから、間違いの是正に社会は無限のコストを負担せねばならない、という発想があるせいです。賠償責任のようなものがあるのだと思ってしまっている。その考えが、どうしたほうがより上手くいくか、現実にどうしているかという発想を、押しつぶしてしまっている。
順番が前後しますが、途中にも問題箇所がありますね。
自分も犯罪の被害者だ、と言っている。しかし犯罪をどう防ぐかの話はしない。
例えば、SNSに蔓延する誤解的な批判を牽制したいだけならば、「性犯罪者に機会をあたえるぐらいならば、トイレや公衆浴場に無制限に入る権利をLGBT側から要求することはない」「トランスジェンダーのフリした性犯罪者は普通に逮捕で構わない」とか発信したほうがよほど理解を得られたはずだが、そういう直接の発言は記事中にはなくて、匂わせながらも巧妙に回避している。
自分は「痛み」の受容側であり、「痛み」を与える側ではない。故に問題に対処するのは自分ではないという前提がある。社会の問題だから皆で考えましょうという発想が根本的なところにない。
こうなってしまう、経緯とか気持ちは、わからんでもないです。
昔のLGBTの人たちは、マジで生きてけないレベルの「痛み」を全員受けてて、これまでの社会運動が、頑張って痛みを軽減してきたことには尊い意味があった。昔ならば、下手に譲歩したらそのまま死にかねなかったので、自然と妥協なく戦うことになったし、他人を気にしてる余裕もない。実際それでLGBT運動は普通に成果を産んだ。だから、惰性で今も、ただ自分たちの「痛み」を減らして無くそうとする活動と発信だけを続けている。
でもね、もうそれじゃダメなんですよ。
自分たちが定義した「痛み」だけを見てるから、それを消すことだけ考えているから、僕の友達のような、社会運動の対象とならない普通の人間が同じ痛みを堪えて生きている——生きてくことが普通にできてるという事実を、見逃してしまいます。そして、自分のことにしか興味がないという立場に立ってしまい、本当の他人の「痛み」が見えずに、単なる利己性に陥ってしまいます。
実際、こういう話をする人はしばしば「ポリコレなんて所詮かわいそうランキングだ」みたいな拒絶にさらされている。
それが現代だ。
だから、なぜリベラリズムが「かわいそうランキング」に陥るのか、それを避けるにはどうするべきか、私たちは考えないといけない。
僕の考えでは、それには「痛み」を抱えたまま生きることを受容する必要があります。
+「エンパワメント」から逃げるな
90年代フェミニズムに導入された重要な概念に、「エンパワメント」という語があります。
エンパワメント(Enpowerment)とは、支援の目的は直接助けることではない、被支援者(=女性)が自立して、自ら闘って権利を勝ち取れる存在になるようでなければならない、という考え方です。それまで行われてきたような社会支援が、かえって女性の自立を妨げるようことがあったので、それはだめですよ、という問題定期から出てきました。
このフェミニズム概念は、90年代ごろから出てきた、つまり、70〜80年代に拡散した初期フェミニズムには含まれていません。むしろ既往のフェミニズムを修正しようという意図で出てきました。だから、ネット記事の総覧的な記事でフェミニズム思想を理解している人間、あるいはジュティス・バトラーみたいな古典でしかフェミニズムを学んでないい人間の多くは、エンパワメントの重要さを把握してない。
もっと言えば、例えば概念の上っ面の定義を知っていても、真にその過酷さと重要さを理解してないことも多いと僕は思ってる。
エンパワメント概念が言わんとしているのは、僕がここまで「痛み」という語で語ってきたことそのものです。
被支援者=LGBTは、理解を求めたり、社会に助けてもらう存在であってはならない。
誰かに理解されなくても生きていく、助けてくれる仲間は自ら勝ち取る、理不尽にあったら己が反撃する存在でないといけない。
支援者の目的は、LGBTの人生から困難を減らすことではない。彼ら自身が自力で困難に抗えるように促し、見守る存在でなければならない。彼らが戦わなくてもいい社会を用意することが運動の目的であってはならない。
これね、言葉にすると簡単ですけど、現場に近いほど精神的にキツイと思う。ていうか、言葉に出すだけでもキツくなりがちなんで、直接言葉にされること自体あんまりない。だから、あんまりわかってない人ばかりだと思う。自分もかつてそうだったはずだ。
可哀想な支援されるべき人が目の前にあらわれたら、支援者は最終的に、現実を弱者自身に理解らせる必要があるんですよ。「あんたが辛いのは死ぬまでなくならないし、それはこの事務所に相談に来たからって消えやしない。私にできるのは、仮の避難所になることだけで、最終的にあんたを応援しながらも放り出すし、結局のところ戦うのはアンタだ」。そういって突き放さなければならない。
“寄り添う”とか“共感してあげる”とかは、本質的に一時凌ぎのお為ごかしで、極論、彼らを騙して誘導するための行為にすぎない。そのことを社会福祉活動を志すならば知らないといけない。
相手はだいたい援助だけを求めて来てるのだが、それを与えてはならない。どんな経緯があるにせよ、弱者として現れたなら、彼/彼女は、今は碌に独り立ちもできなてないガキみたいな個人だ。活動家の目の前にいる人の人格は、基本的に平均より下の、人によってはクズと呼ぶような人たちだ。支援者は、そのクズのガキを宥めすかして、やる気にして、ありあわせの武器防具だけ持たせて「エンパワメント」して、最後には一人で闘う人生に追い出さなきゃならん。
闘うのは、個々人なんだから、そりゃ中には負けて死ぬやつもでる。それすらも受け入れないといけない。それしかできないんだから。
このように、全員は救えない、彼らを自立させねばならないと理解しながら活動するのは、全員を完璧に救うために頑張るよりもはるかに辛いはずです。
