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CANCER QUEEN ステージⅡ 第8話 「抜歯」



    退院の翌日、キングは久しぶりに出勤した。
    出勤簿には年休と療養休暇のスタンプがずらりと並んでいる。そのわずかな隙間に、出勤した日を示す印が、申し訳なさそうに押してある。
    キングは職員一人ひとりに経過を報告して回った。みんなはいつもどおり温かく迎えてくれる。
    世間ではがんになると職場にいずらくなって、退職を余儀なくされる人も多いというのに、キングは恵まれているわね。

「また帰ってきました。これで出戻りは何回目かな」

 と、キングが頭をかいた。

「お帰りなさい。早かったですね」

 ベテランの山川さんが笑顔で応じた。

「今回の入院はよけいでした。抗がん剤治療のつもりが、急きょ、血栓の治療に変わってしまい、拍子抜けしました」

 中堅の中田さんも優しく微笑んでいる。この2人の笑顔に、キングはいつも癒されている。

「血栓のほうは、もう大丈夫なんですか?」

 山川さんが心配そうに訊ねた。

「はい。もう消えちゃいました。でもまだ、血をさらさらにする薬は飲んでいます」

 山川さんは怪訝そうな顔をした。

「がんは血を固まりやすくする物質を出すので、また血栓ができないように、しばらく飲み続けないといけないそうです」

「じゃあ、抗がん剤治療はまだできないのですか?」

 普段は口数の少ない中田さんが、めずらしく聞いてきた。彼女の柔かな声は耳に心地よい。

「その前に、奥歯を抜くことになりました」

 2人はますます不思議そうな顔をした。

「今回の入院の前に、奥歯の下の骨にひびが入っていて、そこにばい菌が溜まっているのが見つかりました。抗がん剤治療で免疫力が落ちると、ばい菌が悪さをするといけないので、先に抜歯することになりました」

「そうなんですか。いろいろたいへんなんですね」

 と、中田さんがいかにも気の毒そうに見上げている。

「そんなわけで、次はいつ入院できるかわからないのですが、そのときはまたご迷惑をおかけしますが、よろしくお願いします」

「わかりました。でも、大王だいおう部長がいないと仕事が回らなくて困ります」

    仕事には厳しい山川さんに、お世辞にもそう言ってもらえると、キングも悪い気はしない。
    そんなやり取りを、離れた席から、社長が少しばかり渋い顔で聴いていた。
    どうやら、キングはすぐには首にならないですみそうね。安心したわ。

    退院から1週間後、キングは口腔外科と呼吸器科の診察を受けた。
 この病院はいつ来ても、どの診療科も混んでいる。キングが口腔外科から呼ばれたのは、呼吸器科の予約時間の数分前のことだった。
    斎藤ドクターが、キングの口の中を覗き込みながら言った。

「この奥歯は、抜くにはちょっと難しい場所にありますね。ワーファリンを飲んでいるので止血もしづらい。通院でも抜歯はできますが、止血管理のためにはできたら入院をお勧めします」

 え、また入院? キングも困った顔をした。

「抜歯自体は簡単に終わりますが、抜いたあとに大きな穴が残ります。そこに血が溜まる。出血は夜が多いので、念のため、1泊2日で入院したほうが安心かと思いますが、難しいですか?」

 と聞かれて、キングは不承不承同意した。
    これで4回目ね。こうなったらもう何度でもいいわ。でも、キングが首になったらどうしよう。

    入院は2日後になった。今回は7階の呼吸器病棟ではなく、12階の口腔外科病棟だ。ラッキーなことに窓側だった。大きなガラス窓からは、横浜の景色が一望できる。
    こんなにすばらしい眺めなのに、1泊だけなんて残念ね。抗がん剤治療もこのままここで受けさせてもらえないかしら。 

