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CANCER QUEEN ステージ Ⅱ 第7話 「逡巡」


 

 がん病棟は出入りが多い。前回も同室だった窓側のベッドの新田さんはめでたく退院した。
    おめでとうございます。また戻ってこないことを祈ります。
    キングはさっそく新田さんのいた窓側に移らせてもらった。どうせなら、外の景色を楽しめるほうがいいわね。

    キングのいたベッドは、その日の午後には埋まった。今度の古田さんはさっきから、やたらに咳をしている。頑固に絡む痰を無理に出そうとして、熊のように大きな音で喉を鳴らすものだから、まるで病室が動物園になったようだ。
    しばらくして咳が治まると、今度は部屋が狭いと言って、ぶりぶりと怒りだした。どうやら個室に移るはずだったらしい。なにか手違いがあったのか、若い看護師さんに大声で怒鳴り散らしている。おどおどするだけの若い看護師さんに代わって、駆けつけたベテラン看護師さんが平謝りに謝っていた。

    なにがあったか知らないけれど、あんなに大声で喚き立てなくてもいいのに。それって今はやりのカスハラじゃないの。
    そういえば、昔、「お客様は神様です」なんて言葉がはやったらしいけれど、最近は、患者さんを「患者様」と呼ぶ病院が増えているそうね。病院も患者という顧客に、医療というサービスを提供する接客業の一つとも言えるから、あながち見当違いでもないけれど、そんなふうに患者を甘やかすから、古田さんのような高飛車な態度をとる患者が増えているんじゃないの。
    たしかに、先生と呼ばれてふんぞり返っている人間にろくな奴がいないように、権威を傘に着て、まともに患者の言うことを聴こうともしない医者も困ったものだけれど、患者もカスタマーだからといって、なにを言っても許されるわけではない。まったく、カスタマー・ハラスメントなんて嫌な言葉ね。看護師さんが気の毒だわ。
    今の時代、パワハラだの、セクハラだのとハラスメントがつく言葉が多すぎない。世の中、どこか間違っているんじゃないの。なんて、がん細胞のわたしが腹を立ててもしょうがないか。

    さっきの看護師さんが困って呼んだのかしら。5分と経たないうちに、若いお医者さんが古田さんの回診に来たわ。古田さんはあの調子でお医者さんにも文句を言うのかと思ったら、体調を尋ねられると、弱々しい声でおとなしく返事をしているじゃない。この熊親父、重病人じゃなかったら許さないわよ!

    カーテン越しに、古田さんとお医者さんの話が聞こえてくる。4人部屋にはプライバシーはない。
    古田さんの肺には大きな影があって、がんの勢いが強いらしい。心臓も弱っていて、今の体調では次の抗がん剤治療はできないと言われていた。どうやら、これまでこの病院で出会った患者さんのなかで、いちばん症状が重いようだ。
    あの怒鳴り声には、そんな事情があったのかもしれない。熊親父なんて悪口を言ってごめんなさい。

 古田さんは午後から面会に来た男の人と、長い間話をしていた。どうやら遺産相続の話らしい。面会の男性は、

「籍をまだ抜いていないなら、弁護士に頼んだほうがいい」

    とか、

「今のうちに思う事をメモしてくれれば力になる」

    とか言っていた。声を落としていても、みんな筒抜けだわ。
    古田さんにしてみれば、まさかそんな内輪話を、こんな4人部屋ですることになるとは思わなかったでしょうね。個室に移れなかったと怒りだすのは、無理もないわね。

    入院も8日目、暇を持て余していたキングに朗報が届いた。血液検査の結果、血栓がきれいに消えていることがわかったの。こんなに早く消えるのは珍しいと、ドクター・エッグも驚いていた。ようやく点滴が外され、煩わしさから解放されて、キングは晴れ晴れとした表情で、大きく背伸びをした。

    ドクター・エッグの話では、明日、心臓血管センターのお医者さんの診察を受けて、経過がよければ、週末にも退院できるらしい。
    キングは、早速、奥さまに電話した。

「え、そうなの? せっかく窓側の広い場所に移れたのにね」

    そっち? 奥さまって、ユーモアがあるよね。

「でもよかったね。じゃ退院祝いやる?」

「うん。でもまたすぐ入院だよ」

「今度はいつ?」

「さあ、まだわからない。退院して奥歯を抜いてからだけど、血液をさらさらにする薬を飲んでいるうちは、抜歯できないだろうしね」

「じゃあ、やっぱり退院祝いやろう。それで、入院の前にまたおいしいものを食べに行くの」

「そうだね。そうやって入退院の度にお祝いすれば、何度もおいしいものが食べられるね」

 奥さまとのたわいのないおしゃべりが、キングにはいちばん楽しそう。

 昨日は思ったより早く退院できると喜んだのもつかの間、キングは今日、診察を受けた心臓血管センターの若いお医者さんから、

「ワーファリンの効果がもっと出るまで、もう1週間くらい入院する必要があります」

    と言われてしまった。キングが抜歯のことを訊ねると、意外な答えが返ってきた。

「抜歯程度の出血なら止血は難しくないので、服薬中でも抜歯はできますよ」

    キングはてっきり服薬中には抜歯はできないと思っていたので、それなら、退院しなくてもこの病院で抜歯してもらえれば、そのまま抗がん剤治療ができるんじゃないかと考えた。

