底辺~庶民こそ尊貴!
ドラマ「相棒」の主人公・杉下右京を彷彿とさせる友人がいる。
人への温かい眼差し、冷徹な分析力、豊かな良識教養、などなど…思わず「右京さん!」と呼んでしまいそうになることさえある。(というわけで便宜上、以下、この友人の呼称を右京としたい。)
20年ほど前の、晩秋の夕暮れ時だったと記憶するが、出版社で編集責任者をしていた右京氏と文学の語らいに…
人間の心を深く探究したことで有名なロシアの文豪ドストエフスキー。彼が4年ものあいだ、徒刑囚たちと寝食をともにしたシベリア抑留中に兄ミハイルに宛てた手紙に、こんなものがある。
そして、
ドストエフスキーは、社会的には最下層に位置する刑務所の囚人に対し『素晴らしい人たち』だと感嘆する。
19世紀ロシアで、満足な教育も受けられず、貧しさと世の荒波に押し流されて罪を犯さざるをえなかった庶民の荒々しい姿の奥にドストエフスキーは比類なき「美しい魂」を発見したという。この点はドストエフスキー文学を大きく特徴づけるものとして研究者の間ではよく知られていること、ではある。
しかし、私は右京氏にたずねた。
「いくらなんでも徒刑囚を指して『素晴らしい人たち』っていうのは、言い過ぎだと思いませんか?」
熟慮タイプの右京氏は、伏し目がちに何かを考えていたがしばらくして口を開いた。
「これは…とくに、政・官・財ということになるのでしょうが、上のほうって…言いかた悪いですが【魂がくさっている】場合が多いわけです。
もともと貴族知識階級にいて【魂がくさっているおエライさんたち】を見てきたドストエフスキーにとって、いま、はじめて目の当たりにした【庶民の純真さ】はあまりにも衝撃的だったのではないでしょうか。」
庶民の純真さ!?
う~ん…自分が庶民だからか《庶民の純真さ》など意識したこともないが…
しかし、他と『くらべたとき』に初めて見えてくるものがある、と右京氏は言う。
よく「海外で生活して、はじめて日本の良さがわかった!」という日本人がいるが、《お偉いさん》を知るからこそ《庶民》の良さがはじめてわかる、というわけか…
それはそうと、社会の上層部の人々の、
魂がくさっている
というのはなんだ?
思わず聞いた。
「社会の上層部の人たちの『魂がくさっている』というのは右京さん個人の考えですか?」
「個人の考え? いや、世間を知っている人なら誰でもわかっていることだと思いますよ。」
「誰でもわかっている?はぁ…なる..ほど…じゃあ…『魂がくさっている』というのは具体的にどういうことですか?」
右京氏は、コーヒーを一口飲んでから静かに語りはじめた。
「たとえば…ここに1人の若い女性がいます。この女性が不思議な縁で、ある大企業の会長の御曹司と恋に落ちる。
若い二人は互いに心から純粋に愛しあい、結婚を誓う。でも、会長である父は、会社の未来を考え取引先の令嬢と結婚させたい。
そこで会長は、女性を呼び出し、こう告げます。
『うちの息子を好きになってくれてありがとう。でも色々あってね…申し訳ないのだが、今回はこれで手を引いてください』
そう言って、テーブルの上に1000万円の札束を置く…こういうことが普通にできてしまうということです。
まあ、これは、たとえばの話なのでニュアンスを汲み取ってください。」
【魂がくさっている】とは、私のイメージでは、
《無気力でやる気がない怠け者》
なのだが、どうやら違うようだ。
こうした《怠け者》を世間では、【魂】ではなく
【根性がくさっている】
というのだそうだ。
右京氏が上に述べた《御曹司》の話からすると、《魂がくさっている》上層部の人々とは、仕事ができ、聡明で、知識があり、人脈があり、礼儀正しく、常識豊かで、どこに出しても恥ずかしくない…と、ここまではたしかに素晴らしい!しかし、悲しいかな、その腹の中は、
【金がすべて】…人を人と思っておらず庶民を見くだしている。