    キングが病室に入ると、看護師さんが例によって入院規則を説明し始めた。4回目ともなると、キングはすっかり頭に入っている。そこは彼女も承知していて、ほとんど省略した。
    彼女は機転が効くのね。今回は歯を抜くだけだから、キングもリラックスしているわ。

    奥歯の抜歯はびっくりするくらい簡単に終わった。キングは午後3時に呼ばれて、4時前には病室に戻った。
    抜歯をしたのは斎藤ドクターではなく、研修医の中野ドクターだった。彼女のテキパキとした施術のおかげで、キングは麻酔の針が歯茎を刺したときにチクっと感じただけで、抜歯自体は痛みもなく、あっというまだった。 
    キングの場合は斎藤ドクターの言うとおり、抜歯よりもそのあとの止血のほうがたいへんだった。シーネという歯に被せた透明なカバーの下から、血がとめどなく滲み出てくる。今夜一晩で血が止まるのかと、キングが不安に思っていると、タイミングよく中野ドクターが回診に来た。

「このくらいは血が出るので、心配ありません」

    そう言われて、キングはようやく安心した。

「痛みはありますか?」

「さっき、痛み止めの薬を飲んだので、今は大丈夫です」

    中野ドクターはにっこりと微笑んで、指でOKのサインを出してから、颯爽と病室を出ていった。
    齢はお嬢さまより若く見えるけれど、頼りがいがあるわね。格好いいな。わたしも今度生まれ変わったら、絶対、ドクターになってやるわ。がん細胞なんて、もうこりごり。

    この病棟には口腔外科のほかに、腎臓内科と形成外科、それに眼科の患者さんまでいる。
    隣のベッドの患者さんのところには、看護師さんが頻繁に来ては、大きな音を立てながら、喉の奥に絡んだ痰を吸引している。
    廊下側のベッドの2人はいつもカーテンを開け広げているので、キングは目が合うたびに会釈をするけれど、2人ともにこりともしない。1人は寝たきりで、看護師さんが下の世話をしている。かなり年配で、ナースコールができないからか、ときどき、

「おーい」

    と、蚊の鳴くような声で看護師さんを呼んでいる。

    トイレの横の患者さんは、いつ見てもベッドに腰掛けたまま、怖い顔で病室の入口を睨んでいる。看護師さんには気を許しているのか、たまに笑い声が聞こえてくる。

    同じ病院でも、病棟によってずいぶん雰囲気が違うのね。キングは7階のように、がん患者ばかりだと気が滅入るようだけれど、この病棟のように、なんの病気だかわからない患者ばかりでも落ち着かないみたい。
    もともと病院は病気を治すところで、ホテルとは違うから、そんなに居心地がよいわけはないけれど、4人部屋でももう少し落ち着いて過ごせるといいわね。病気のときにこそ、ゆっくり休みたいのに、相部屋ではそれもかなわないわ。
    それにしても、日本の病院はどうしてこんなに個室の料金が高いのかしら。この病院ではなんと、1泊2日で2万円から5万円もするというのよ。まるで一流ホテル並みね。いくら医療保険制度で医療費全体は安くすんでいるといっても、差額ベッド代がこんなに高いと、よほどのお金持ちか、高額な保険をかけている人くらいしか個室には泊まれないわ。なんか、格差社会の矛盾を感じるわね。
    とまあ、また、がん細胞のわたしが文句を言ってもしょうがないか。もともと、キングの入院の原因はわたしにあるのよね。ごめんなさい。キングはよくがまんしているなあ。

    病院の夜は早い。 消灯時間が過ぎると、まだ10時だというのに、病室はシーンと寝静まっている。
    キングがいつものように、寝る前に用をすまそうとトイレの前まで行くと、カーテンの隙間から、患者さんが今にも床に落ちそうな様子が見えた。ナースコールで看護師を呼ぼうとベッドに戻ったとき、ゴツンという大きな音がした。急いで行ってみると、その男性はベッドと物入れのわずかな隙間に、体をねじるようにして頭から落ちていた。身動き一つしないので、気を失っているのかと思い、キングはあわててナースステーションに駆け込んだ。呼ぶより行ったほうが早いと判断したからだ。ところが、ステーションには誰もいなかった。カウンターの内で、いくつものナースコールがけたたましく鳴っている。