いいですか、僕は自覚しているし、読者の皆さんもそうであって欲しいんですが、僕はいま、極めてセンシティブな話をしています。LGBTの話をするよりもずっとセンシティブです。
今話しているようなことを変に推し進めると、例えば、虐待されている小学生に「君の両親は確かにクソ野郎だけども、それは誰もが我慢してる、仕方のない痛みなんで我慢しなさい」って言って虐待両親の元に返してしまうとか、社会保障の金を求めている人に「あんた頑張ればホントは稼げるでしょ?」と言って返すとか、そういうことになりかねない。ていうか実際に児童虐待を放置したってニュースになってる現場で起きているのはそういうことでしょう。雑に現実に適用すると、絶対に失敗する。普通よりもコストと手間が凄くかかる。めちゃくちゃ繊細な話です。
でも実際に、一人の人生に本当に必要なのは、クソみたいな痛みのある人生を生き抜くための、勇気と知恵、闘争の覚悟、それらを得て自立することだったりする。
……この記事、上手くセンシティブの境界上を綱渡りできていますか? 僕も何度も読み返して確認しているが、それほど自信があるわけではない。
とにかくエンパワメントは難しいんですよ。
難しすぎて、繊細過ぎて、エンパワメントに関する語りは今、あまりにもされてない。今回批判対象にした記事にも全く意識されてない。
でもこの難しくて繊細な思想だけが、リベラリズム思想が完璧な人生なの有害な夢想を捨て去り、「痛み」を受け入れる、唯一の道です。
おそらく、現場で支援活動をしている人たちは、無意識にエンパワメント的なこともしているでしょう。現実に適切に対処してたら、普通にそうなるはず。なってないなら適切でないとして怒られるだろうし(インターネットで怒られ炎上した団体もありますね)。
ただ、現代リベラリズム思想の言説は、それを反映していない。難しさから逃げて、全員を完璧に救いたいとかいう夢想だけを語っている。
夢想を間に受けた人々の言葉が今日も再生産されている。
+全体に関する語りを一切排せ
と、大体これで僕の言いたいことは言い終わりましたが。
でも、ここまで文句だけ言ってきまので、じゃあどうすれば良いのかについてももっと述べとかないと、流石に無責任だと思った。
どうすれば良いのかで言えば、個別ケースごとの具体性に沿わない語りは一切排する、ことだと思いますね。
トランスジェンダーであるから主体性を奪われているだとか、マジョリティであるから普通に生きることができてるだとか、そういう話は一切しない。実際に人それぞれなんだから。
先日、経済産業省のトランスジェンダー職員が、女性向けトイレの利用を制限されているのは違法だという最高裁判決が出て話題になりましたが、あれもまさにそうです。
最高裁の結論は、当該職員は戸籍上男性とはいえ見た目上は女性っぽく見える人物であることや、裁判の間に時間が経過し最高裁時点で4年間トランスジェンダーとして勤めている、しかも特にトラブルもなかったこと、別に経済産業省の上司に明確に規制を求めた女性職員が居たわけでもないこと、などを重視したものでした。要するに、その職員その職場だから今回はこういう結論になった、という種類の判決です。最高裁も、今後は毎回個別ケースごとの判断が重要であることを補足で強調しています。
これはまったく日本の司法の言う通りで、常に個別ケースごとに判断するしかない。
個別ケースで見る、という前提さえあれば、こいつはエンパワメントの論理で、助けるというより鍛え上げるべき相手だなとか。逆に、こいつは虐待されてて、このままでは暴力で死ぬので全面的に保護して匿わないといけないなだとか。そういう判断もつくはず。それで少なくとも思想上の問題点はなくなる(実務上の問題だけが残るという意味ですが)。
個別具体性にアプローチする方法として、ジェンダー学全体から、科学への不信もさっさと廃したほうがいいと思いますね。結局、具体性をもたらすのは客観性だったりするんだから。
まあこれは一朝一夕にはいきませんが。科学の側の進歩具合も関係するだろうし。
今回けちょんけちょんに批判した記事で、僕がどこを一番間違っているのか? を改めて述べると、記事が存在すること自体が間違っているよ。だって「トランスジェンダー全般とはどういうものなのか? を述べて、理解させようとする」のが趣旨ですよね? そのような全体について語るべきじゃない。トランスジェンダーは高確率で○○だとか、○○するような人はトランスジェンダーには居ないだとか、そうやって雑に全体を語ってると、まず個人の痛みを見逃すという致命的なやらかしに繋がる。だけでなく、単なるレスバ上でも、別の具体性に横っつらを殴られることになるでしょう。ていうか、もう殴られてるでしょう? SNSで炎上してる、トランスジェンダーのフリしたアメリカ人男性の汚い画像が、ゴリラのウンコめいてぶん投げられたりして。
どうしても何らかの発信がしたいなら、もっとエスノメソドロジーめいた、事例を延々列挙するような形にするべき。
最後に、そもそもこの記事を書こうと思った友人に向けて。
君もそろそろ管理職って年齢だし、たぶん、LGBTよくわからんけど配慮したほうがいいのか〜? とか雑にジャンル全体で考えてると思うんだが、そういうの気にしても仕方ないから、気にしなくていい。
それよりも、目の前に実際当事者が現れた時に、そいつ本人に配慮が要るのかを考えるようにしよう。配慮してほしいか、配慮とか要らないか、あるいは君にとって助けたいか、ムカつく相手か、全部相手によって違う。目の前にいるのがどんな相手かにまず興味を持つ。興味を持てるような、心の準備をしとくことだと思うぜ。
以上で、友達の興味関心に便乗して、リベラリズム批判を好き放題に語るブログ記事を終わります。ありがとうございました。
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