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CANCER QUEEN ステージⅡ 第11話 「再会」



    6回目の入院が始まった。今回は1週間の予定。ドクター・エッグは前回のキングの様子から、副作用の処置は通院で大丈夫だろうと判断したらしい。
    今回も病棟は7階だった。キングは荷物の整理を終えてから、ナースステーションにシャワーの予約を入れに行った。

大王だいおうさん、さっそく予約ですね。もう慣れたものですね」

 と、看護師さんが声をかけてきた。

「はい。勝手知ったる他人の家ですから」

 キングの言葉に看護師さんもうなずいている。キングは手間のかからない、模範患者に違いない。こんな患者ばかりだったら、看護師さんも助かるわね。
    キングは予約表に自分の名前を入れてから、壁に貼ってある食事のメニュー表をチェックした。あまり代り映えしないメニューが並んでいる。ここの食事は病院食にしてはおいしいほうだけれど、さすがに6回目ともなると飽きてくるわ。

「今度も前回と同じように、朝はパンで、昼は麺類にしてもらえませんか?」

「わかりました。栄養士さんに伝えておきますね」

 看護師さんもキングの特別メニューは心得ている。

 主治医のドクター・エッグが若い研修医を連れて回診にきたのは、それからまもなくだった。研修医は少し太り気味の、小柄な男性だった。眼鏡の奥の小さな目が頼りなさそうに見える。

「体調はいかがですか?」

 ドクター・エッグの型どおりの質問に、

「はい、まあまあです」

    と、キングも当たり障りのない返事をする。研修医はドクター・エッグの後ろで、キングの顔とカルテを確かめるように見比べている。
    これからよろしく頼みますよ、研修医さん!

    いよいよ2回目の抗がん剤治療が始まった。 
    前回同様、1日目は抗がん剤2種類のほかに、吐き気止めや電解質補充液、利尿剤、ぶどう糖など、全部で3リットルを7回に分けて点滴する。明日とあさっては、抗がん剤が1種類に減り、半日の日程となる予定だ。

    時間ぴったりに研修医さんが病室に現れると、いきなり、ぎこちない手つきで針を打つ血管を探し始めた。キングの肘に近い腕の内側をしきりに撫でている。
    そんなところで大丈夫? キングはこれまで数え切れないほど点滴を受けているけれど、そんなに上のほうは初めてよ。
    ようやく探し当てた場所に、研修医さんは太い人差し指でキングの血管を抑えながら、勢いよく針を刺した。
    細い血管に注射針を刺すのは、ベテランの看護師でも難しい。特に、抗がん剤は猛毒なので、万が一、血管から漏れたら大変だ。
    前回の入院で、女性の研修医さんがすばやく針を入れていたのに比べると、この研修医さんの手つきはいかにも危なっかしくて、見ていられないわ。

「あ! だめだ。漏れてる。すいません。やり直しさせてください」

 え、冗談でしょ! 勘弁してよね。
    でも、キングは偉いわね。動じることもなく、黙ってうなずいているの。きっと研修医にも練習が必要だと思っているのね。
    研修医さんは手で額の汗を拭ってから、今度はキングの左腕の手首に近い所を、指で撫で始めた。
    そうそう。その辺りはよく刺される場所よ。今度はすぐに血管を見つけられたようね。また勢いよく針を刺したわ。やれやれ、これで終わりかと思ったら、

「すいません。右腕を見せてもらってもいいですか?」 

 と、またすまなそうに言うの。え、なんで? また、やり直し?
    さすがにキングも呆れ顔で、しぶしぶ右腕を差し出した。気難しい患者さんだったら、ここでアウトね。 
    研修医さんはまた、はじめからやり直している。次に探し当てた所は、これまでもよく針を打ち直されている場所で、今度こそうまくいったようね。額には玉のような汗がキラキラと光っていた。まだまだ修業が必要ね。
    あとは看護師さんの出番。ベテランの看護師さんは手際よく作業を進めていく。キングもようやくほっとした表情になった。
    なんだか前途多難だけれど、今度もどうか無事に終わりますように!