    そのあと、キングがずっと気になっていた血栓ができた理由を尋ねると、

「がんは血を固まりやすくする物質を出すので、がんが原因で血栓ができる場合もあります」

 と、またまた予期せぬ言葉が返ってきた。

「ですから、がんが根治していなければ、ワーファリンはずっと飲み続けたほうがよいと思います」 

 そう聞いて、キングはショックを受けた。

    これにはわたしもびっくり。わたしにはそんな力もあったのね。とにかくおとなしくしていようと必死に努力しているのに、自分でも知らないうちに彼を苦しめていたなんて、なんと言ってお詫びをしたらいいのか。わたしはほんとうに疫病神よね。こうなったら一刻も早く、アポトーシスしないといけないわ。
    でも、どうしたらいいの。そうだ、ドクター・エッグなら、なにか知っているかもしれない。 

 翌日、いろいろ聞いてみようとキングが手ぐすね引いて待っていると、今度もまた急転直下、ドクター・エッグは病室に来るなり、

「今朝の血液検査の結果も異常がないので、明日には退院できます」

    と言ったの。
    こんなに話が2転3転するなんて、いったいどうなっているの?
    でも、キングは血栓が完全に消えたのならと、素直に喜ぶことにした。それにしても、今回の入院はほんとうにドタバタ続きね。もう、目が回りそう。

 それで、肝心の抗がん剤治療はというと、やっぱり一旦退院して、来週、改めて相談することになった。これでようやく、振り出しね。あれ、奥歯の抜歯がまだだから、まだ振り出しにも戻ってないか。

    キングが抜歯の件を尋ねると、ドクター・エッグは、

「なにかあったらいけないので、抜歯はこの病院でしたほうがよいでしょう。なので、お手数ですが、今通われている歯医者さんから紹介状を貰ってきてください」

 と言ったの。

 なにそれ! わざわざ紹介状を貰わないといけないわけ!ずいぶん面倒ね。大病院はこれだから困るのよ。少しは融通を利かせてくれてもいいでしょうに!
    あ、いけない。これって、カスハラかも。

 今回の入院でいろいろあったせいか、キングは抗がん剤治療を受けようという決心が徐々に揺らいできている。
    とくに、心臓血管センターの若いお医者さんの説明が引っかかっているらしい。がんが血を固まりやすくする物質を出すなら、血栓がいつできたのかが問題だと。
    もし手術前にできていたのなら、今までなぜ見つからなかったのか。血栓が小さすぎたのか、それとも見落とされたのか。どっちにしても、今は血栓が消えているから、たいした問題ではない。
    もし血栓が手術のあとにできたとすると、そっちのほうが問題だ。がんは手術では取り切れなくて、残ったがんが血栓を作ったことになる。そうだとしたら、手術で全部取り切ったというドクター・ジャックの説明と食い違う。やはり、血栓は手術前にできていたと考えるべきではないか。  
    でももし、がんが残っているとしたら、抗がん剤治療をためらっている余裕はない。一刻も早くがんを叩かなければ、血栓どころか転移する危険性が高くなるだけだろう……。

    そうよ、そのとおりよ。わたしはまだあなたの体のなかにいるわ。血栓を作った覚えはないけれど、毎日、血液のなかを泳いでいるから、いつどこに転移するともわからないの。
    だから、わたしが急かすのも変だけれど、できるだけ早く抗がん剤治療を受けてくださいね。

    ところで、執刀医のドクター・ジャックは、今回の血栓の原因は手術の合併症だと説明している。わずか数パーセントの確率だけれど、それがキングに起こったと言うの。
    心臓血管センターの若いお医者さんとドクター・ジャックのどちらの見解が正しいのか。がんが出す物質のせいだったのか、それとも手術の合併症だったのか、悩ましい問題ね。

    キングの不安は膨らむ一方だ。抗がん剤はそれでなくても副作用が心配な薬。お医者さんを信頼して、効くと信じて治療しなければ、効果が上がらない。
    若きウェルテルの悩みじゃあるまいし、あなたはもう立派なご老人なんだから、そんなに悩んでばかりいないで、いつものように、スパッと覚悟を決めて、早く抗がん剤治療をやりましょうよ。
    でも、がん細胞のわたしが言うのは、やっぱり変ね。