ということだろう。なるほどたしかに、上層部の人々の多くが、もし本当に腹の中がこんな状態だとするならば、
魂がくさっている
と、右京氏が認識するのも無理はない。
それにしても、“上層部の人々の魂がくさっている”との右京氏の主張に、一瞬耳を疑った。
なぜなら、上層部の人々が、今まさに上層部にいるゆえんは、優れた能力と人格の持ち主による人並みはずれた努力の結果だと想像していたのだから…
なので、この件は、右京氏以外の意見も聞いてみたくなり、以来、家族や友人、知人などに、そうした話題になった際、もののついでにたずねるようにしてきた。
その結果、大きく分けて、以下の4つの意見に集約された。
①ある30代の会社員の女性は、
「上のほうのお偉いさんの『魂がくさっている』って、誰もが心の奥では“感覚”としてわかっていると思う。でもふだんは誰もそんなこと意識しないから、ただ『お金があってうらやましいなぁ』と憧れるだけじゃないかな。」
②60代の会社経営者の男性は、
「魂がくさってる?そりゃそうだね。彼らは能力も高く、人並み以上の努力は当然している。じゃあなぜ、そこまで努力できるか?っていうと、欲にまみれてるからでしょ。欲にまみれなかったら『金持ち』になんかなれないよ。人を蹴落としてでも成功したい!、上にいきたい!ってならないとね。」
③大企業の中間管理職である50代の男性は、
「大会社の経営者クラスになると、自分の会社の従業員なんかは、会社に利益をもたらす使い捨ての【道具】の一つにしか見えなくなる。」
④40代の飲食店経営の女性は、
「そういった上の人たちは、自分たちが『魂がくさっている』とは気づいてないよ。それどころか、庶民をみくだし、『努力が足りないだけだ』なんて思ってる。『つきあう人を選ばないから庶民から抜け出せないんだよ』ってね。“得にならんヤツとはかかわるな”と。それってつまり、エゴ。自分の欲の満足だけ考えろってことだから。こんなことを、恥ずかしげもなく言えることじたい、くさってる証拠なんだけど、それすら気づいてないから病根が深いのよ。」
この約20年間で、数えてはいないが、相当数の人たちの声を聞いた。そのなかには
「《魂がくさっている》かどうかは個人による。上層部に多いという考えは偏見ではないか。」
という趣旨の意見もわずかにあった。
確かにその通りで、正論であるし「個人」によることは間違いない。ただ《比率》の問題であろう。
そのうえで、多くの意見を聞いた結果、ほとんどが上記の四つの声に集約された。なかでも圧倒的に多かったのが上記②の意見であった。
これらの意見については、人情として、ルサンチマン(財力と地位を“持つ者”に対する、“持たざる者”のやっかみ)も多分にあると考えるのが自然である。
しかし、たとえ「やっかみ」だとしても意見を言った当人が自らの深層にひそむ「やっかみ」に気づいていない場合もあり、検証は難しい。そのため今回は、声としてあげられた言葉をそのまま採用することにした。
もとより本格的な調査ではなく、あくまでも出会った範囲内での人々の《生の声》だ。
それを前提としたうえで、代表的な上記の四つの意見をあえて一言にまとめると、
社会の上のほうの人は、欲がすべてになってしまい、傲慢になり人を人とも思えなくなり庶民をみくだしてしまう
↓
魂がくさってしまう
場合が多い。という主張になるだろうと思う。
いずれにせよ、
《上の階層の人の魂がくさっている場合が多い》という事がこれほど広範な人々の共通認識であることに正直、驚きを隠せなかった。
だが、世の中を見渡せば、近くは、政治家の裏金問題や電通元専務髙橋氏、KADOKAWA会長、ADK会長、AOKI会長らによる【東京五輪汚職事件】を引き合いに出すまでもなく、日頃から飽き飽きするほどメディアで報道され、それでも氷山の一角に過ぎぬであろう政⋅官⋅財癒着による、贈収賄、キックバック、不正入札、利益供与の強要、違法謝礼等々の数々の犯罪…。しかも、これが国民からは多額の税金をしぼりとり、その税金で暮らしておきながらの所業なのである。