 入院3日目。今朝からの強い風と雨で、これまでなんとか持ちこたえていた桜の花がすっかり散ってしまった。キングは憂鬱そうな顔で、窓の外を眺めている。
    抗がん剤治療の点滴は今日で終わり。キングは前回ほどではないけれど、朝から体が重いようだ。しゃっくりと便秘も前回と同じ。
    相変わらず、しゃっくりは気功の逆深呼吸をやるとすぐに止まる。便秘のほうは、昨日から酸化マグネシウム剤を飲んでいるけれど効果がない。キングは看護師さんと相談して、薬を1錠から2錠に増やすことにした。
    この時期は、腎臓機能の低下が心配。ここ2、3日は十分に水分を取る必要がある。今回もがんばって、初日は2,900ミリリットル、2日目は2,750ミリリットルを15回に分けて飲んだ。当然、トイレの回数も増える。2日目は19回と、これまでの最高記録を更新した。
    ところが、今日はまだ4回。体重も入院した時より2キロも増えている。病院の説明書きにあるように、このままだと人工透析になる心配があるわ。
    朝からの倦怠感も加わって、キングは落ち着かない様子。一度不安の種がはじけると、つぎつぎに連鎖するのね。今度は、点滴用の針を刺した所に血が滲んでいるのが気になって、彼は看護師さんに針を刺し直す必要がないかと聞いた。
    看護師さんは試しに点滴口から生理食塩水を入れた。

「針はきちんと刺さっているので、点滴薬が漏れる心配はないと思いますが、ご心配なら刺し直してもいいですよ」

    判断を患者に求められても困るけれど、キングは干からびた血の跡からすると刺し直してもらったほうがいいと思い、医師を呼んでもらうことにした。
    ひょっとしてまたあの研修医さんかしら。今度は大丈夫かな。
    30分ほどしてから、例の研修医が看護師さんに連れられてやってきた。
    研修医さんはニンニクの匂いがぷんぷんしているの。キングは呼ばなければよかったと後悔したみたい。
    ところが、研修医さんは看護師さんと同じように生理食塩水を入れてみてから、意外なほどきっぱりと、刺し直す必要はないと言ったの。研修医とはいえ、これほどはっきり言われれば、キングも従うしかないと思ったようね。そのかわり、腎臓機能が低下しているんじゃないか心配だと聞いたところ、

「副作用かどうかはまだ判断がつきません。退院して、次回の外来の診察までにははっきりします」

    と、またきっぱりと答えた。研修医にも医師としてのプライドがあるのね。
    実際、点滴を始めると、点滴薬は細い血管にすんなりと流れていった。今日のキングは少し神経質になっているようだわ。
    キングに限らず、がん患者は神経質になりやすい。ちょっとしたきっかけで不安に襲われると、不安が不安を呼んで、どんどん膨らんでいくの。不安との闘いも闘病の一つよ。
    負けないで、キング!

    朝からの倦怠感は、1時間ほど昼寝をしたら、あまり気にならなくなったみたい。でも、まだ胃のむかつきは残っているようだ。
    夕方、シャワーを浴びると、なにかスッキリしたものが食べたくなったけれど、自分で買いに行く元気はなかったようね。

    しばらくすると、ドクター・エッグが研修医といっしょに病室に入ってきた。

「予定どおり、明日退院できますよ」

    ドクター・エッグは、にこにこしながら、

「次回の外来診療は24日になりますが、大丈夫ですか? 今回は抗がん剤の量を前回の8割に落としてあるので、副作用はそれほど出ないとは思いますが、次回の外来のときに、3回目をやるかどうか、ご相談したいと思います」