    今日はまた、さらにキングを悩ませるニュースが舞い込んできた。それは新薬のキートルーダが、今月15日から保険適用になるというニュースだった。しかも、同じ免疫治療薬のオプジーボと違って、従来の抗がん剤治療を受けていなくても、がんが再発した時点ですぐに使えるようになるらしい。

    それなら、今、無理をして従来の抗がん剤治療を受けなくてもいいかもしれない。しかも、彼の場合は予防的な治療だから、よけい無理する理由はない。この先、きちんと経過観察をしていけば、仮に再発したとしても、初期の段階で発見できるだろうし、再発した時点でキートルーダを使えばいいはず……。
    と、キングはまた悩んでしまった。

    そうよね、キングの考えもよくわかるわ。わたしがおとなしくしてさえいれば再発はしないし、万が一わたしがドジっても、新薬で殺してくれればいいのよね。
    彼をこれ以上苦しめたくない。でも、自分では死ぬこともできない。
    悩める乙女は、どうしたらいいのかしら。若きウェルテルはわたしのほうだわ。

    夕方、キングは回診に来たドクター・エッグに、

「抜歯のあと、予定通り抗がん剤治療をやるかどうか、もう一度その時点で相談させてください」

   と言った。ドクター・エッグは黙ってうなずいていた。

    夕食後、キングが歯を磨いていると、初めて、内山さんが話しかけてきた。

大王だいおうさん、明日、退院ですね。よかったですね。どうぞお大事に」

 内山さんはベッドに腰かけたまま、静かにキングを見ていた。内山さんの頭には毛糸の帽子が乗っている。年齢はキングよりも上みたいだけれど、入院患者はたいてい老けて見えるから、実際はそれほど違わないのかもしれない。

「はい。おかげさまで。内山さんは、もうしばらくかかりそうですか?」

「そんなに長くはかからないと思いますが……」

「今回が初めてですか?」

「いえ、2回目です。前回は副作用が強くて途中でやめてしまったので、今回が実質的には初回みたいなものです」

 内山さんは淡々と答えていた。キングは思い切って、前から気になっていたことを聞いた。

「手術はされたのですか?」

「いえ、手術はできませんでした。いきなりステージ3だと言われて。脳にも転移していましたから、ショックでした。人生がこれでおしまいになるのかと本気で思いました。でも今回、抗がん剤が効いたのか、脳の腫瘍が少し小さくなりました。まだ諦めるわけにはいきません」

 静かな口調だった。

「私も告知された時はショックでした。でも、がんには負けないと思っています」

「そうですね。気持ちが大事ですから、頑張らないとね」

「ええ、そうですね。内山さんもどうぞお大事に」

 内山さんとの会話で、キングの迷いが消えた。
    キングは手術ができたことに、あらめて感謝した。内山さんと違って、手術で腫瘍は取れているし、ほかの臓器にも転移はない。内山さんのように抗がん剤治療しか選択肢のない状況と比べたら、ずっと恵まれている。

 キングは免疫力を高めるために、普段からいろいろと取り組んでいる。
    食事療法は毎日続けている。炭水化物は控えめに、野菜を多く。しかも、お嬢さまが通信販売で取り寄せた有機野菜が中心。大好きだったケーキやチョコレートやアイスクリームも、きっぱりとまではいかないけれど、ずいぶんがまんしている。おかげでわたしは欲求不満だけれど。
    お嬢さまの厳しいチェックで、食品添加物など発がん性のある化学物質をできるだけ体内に取り込まないように気をつけてもいる。
    ストレスを溜めないように、気功も取り入れて、いつもリラックスを心掛けている。 
    今のキングには、がんには絶対に負けないという強い意思と、がんと闘うのに十分な体力がある。
    この全てが免疫力を強めて、がんと闘うための武器だ。そのうえ彼には、抗がん剤という現代医学の粋を集めた強力な武器も残されている。
    使える武器はなんでも使おう。できることはなんでもやろう。やらずに後悔するよりも、やったうえで、どんな結果も受けいれよう。キングはあらめてそう決心した。 

 退院の朝、キングは一片の迷いもなく、清々しい表情だった。内山さんにはカーテン越しに深々と頭を下げた。ナースステーションでは、すっかり顔なじみになった看護師さんたちに、

「また、お世話になります」

 と言って手を振りながら、足取りも軽く、3度目の病棟をあとにした。

 今回の入院はキングにとってはよけいだったけれど、1日でも長くいっしょにいたいと願っているわたしにとっては、幸せな11日間だったわ。
    もし、予定通りに抗がん剤治療が行われていたら、今頃わたしは、天国でキングの幸せを祈っているのかも。
    え、 地獄だろうって? そんな!


(つづく)

前回はこちら。
第6話「血栓」

次回はこちら。
第8話 「抜歯」



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