映画「ふたりの女王」:女性が男性社会で権力をもつとは・・・
やはり嫌なことは続いている。しかも、悪化したかなぁ~
その上、締め切りの仕事にほとんど手すら付けていないというこの体たらく。
そんな中、映画など見ている暇はないのだが、「ふたりの女王:メアリーとエリザベス」を見た。
というのも、あまりにも頭も心もグチャグチャで、まったく働くなっている状態なので、気分転換というか、むしろ、頭をすっきりさせて論理的な思考に戻るためのトレーニングになるかなと思った次第。
でも、それ以上に、何でもいいから楽しみたかったんだよねぇ。
だから、歴史物なら、少なくともコスプレ感覚で楽しめるだろう思って見始めたわけである。
しかしながら、メアリーとエリザベスというふたりの女王についての私の予備知識は学校の世界史程度だったので、この映画もはじめはストーリーを追うのに精一杯だった。
でも、ふたりの対比が、ストーリー的にも演技的にも見事で、見続けるにつれ、歴史物というよりも、現在の物語としてとても面白く、深く考えさせられた。
では、今回はその点に重心を置いて、感想を書いておこう。なお、以下はネタバレを大いに含みますのであしからず。
もちろん、コスプレ的にも素晴らしかったですよ!
概要と、対照的なふたりの女王
まず簡単な概要を映画の公式サイトから・・・
この映画の邦題は、「ふたりの女王」だが、原題は「Mary Queen of Scots」、つまり「スコットランド女王メアリー」であり、そのことからも分かるとおり、メアリーに重心が置かれている映画である。
確かに、エリザベスの出番は相対的に少なく、ストーリーはメアリー側の出来事を中心に動いていく。
とはいえ、対比が見事だったため、邦題でも違和感はあまりないと思った。
それは、メアリーとエリザベスを演じた二人の俳優が、ともに素晴らしい演技だったせいもある。
メアリーはシアーシャ・ローナン、エリザベスはマーゴット・ロビー。
始め、とくにシアーシャは女王の威厳を演ずるには少々若すぎるかなと思ったが、見進めていくと違和感はあまり覚えなくなっていった。
でも、この二人、2018年の映画だから当時は24歳と28歳だったんだよね!すごい演技力!
対照的な二人でありながら、いずれも苦悩していることが、手に取るように画面から伝わってきて、その説得力はなかなかのものだった。
両者ともに演技巧者として名前は聞いていたが、なかなか覚えられずにいたので、これを機会に、二人の名前はきちんと思えておこう!
メアリーとエリザベス
さて、時は16世紀。
この時代、女性も王位継承権を持つことができたにしろ、やはり実質的には男性が支配していた時代。
そんな中、王位継承権をスコットランドだけでなくイングランドのそれももつメアリーと、王位を継承したものの庶子という立場で権力基盤に揺らぎを感ずるエリザベスという、それぞれ権力の在り方を異にしながらも国のトップに立つ女性二人が、その権力とともにどう生きるのかという物語である。
まず、メアリーとエリザベスとの確執が、イングランドの王位継承権の問題にあったとは、知らなかった!
メアリーは、フランスから帰国後、正統なスコットランド女王に戻るとすぐに、イングランド女王エリザベスにも、その王位を自分に継承するよう要求する――それは、メアリーにとっては正当な要求だが、エリザベスにとっては脅威だ。
とくにエリザベスは、少々年齢がいっているにも関わらず、まだ結婚しておらず、子どももいない。一方、メアリーは年齢も若く、美しい。再婚と出産に意欲的であり、もし彼女が世継ぎを産んだら、エリザベスにはさらに脅威を増すことになる・・・・。
こうした対照において、エリザベスはいわば嫉妬めいた感情を抱え、苦悩する。とくに天然痘に罹患したときなどは痛々しかった。
一方、メアリーのほうはあまり頓着せず、「同じ女として」という言葉をエリザベスに投げかける。しかも、それは戦略的な揺さぶりというより、それが当たり前だと思っているようにも見える。
たとえば、メアリーがエリザベスに優越感を見せる場面があるが、それは、女としての優越感というより、権力者(女王)という文脈では、女であるという部分も多少利用してもいいよね~、くらいの感じだ。
こうしたいわば無邪気さが透けて見えるからこそ、エリザベスにとってメアリーは、より厄介な相手だったのかもしれない。
「権力者であること」と「女性であること」
そもそもメアリーにとっては、「権力者であること」と「女性であること」は、それはそれ、これはこれ、という具合に、互いに別個の問題であり、それらが絡み合って阻害しあうなど想像できなかったと考えられる。
そこには、メアリーが、生まれてすぐにスコットランド女王になり、フランスに嫁つぎ、夫の死後にスコットランドに戻り、女王として君臨したという経緯が関与してしている
王位は、メアリーにとって、生まれついてから空気のように自然で疑う余地のないものであった。その自然さは、自分が女性であることとも同じだったから、両者が調整しなければならないものとは思いもしなかったのだ。
しかし、エリザベスの場合、王位はけっして自然なものではなかった。
彼女は庶子として王位に就き、それを維持をしていくためには、自分の人生すべてをかけて、常に神経を張り詰めていなければならならなかった。
そこでは、自身が女性であることも必然的に絡み合い、少し気を許せば自分の女性の部分に付け込まれて王位を奪われてしまう(男は結婚すれば相手の権力が欲しくなる!)。
王位は、自然でゆるぎないものでも、それはそれ、という感覚で割り切ることができるものでもなかったのだ。
女性であることにつけこむ男性たち
この対照は、二人の女王の違いや、それに起因する確執や嫉妬という形だけでなく、それぞれの宮廷における男性たちの思惑によって、さらにこじれていく。
男性たちの中には、もちろん(?)女性が王位に就くことに反発する者もいるが、一応、認めている者もいる。
ただし後者も、自分たちの都合に合わせて操ろうとし、とくに結婚という手段を通して策謀をめぐらし、からめとろうとする。
つまり、男たちの攻撃の的は、彼女たちの権力そのもの(王位継承権)に対してというよりも、じつは「女性」という部分なのである!