こうした枚挙にいとまがない悲しい現実は、《上層部の魂がくさっている》という私の身近にいる人々の「共通認識」を裏付けてあまりあるという見方も十分可能であろう。やはり、
大衆は愚にして賢
というべきか。
いずれにせよ、ここまでみてきたかぎりにおいては、社会の《勝ち組》である上層部と、庶民の違いは、ある面からみると、
【欲】のさじ加減にある
と思う。
「金持ちになりたい!」、「有名になりたい!」「権力が欲しい!」「安定した地位が欲しい!」「異性にモテたい!」「性欲を満たしたい!」というのが一般的に言うときの【欲】には違いない。
しかし「弱い立場の人を守りたい!」、「差別や戦争をなくし平和のために尽くしたい!」というのも、もちろん【欲】である。
どの【欲】も消滅させることはできないし、させる必要もない。生きていく上で大切なものだからである。だから、《さじ加減》ということになるはずである。
この【欲】について、「あ~、なるほど!」 と感じるものを【人類の知的遺産】のなかに発見した。
それは、ロシアの文豪レフ・トルストイの世界的名作「アンナ・カレーニナ」のあまりにも有名なシーンである。ほんの一部だけ以下に抜粋したい。
この作品のラストに近い場面ーー。
このあとリョービンは「自分の欲得だけ」のためではなく、魂のため、人のため、に生きようと決意する。それは人を蹴落としたり、利用したり、裏切ったり、見下したりしない、という生きざまをも意味する。
欲は大切だけど欲にまみれるな
とういうわけだ。与えて言えば、
欲にまみれてもいい、ただし、人を蹴落としたり、庶民を見下したりするな!
ということだろう。だが人間というものは、《欲にまみれると》どうしても人として見れなくなってしまうものらしい。そして、その対極にあるのが、
多くの庶民の生き方ではないか?
ここに着目したからこそ、トルストイとドストエフスキーという世界第一級の知性が、ともに
庶民こそが偉大!
庶民から学べ!
と訴えているのではないだろうか。
大衆を見くだす人間はえてして【一流】にあこがれるが、皮肉にも、肝心の【一流】はユゴーでもホイットマンでも【大衆が一番偉大】だと主張している。というよりは、【大衆の偉大さ】を洞察できたからこそ、【一流】なのだ。
ドストエフスキーは晩年、上流知識人たちに向かって以下の思想を舌鋒鋭く訴え続けた。
民衆の真理の前に頭を下げ、それを素直に真理とみとめなければならない。
こうした視点からみると、現代日本の《格差社会》における、
社会の勝ち組=上層階級→優秀
社会の負け組=底辺の庶民→劣等
という《ある種かなり根強い一部の思潮》が、人間の外側に付与される【財力】【権力】の側面のみを基準としたものに過ぎぬことがわかる。
もう少し視野を広げ、【人間性】【生き方】という、人間として、より根本的な部分を基準にした場合には、
上層階級=欲にまみれて傲慢→劣等
多数庶民=欲にまみれず純真→優秀
という【逆転の図式】が浮き彫りになってくるのだ!
そんな当たり前のことを、なにを新たな発見のように書いているのか?
という声が聞こえてきそうであるが、私にとっては、本当に新たな発見だったのだ。そして世の中には私のような人間も多少はいるはずであり、この人たちを対象にすれば、この記事を書く意味も少しはあると考える。
また、
かりにそれを知ったからといってどうなるのか?
との声も聞こえてきそうである。つまり、
お金持ちやお偉いさんの大半は親もお金持ちやお偉いさんだから、結局その《幸運》のおかげで今の立場を享受している。そのくせ庶民が貧しいのは【自己責任】などとほざいている(笑)こんなしょうもない世の中で、どうすれば、格差が是正されるのか、それが知りたいのに、この記事では、まるで「貧しいことは良いことだ!」みたいな論調ではないか!