 と言った。キングはちょうどよい機会だと思って、

「3回目ですが、もともと予防的な抗がん剤治療の効果を計る手段がないとのことですから、この辺でやめて、少し様子を見るというのはいかがでしょうか?」

 と、聞いた。

「そうですね。もう2回やっていますし、ご本人のお考えやお仕事など、事情もあおりでしょうから、どうしてもというわけではありません」

「途中でやめて、どちらに転ぶのかはわかりませんが、再発したとしても、幸い、キートルーダのような新しい薬も出ているので、それを使ってもらえればと思っています」

「今後の治療のことは、次回の外来でゆっくりお話ししましょう」

 ドクター・エッグは、ここで話を切り上げた。どうやら、キングに新しい薬を使うことには慎重なようね。

    ところでキングは、今回で抗がん剤治療を終わりにしようと、いつ決心したのかしら。副作用が辛かったときも、そんな素振りは見せなかったのに。
    もちろん、わたしにとってはありがたい決断よ。いくらがん幹細胞には抗がん剤は効かないと言われても、猛毒とのお付き合いはもうごめんだわ。
    でも、それでほんとうに大丈夫なのか、ちょっぴり不安が残るの。
    というのも、わたしには効かないはずの抗がん剤が、今回はどういうわけか、じわじわと効いているように感じるの。このごろ、血液のなかを泳いでいるとなんだかフラフラするし、免疫細胞たちの攻撃も、以前のように簡単にはかわせなくなっている。ひょっとしたら、わたしはがん幹細胞ではなく、ただの子どものがんなのかもしれない。そうだとすると、もっと抗がん剤が効いてくると、わたしは消えてしまうんじゃないかと思うこともあるの。それがキングの望みに叶うことには違いないけれど、やっぱり、このままお別れするのは寂しいわ。だから、キングが抗がん剤治療をやめてくれれば、わたしはまだ生き残れる可能性があるわけね。
    自分でアポトーシスができないわたしは、抗がん剤で死ねるならそれで幸せなはずなのに、いよいよ死ぬかもしれないと思うと、まだ生きてキングといっしょにいたいという未練が残る。わたしはどうしようもないエゴイストね。
    わたしはどうしたらいいの?

 翌日、吐き気止めの点滴が終わり、針が外された。キングはその瞬間の解放感がたまらないようね。抗がん剤治療はこれが最後だと思うと、なおさらね。
    キングはこれから、がんに侵された体をもう一度健全な体に戻すために、体質改善に取り組もうと決心している。免疫力を高めて、なんとしても再発を食い止めようと考えているの。

    手提げバッグとリュックサックに荷物を詰め込んでから、キングは病室をあとにした。
    ナースステーションで、最後のあいさつをする。すっかり親しくなった看護師さんたちともこれでお別れ。

「お世話になりました。ありがとうございました」

    名残惜しい気持ちを振り切りきって、キングは、笑顔で見送る看護師さんたちに背中を向けた。

 2回の抗がん剤治療は、やっぱり効き目がありました。わたしの周りには今、免疫細胞たちが最後の攻撃にかかろうと、手ぐすね引いて待っています。
    わたしの細胞のDNAには、2重らせんの上から、キラキラと輝くプラチナが取り巻いて、とってもきれいなのよ。なんだか、本物の“CANCER QUEEN”になったような気がするわ。
    キングの判断は正しかった。3回目の抗がん剤治療をやらなくても、わたしはもうすぐ天に召されるでしょう。 
    もし3回目をやっていたら、免疫細胞のほうが先にやられて、わたしは生き残れたかもしれません。でも、これでよかったのです。わたしはキングといっしょにいられただけで幸せでした。
    そうだ、どうぞご安心ください。わたしのママはどこにもいませんでした。きっと、手術で肺と一緒にバッサリと切り取られてしまったのですね。がん幹細胞のお話を伺ったときには、もしかしたらと期待したのですが、ドクター・ジャックの腕前はやはりたいしたものです。 
    わたしのバリアーも、そろそろ限界のようです。免疫細胞たちの雄叫びが、すぐ近くに聞こえてきます。
    でも、わたしはやっぱりアポトーシスしたかった。その名のギリシャ語の由来のとおり、一片の花びらが散るように、わたしはあなたからひっそりと去っていきたかった。
    これまでおかけした数々のご迷惑を、どうぞお許しください。わたしはとても幸せでした。どうかいつまでもお元気で。
    さようなら、キング!
 

      ★ ★ ★ ★ ★


    ここはどこかしら? わたしは死んだはずよね。でもどうしてかしら、どこからかキングの声が聞こえてくるような気がする……。 
    そうよ、間違いないわ。これはキングの声よ。

    よかった。今回も再発していない。あれから5年、ようやく5年生存率をクリアーできた。もう大丈夫だろう。油断は禁物だけれど、いままでどおり、バランスの取れた食事と適度な運動に、十分な睡眠を心がけてさえいれば心配ない。
    いまのところ、ぼくのがんはぼくと仲よくやってくれている。これからもお手柔らかに、よろしくね。
    それでも再発したら、運命だと諦めるさ。

 なるようになれ!
    ケ・セラ・セラ!
    Whatever will be, will be!


    ありがとう、キング!
    わたしはやっとあなたの“CANCER QUEEN”になれたのね。うれしい!
   こちらこそ、よろしくお願いします。


(おわり)

前回はこちら。
第10話「副作用」


 


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