「すいません!」

 大声で呼んでも誰も出てこない。

「すいません!」

 もう一度叫ぶと、遠く離れた病室から看護師さんが出てきた。

「隣の人がベッドから落ちています」

    キングの言葉に、彼女は一目散に駈けだした。

「やだあ、どうしたの。長谷川さん、大丈夫?」

 反応がない。起こそうとしても、重い体が狭い隙間にすっぽりとはまり込んでいて、彼女一人ではどうにもならなかった。

「長谷川さん、どこか痛いところはない?」

    彼女がもう一度声をかけると、

「うーん、ない」

    と、かろうじて小さな声が返ってきた。そのあと、駆けつけた看護師が3人がかりで抱きかかえて、ようやくベッドに戻すことができた。

    やれやれ、これでゆっくり眠れると思ったら、明け方になって、また別の患者がベッドから落ちた。
    まったく、この病室はどうなっているのかしら。

 今度はすぐに、看護師さんたちが駆けつけてきた。

「あら、秋山さん、どうしました?」

「トイレに行こうと思ったんだけど……」

    キングはベッドで、耳をそばだてている。

「仰向けになりましょう。動けますか?」

 カーテンの向こうから、ごそごそと衣擦れの音が聞こえてくる。

「ここは痛みますか? 頭は打ちましたか?」

「いてて。肩が痛い!」

「頭は痛くないですか?」

「……」

「血圧は大丈夫です」

    と、もう一人の看護師さんの声。

「動かないで、しばらくこのままでいてくださいね」

「しょんべんしたいんだ」

「トイレには行けそうですか? 尿器を持ってくるので、ここでやりましょう」

「大丈夫だ。腰を掴んでくれ」

 患者はなんとか自分で立とうとしているようだ。ガサガサという音のあと、ドアが閉まる音がした。 

「終わったら、呼んでくださいね」

 どうやら患者は無事にベッドに戻ったようだ。
   そこに、ドクターが駆けつけてきた。

「秋山さん、レントゲンを撮らせてください。どこを打ちましたか? 頭は打ちませんでしたか?」

 看護師と同じ質問をする。

「頭は打っていない。肩と腰が痛い」

 秋山さんはまた同じことを聞かれて、少し苛立っているようだ。

 病室にレントゲン撮影機が運ばれてきた。
    それから20分程してから、ドクターが結果を報せにきた。

「肋骨と脚の骨が何本か折れていました。しばらく安静にしていてください」

    やっぱりね。あんなに大きな音がしたんだもの。頭を打っていなくてよかったわ。

    キングは夜中の騒ぎですっかり寝不足のようね。いつまでもぐずぐずと布団を温めている。
    キングの朝食が終わるのを見計らったように、斎藤ドクターが診察に来た。

    奥歯を覗き込みながら、

「痛みはありますか?」

    と聞いた。キングがうなずくと、

「痛みは1週間くらい続きますが、血は止まっているようですから、予定通り、今日退院でいいでしょう。念のため、シーネは付けたままにしておきましょう」

 キングは顔をしかめた。シーネがあると食べ物をうまく噛めず、強く噛むと奥歯がひどく痛むためだった。

    今回の入院は楽勝だと思っていたのに、とんだハプニングだったわ。キングもお疲れさまでした。
    でも、これからが本番。ようやく抗がん剤治療ができるところまで辿りついた。いったい、あと何日入院することになるのかしら。
    わたしの運命はいかに……?


(つづく)

前回はこちら。
第7話「逡巡」

次回はこちら。
第9話「抗がん剤治療」


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