パンクでロックだった私
そもそも通知が来ること自体が少ないが、中でも見慣れぬ通知に首を傾げた。
私の記事がどうやら紹介されたらしい。
紹介されるようなことを書いたろうか?と思いながらその記事を拝読する。
パンクでロックな文章が好き~公開ファンレター|音と夢 (note.com)
音と夢さんは、比較的最近フォローさせていただいた方で、非常に印象深い文章を書かれる方である。
すでに旅立ってはいるものの、愛犬との日々を綴った一連の記事は、同じくイヌ殿、ネコ殿と暮らし、そしてその旅立ちに立ち会ってきた私にとって、共感以上の思いがある。
実を言えば、一連の記事を私はまだ読めていない。
読む自信がないというか、どこか踏ん切りをつけられずにいる。
いくつかの記事を拝読し、その筆致は存じ上げている。
それゆえに、そこから紡ぎだされる物語は私に大きな何かをもたらすことは分かっているし、それは私にとって決してマイナスになるものでもないことも分かっている。
ただ良薬は口に苦いことも知っている。
その薬を私はまだ飲み込む勇気がない。
音と夢さんは、どこか私と近しいところがある気がしている。
表現の方法は違うけれど、その思想の軸というか核になるものに共感を覚えることは多々ある。
自分の記事を読んでいただいて、その感想をいただけるということは、やはり、書き手としては冥利である。
どんな方からいただいても嬉しいし、幸せなものではあるけれど、そういった事情から、格別の思いがあったのもまた事実である。
ちょっと緊張しながらも拝読する。
驚愕し、
嘆息し、
余韻に浸った後、
じわじわと幸せを嚙み締めた。
自分のことを一番よく分かっているのは自分だと思う。
けれど、その一方で、自分のことを一番知らないのもまた自分だと思う。
仕事にしてもプライベートにしても、誰かからの評価を受けることはある。
受け入れがたい評価を受けることだって多々ある。
若い時分は、
「あの人にはわからない」
と一蹴していたものだけれど、事情どうあれ、相手からはそう見えているのは紛れもない事実。
私にとっての私と、ある人にとっての私は必ずしも重ならない。
そのギャップにこそ、私という人間の本質があるような気が最近はしている。すんなりと吞み込めるかどうかは別にして、いただいた評価はすべて受け取るようにはしている。
音と夢さんからの評価は、
「そういう私でありたい」
と憧れる「理想の私」への評価そのものだった。
私が目指す私の有り様。
それは私自身が評価する私とは遠い存在でもある。
私は私のことが好きだし、嫌いだ。
誰かが知らない嫌な私を、私は嫌というほど知っている。
それでも、私が好きな私を、評価していただけるのは素直に嬉しい。
これまでに私が書いてきた文章を読んで、私の中にある私を見て、見つけていただいたことはとても嬉しい。
分かる人にはここまで分かるものなのか、という驚きもあったし、見てくれている人は見てくれているのだと、希望めいたものも感じた。
奇しくも、というべきか。
音と夢さんのあおさば評は、AIのそれとほぼ同じだった。
とはいえ、私がAIに渡した情報は、膨大な量に及ぶ。
制限された情報の中で、同じ結論に達した音と夢さんの慧眼にはただただ恐れ入る。
パンクでロック。
何と心地良い響きか。
これはAIには表現できない評価だと私は思う。
AIを活用して時短を模索する日々が続いている。
そんな中、週に1度はこうやって、アナログな作業をする。
AIでブログを書く人もいるらしい。
それを否定する気はないが、こうやって、人が人の手で、薄く、汚く、そして虚しく思いを綴るのは、単純に楽しい。
これこそ、パンクでありロックであろうと私は思う。
私は誰かのためではなく、私のためにnoteを綴る。
自作自演の不協和音に、私は今日も酔いしれる。
この音を、足を止めて聴いて下さったあなたに心からの感謝を。
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