と。まったくその通りである。ただ、今回の投稿の目的は、
庶民を見くだす思想を撃破する
ことである。それには、まず、庶民蔑視の思想的基盤の一つである、
金と地位=幸福
という一面的な枠組みを取っ払わなければならないのであるが、格差是正を論じてしまうと、結局はこの枠組みの中から一歩も抜け出せないのである。この点、ご容赦いただきたい。
さて、ここまでは19世紀という古き時代のロシアの知識人たちの思想の一端をのぞいた。
今度は、一転、現代の、しかもアメリカに目を移し、文豪とはまた違う世界に生きる《実務家》の見識を参考にさらなる普遍性を探ってみたい。
世界に冠たるマクドナルド社を相手取っての裁判をはじめ、《40年以上の活動で刑事裁判無敗》を誇るアメリカの弁護士がいる。彼、ゲーリー・スペンスの著書の中から一部を以下に抜粋した。
なるほど、彼女は、最高級の料理の味も、高級車の乗り心地も、豪邸の住みごこちも知らない。社会や政治や経済や法律のむずかしい理論やしくみもあまり知らない。そして、日々のつつましい質素な暮らしから脱出するすべも知らない。
にもかかわらず、全米NO.1弁護士ゲーリー・スペンスは、この、年老いた、孤独で、貧しい、無名の女性こそが、一番、
人生のありさまをわかっている
と公言しているのだ!
ならば、その【人生のありさまをわかる】とは、どういうことか?
そのヒントが散りばめられている創作短編がある。1980年代に発表されたこの短編は、いろいろと物議をかもした作品であるが、《虚構でしか表現できない真実》をみごとに表現しているので以下に紹介したい。
この創作短編「一杯のかけそば」が発表された当時、国会衆議院予算委員会の場で、ある野党の議員がこれを読んで聞かせ、こう叫んだ。
「ここには、貧しいけれども一生懸命生きている庶民の姿がうたわれております。また、人間の善意によって支えられながら励まし合って生きている、必死になって生きている人々の姿が描かれております。ー中略ー私どもは、このように必死に生きておられる一人一人の皆さんに信頼される政治を実現しなければならない。」
そう言い終わるやいなや、この議員は返す刀であの【リクルート汚職事件】を追及していったのである。
ともあれ、この創作短編は、先述の弁護士ゲーリー・スペンスの主張である、
年老いた貧しい孤独な無名の庶民の女性が、一番《人生のありさまをわかっている》
ということの意味をみごとに表現している。
なんの地位も権力も富もない庶民にとって、日々の暮らし、そして人生は、ある意味で断念と忍耐と泣き寝入りの連続といっても過言ではない。
貧しい辛いは当たり前、そのなかで、ささやかな楽しみを自分なりに無理やりにでも見つけだして暮らしている。
悲しみや貧しさ、孤独やつらい労働に耐え続けることによって得られるものは、
人の痛みがわかるようになる
との一点であろう。要するに、
弱者の痛みがわかるようになる
ということである。
いかに世界や社会のあらゆる知識を知っていようとも《人の痛み》がわからない、という体たらくでは、人間のことも、人生のことも、所詮は
なんにも、わかっていない
といわざるを得ない。それでは、
物知りな苦労知らずの坊や
に過ぎなくなってしまうのである。
だからこそ、弁護士ゲーリー・スペンスは、あの年老いたホテルのメイドこそ《人の痛みがわかる》=《人生のありさまを一番わかっている》との結論を導き出したに違いない。
創作短編「一杯のかけそば」の冒頭、札幌の真冬の夜に、季節はずれの半コートを着た母親が二人の子どもを連れて「かけそば⋅⋅⋅⋅⋅⋅一杯⋅⋅⋅⋅⋅」と店に入ってきたそのとき、女将も亭主も瞬時にこの親子の《貧しさと格闘する日々》を直覚したのだ。
そして、年の瀬くらいは子どもたちに思い出を作ってやりたいと、恥を忍んで一杯のかけそばを注文する母親の心を感得し、この親子の《痛み》に思いをはせたのである。
