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オシャレとダサいの境界線

オシャレと言われることが増えた。
嬉しいけれど、自分ではよくわからないし、正直、そこまでの自信もない。

けれど、オシャレでありたいなとは思う。
だから、ネットの記事だったり、YouTubeを見たりして、いろんな情報を吸い上げている。
そういうものが少しずつ、血となり肉となってきているのかもしれない。

そういう生活をしている中で、必ずどこかで「ダサい」という表現を目にするし、耳にする。

ダサいって、そもそも何なんだろう?
今を時めく、ChatGPTに聞いてみる(しかも4oに)


なるほど。
でも、これってすごく主観的なものだなって思う。
誰かにとってはダサくても、誰かにとってはきっとクール。

あの人、オシャレだな、と思うことはある。
けれど、
あの人、ダサいな、と思うことは正直あまり…というか全くないかもしれない。

清潔感があるとかないとかいうのは感じるけれど、ダサいかどうかは私にはわからないのである。
ダサいかどうかのジャッジができない人を世間ではオシャレと言えるのだろうか。
オシャレとダサいの境界って何だかよくわからない。

ファッションとは自己主張である、という人は昔からいる。
私にはよくわからなかった。
けれど、最近はその意味が少し分かってきた気がする。

こういう自分でありたい、こういう自分だと思われたい。
そんなことを思いながら毎朝、服を選ぶ。
それはとても楽しい儀式だ。

ファッションを楽しんでいる人たちを見るのも私は好きだ。
どうしてその服を?
どうしてその髪型を?
思わず声をかけたくなる。
ファッションを楽しんでいる人たちは、どこか活力がある。
それを感じるのも楽しいし、嬉しそうに今日のこだわりポイントを話してくれるその表情も素敵だと思う。

その一方でファッションに無頓着な人もいる。
きっとそういう人たちの中に、ダサい人が多いのかもしれない。
私にはわからないけど。

でも、彼らもまたファッションに無頓着であるという自己主張をしているのだと私は思う。
そもそもそんなことすら考えていないとは思う。
それ以外の衣服の選択肢もないのかもしれない。
でも、それだって自己主張には違いないのではないか。

世界中のどんな人たちも、ファッションで自己主張をしているのだと私は思う。
そこから見えてくる世界は、とても色鮮やかである反面、とてつもなく残酷でもある。

ダサいって。

なんなんだろう。

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