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夢は夜ひらく-芸能浅間神社への道

1960年代後半から70年代前半、若者文化の中心は新宿だった。
そして、力を持っていたのは、サブカルチャー、アンダーグランドといわれる文化だった。
そのひとつが、アングラ演劇。なかでも花園神社で行われていた紅テント、唐十郎の状況劇場である。
なぜか私は1982年に花園神社で紅テントの「新・二都物語」を見ている。

その花園神社に行こうと思い、google mapで見てみたら、境内に「芸能浅間神社」とある。
浅間(せんげん)神社ということはここから富士山が見えたのかな、と思って拡大すると、「『圭子の夢は夜ひらく』歌碑」とある。
行ってみようと思った。


『芸能浅間神社』
養生されている木は桜。奥の石積みは富士山を表す。浅間神社の典型。
鳥居右奥に歌碑が見える。
ちなみに、世界遺産「富士山」は自然遺産や複合遺産ではない。文化遺産である。

藤圭子がデビューしたきっかけは、15歳の時、北海道岩見沢市の雪祭り歌謡大会のステージで「函館の女」を歌ったところを、居合わせた作曲家・八洲秀章にスカウトされたことだという。
実は、私は中学3年から高校卒業まで、この岩見沢市にいた。その後、上京したため、私にとっての北海道の街というのは、岩見沢市である。
そんなことからも、興味を持った。

藤圭子は、浪曲師の父と三味線瞽女(ごぜ)の母の間に生まれたとある。
瞽女というのは盲目の三味線等の女旅芸能者のことで、藤圭子の母親は網膜色素変性症といわれている。
網膜色素変性症は約50%は遺伝による。
藤圭子も視力の衰えに苦しんでいたという。

藤圭子は自分の視力が衰えていく中で、生まれてくる子供の将来を思って名前をつけた。
子どもの名前は、「宇多田ヒカル」 本名、宇多田光だ。

藤圭子の生涯については次のリンクに詳しい。
ただし、実兄は「赤貧の中で育った、みたいなことをデビューしてから言われていましたが、あの頃はみんな貧しかったのですからね。両親からは運動会の時にバナナを買ってもらったり、正月に新しい洋服を買ってもらったりしていました。同級生に比べて特に貧しかったということはないと思いますよ。赤貧~、というのは芸能界で売り出すためのストーリーだったのでしょう。彼女のキャッチフレーズは『演歌の星を背負った宿命の少女』。少女で18歳というのも何だかなということで、1つ年をごまかして17歳ということにしたんですね」といっていることはつけ加える。
私は好みだが、重いのが嫌いな人は読まない方がいい。

ここでは、視覚障害者の職業についての歴史の一部を若干説明する。
私は東京のハローワークで職業安定行政に関わってきたが、障害者の雇用対策を担当した時期があった。その時の研修で次のようなことを伝えていた。
視覚障害者の職業の歴史で特筆されるべきこととして、「当道座」がある。
これは、盲人男性の職能互助組織で、ギルドのようなものである。室町幕府以降公認され、税の免除、高利貸しの特典を与えて保護されていた。
当道座には、検校、別当、勾当、座頭など位階が定められ、そこでは盲人による琵琶、鍼灸、按摩、箏曲、三味線が行われ、職業訓練組織として大きな役割を果たした。世界最初の障害者の職業訓練組織という人もいる。
この当道座は盲人男性だけの組織であり、それに対して盲人女性の「瞽女」がある。

京都のお菓子「八ツ橋」は、この近世筝曲の開祖といわれる八橋検校に由来して、琴のかたちをしているという。
さらに、子どもの時に真似をしながら見たことはないが、有名な「座頭市」は「座頭」の市さんのことだ。
この当道座は明治4年の太政官布告により補償措置なく廃止された。
しかし、特権が失われただけで、生計を立てるために座において行われていた職業に多くの視覚障害者が就いていた。
瞽女は新潟地方に長く残り、芸の伝承として今も残っているという。

とまれ、藤圭子は平成25年(2013年)8月22日、新宿の高層マンションの13階から自死を選んだ。その日は、藤圭子を必死に世に送り出し、「圭子の夢は夜ひらく」等初期の曲の作詞をした石坂まさを(平成25年3月死亡)を偲ぶ会の前日だったという。石坂まさをとは、すでに疎遠になっていた。いや、すべての人と。

最後に、また私にとってのどんでん返しである。
この歌碑は、藤圭子が自死したあとに、新宿とともにあったその面影を偲んで建てられたと思っていた。ずっとその思い込みが、この文を書くのに重かった。しかし、この歌碑が建てられたのは平成11年(1999年)だという。
では、なぜその時に、藤圭子なのだ? 

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