よって、結婚に代表される男性との関係が、彼女たちの女王(権力者)としての人生にも大きく影響を与えていくことになり、それがこの映画のストーリーの軸となっている。
言い換えれば、この映画は、女性たちが、男性社会の中で権力を持っていくためには、自らの女性性において、どう行動するのかという物語としてみることもできるのだが、これって、現代にも、ある意味、通ずる話ではないだろうか。
エリザベスの選択と答え
さて、エリザベスのそれに対する最終的な答えは、「男になる」ことだった。
彼女は、レスター伯ロバート・ダドリーという愛人はいたものの、その彼とさえ結婚を拒み続けている。政略結婚ももちろんだ。
側近たちは、若くて出産可能なメアリーの話をことある毎に持ち出し、彼女の「不安」をあおりながら、エリザベスも早く結婚すべきだと「助言」する。
しかしエリザベスは、結婚したら、相手男性が自分の権力を欲しくなるだろうことを十分に知っている。さらに結婚は後継者を生むことにもつながり、そうなれば権力の関心は、自分から世継ぎへと移っていく・・・・この男性社会では、女性が権力を持つと、男性たちがよってたかって、彼女の「女性である」部分に群がることによって、その権力を奪取しようとすることを、エリザベスは十分に理解しているのだ。
だからといって、エリザベスは、自身の女性性を全く無視しているわけではなく、否定もできていないことは興味深い。
むしろ、女性性を満たそうとする望みは小さくなく、愛人との関係や、自分の容姿、年齢などとどう折り合いをつけていくかについて、ずっと悩み続けていく。
とくに天然痘によって容姿が崩れた時、愛人のもとに駆け出す彼女の姿は悲壮だ。
そしてその苦悩の果てで、彼女は「男になった」と表明するのである。
メアリーの選択と答え・・・でも男性社会は甘くない!
他方、女であることが王位の支障とはならないと考えるメアリーは、女性であることと権力の問題を切り離そうとする。
彼女は、女性であることも満喫しようとし、王位継承権問題とは関係なしに相手を選ぶ。王位継承権は安泰だから、これ以上、戦略を練る必要はないというわけだろう。
そしてダーンリー卿ヘンリー・スチュアートという、眉目秀麗で物腰がウィットに富むが政略的にはむしろマイナスな男性に惚れ、その選択に反発した宮廷の男たちの声を歯牙にもかけずに結婚した。
彼だったら、女としての喜びを与えてくれるかもしれないと思ったのだ。
しかし、彼はじつは男性にしか欲望を抱かないことがすぐに発覚する。
よってメアリーは、せめて妊娠だけはと考え、彼と暴力的な関係を結び、彼には「種馬」以上の期待をしなくなる。
そうした扱いを受けたダーンリーは、政治にも関わらせてもらえず、結果、年がら年中酒におぼれ、二人の間にはほとんど感情的な通い合いはなくなっていった。
メアリーの転落は、こうした男性との関係についての彼女の見誤りから始まったといえるだろう。簡単に言ってしまえば、彼女は男性たちを甘くみすぎていたのだ。
しかも、彼女が甘く見ていた男性とは、恋人・夫としての男性だけでなく、宮廷などの男性たちすべてでもあった。
実際、メアリーを、ダーンリーと結婚させても中々コントロールできないと苛立った男性たちは、彼女の評判を落とすために、彼女のおつきの男性芸術家リッチオとの不倫をでっち上げ、見せしめとしてリッチオを殺害する。
しかも、リッチオはじつはダーンリーと関係があった。よって彼の殺害は、ダーンリーのゲイ疑惑を打ち消すためでもあり、よって、リッチオのとどめはダーンリーにやらせる、という念の入り用だった。
男性たちは、女性を道具に使うだけでなく、男性だって容赦なく殺すのだ!