それは、この女将と亭主が同じように様々な悲しみや貧しさを経てきた《庶民》だからこそ可能であった同苦共感に他ならない。
これが、この物語の核心であり、ここから一切のやりとりが派生しているといってよい。
また、亭主が「だめだだめだ、そんな事したら、かえって気をつかうべ」とそばを半玉だけ足した場面からは、「救ってやるぞ」と上から下を見下ろすような臭みがなく、どこまでも同じ苦楽を分かちあう庶民として相手の心を《尊重》する姿が見てとれる。
こうした一切は、欲にまみれて庶民を見下す《魂のくさった》人間には到底できないことなのである。
ここにもう一つ、私見を述べさせていただければ、《人生のありさま》つまり言い換えれば、《人生の真実の姿》が立ち現れるのは、人生の総決算である《死》を目前にしたときであると思う。
有名な話であるが、何千人もの臨終をみとってきた、あるホスピス医師が次のように語っている。
“強かった人、多くのものを所有していた人、沢山の事を成し遂げてきた人ほど苦しむ。
お金持ちは、どれほどお金を出しても「死」を避けることができないこと、あの世には1円たりとも持っていけないことに愕然とする。” と。
その通り、【死】のときには、誰も助けられない。たった1人で立ち向かうしかない。しかも、財力も知識も役に立たない。むしろ、普段から威張っていたり、人に命令したり、財力や地位で自分を飾っている人ほど、「どうして、こんなに偉い自分が死なないといけないのか」と苦しむ、という研究もある。
地位も財力も権力もなく、威張られたり屈従を強いられたり、ほとんど《思い通りにならないこと》が当たり前の人生だった多くの庶民にとっては【死】という《思い通りにならない》事態は《思い通りにならない人生》の延長線上に過ぎず、とうに【免疫】ができているとの見方もできる。そのうえ、堪忍だらけのこの娑婆世界などに、ことさら執着する気持ちもそれほど強くはないという面もある。
つまり、人生の真実の姿が立ち現れる【死】という、人間の外側に飾り付けた一切の財力、地位、権力、才能、知識、がまったく通用しない事態が、いや、もともと飾り付けなどなにもない状態が、多くの庶民にとっては、当たり前の日常なのだ。
その「外側に飾り付けた一切のもの」が通用しない【死】を前に、厳然と力を発揮するものがある。
それは、自らの欲のために他者を蹴落とし、利用し、裏切り、蔑み、みくだす、そういう自分と戦い抜いたという《誠実な生きざま》である。
良い人生ほど死への恐怖は少なく安らかな死を迎える。崇高な行いをやり抜いた人には、もはや、死は無いのである。(トルストイ)
との通りである。
したがって、《人の痛みがわかり》《人間の外側から飾り付けられるなにものもなく》《欲にまみれない》純真な庶民こそが、【人生の真実】を本当に知る、
賢者であり、人間の王者
なのである。
私たち庶民は、互いに尊敬し合い、誇り高く胸を張って、威風堂々と進んでいきたい。
有名人や富裕層をうらやみ、自らを卑下し、互いが「自分たちは所詮は底辺だから」などと軽蔑し合う、そんな自分で自分を貶めることほどみっともないことはないし、これほど醜悪な姿もない。
私たちは、政治を決してあきらめることなく、しっかり監視し、庶民から搾取し、甘い汁を吸おうとする《魂のくさった連中》に対しては容赦なく糾弾し、庶民の生活の向上のために戦い続けていかねばならない!
ここまで書いてきたことは、知っている人にとっては常識みたいなものかも知れない。
しかし、中には知らない人もいるのだ。
これを知れば、特定の職業を《底辺》とさげすむことが、どれだけ世間知らずなことであるかわかるはずである。私はこうした思潮を日本中に行き渡らせたい!
最後に「民衆は海、権力者は船」と言ったある大学創立者が青少年たちに贈った言葉で締めくくりたい。
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