その後、ダーンリーも殺されると、メアリーは別の男性に犯されるように結婚させられる。もはや、このあたりになると、映画の冒頭での無邪気なメアリーの面影はない。
そしてダーンリーとの間に生まれた一人息子も義兄弟に取り上げられ、さらに、内乱にも敗れると、メアリーはエリザベスから支援を求めるためイングランドに赴き、会見に臨む。
メアリーは、すべての男に裏切られ、同じ女性なら分かってもらえる、救ってもらえると考えたのだ。
果たして、そのメアリーの最終的な答えは報われたのか?
二人の対面とすれ違い
この二人の会見は、じつは史実ではないという。
しかしこの様子は、非常に印象的に描かれており、映画のクライマックスにふさわしいシーンになっている。
二人は、会見場所たる古城跡の中で、カーテンのような布に幾重にも遮られ、互いに歩みつつも、すれ違いが続き、なかなか相まみえることができない。それは、二人の複雑な心の揺れの表現なのだろう。
そして二人がようやく顔を合わせたとき、メアリーは女として理解してもらえるはずだと語りかける。しかし、エリザベスは「私は男になった」と語り、カツラを外しして自らをさらけ出して、悲壮な表情で拒絶する。
ただし、エリザベスが、女であることを十二分に理解していたからこそ男になったと考えるならば、彼女も、女性であることにメアリーと同様に傷ついており、その痛みは十二分に理解していたと言えるだろう。
その意味で、二人は、男性社会で権力を持って生きる女性として、最もわかり合えるはずの相手であった。
とはいえ、最終的に男性社会の論理のなかで生きることを選んだエリザベスは、メアリーを助けることはできず、メアリーはとらわれの身となり、最後は、処刑の場面に進んでいく。
この処刑がこの映画の本当の最後の場面だ。
そのときも、エリザベスは処刑のサインがなかなかできずに、ペンからインクがしたたり落ちる。
一方、メアリーは殉教者の赤の衣装で身をくるみ、ある意味、堂々と、もはや神にのみ救いを求めて、首を差し出して、映画は終了する。
この二人の、ためらいと諦観・・・・
最後の最後まで、二人の男性社会に対する姿勢は対照的だが、その一方で、最後の最後まで、男性社会において権力を持つ女性という最も似たもの同士として、心が通い合えるかもしれない二人だったはず、という余韻が残る・・・
おわりに:皮肉なオチもある!
今回も長くなってしまった。ちょっと長すぎかな。
でも、はじめは軽く見ていた映画だったにもかかわらず、これだけアレコレと考えることができたので、ちょっと楽しかったかも!
あ、それと、思い出し書きなので、あらすじに若干間違いがあるかもしれないことも、あらかじめ謝っておきます。自分の解釈が勝ってしまうと、しばしば記憶が解釈にひきずらてしまうこともあるので・・・・とはいえ、間違いが分かったら、そのつど訂正しますので、ご容赦!
それと、この映画、ほかにも興味深い対称性があちこちに見られ、ストーリーは単純だが、非常に豊かな象徴性と意味に満ちた映画であることも最後に触れておきたい。
たとえば、それぞれの宮廷における男性たちの描き方として、メアリーの宮廷では、女王を含めた円卓にて会議が行われ、一方、エリザベスの宮廷では、女王を出待ちする男性たちの群れ、という対称性。
また、非常にストイックで礼儀正しい雰囲気のイングランドの宮廷に対して、動物の仮装劇のようなものが催され、男女の放縦な関係も垣間見えるスコットランドの宮廷という対照性、などなどだ。
それらは、意味を読み取る楽しさも有るが、何よりも、見ていて単純に楽しく美しい画面だった。
そして、今回は触れなかったけど、カトリックと長老派の対立も、重要な要素だろう。それは宗教の教義的な側面だけでなく、政治的な側面や、男女の在り方に関する規律的・象徴的な意味ももっている。
う~ん、この映画、意外と奥が深いなぁ~。
イギリスの話って、歴史を含めてあまり知らなかったけど、ちょっと興味がわいてきた。
ちなみに、エリザベスは、ご存じの通り、イングランドの黄金時代を築いたわけだが、じつはエリザベスの後、王位を継承したのはメアリーの子なのだそうだ。
彼は二つの王位継承権をもっていたため、イングランドとスコットランドの王ジェームズ1世となって、連合王国の端緒を築いたとのこと。そしてさらにびっくりしたのが、その彼の直系が現在のイギリス王室というのだから、何というオチ! これって皮肉なのか、なんなのか・・・
事実は小説よりも奇なり? あるいは、イギリスって奥が深い?
ともかくも、良い映画を見たなぁ~