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底辺~庶民こそ尊貴!

ドラマ「相棒」の主人公・杉下右京を彷彿とさせる友人がいる。


人への温かい眼差し、冷徹な分析力、豊かな良識教養、などなど…思わず「右京さん!」と呼んでしまいそうになることさえある。(というわけで便宜上、以下、この友人の呼称を右京としたい。)


20年ほど前の、晩秋の夕暮れ時だったと記憶するが、出版社で編集責任者をしていた右京氏と文学の語らいに…


人間の心を深く探究したことで有名なロシアの文豪ドストエフスキー。彼が4年ものあいだ、徒刑囚たちと寝食をともにしたシベリア抑留中に兄ミハイルに宛てた手紙に、こんなものがある。

「兄さん、僕は、この4年のあいだに、とうとう本当の人間が見分けられるようになりました。あなたは本当になさらないかもしれませんが、その中(徒刑囚)にだって、深みのある、強い、素晴らしい性格の持ち主がいるのですよ。」

「ドストエフスキー全集別巻」より

そして、

「兄さん、僕は、この徒刑生活の中から、どれだけ民衆のタイプや性格を学び取ったことでしょう。僕は彼らといっしょに暮らし、馴れ親しんできました。それにしてもなんという素晴らしい人たちでしょう。」

「ドストエフスキー全集別巻」より


ドストエフスキーは、社会的には最下層に位置する刑務所の囚人に対し『素晴らしい人たち』だと感嘆する。


19世紀ロシアで、満足な教育も受けられず、貧しさと世の荒波に押し流されて罪を犯さざるをえなかった庶民の荒々しい姿の奥にドストエフスキーは比類なき「美しい魂」を発見したという。この点はドストエフスキー文学を大きく特徴づけるものとして研究者の間ではよく知られていること、ではある。


しかし、私は右京氏にたずねた。


「いくらなんでも徒刑囚を指して『素晴らしい人たち』っていうのは、言い過ぎだと思いませんか?」


熟慮タイプの右京氏は、伏し目がちに何かを考えていたがしばらくして口を開いた。


「これは…とくに、政・官・財ということになるのでしょうが、上のほうって…言いかた悪いですが【魂がくさっている】場合が多いわけです。

もともと貴族知識階級にいて【魂がくさっているおエライさんたち】を見てきたドストエフスキーにとって、いま、はじめて目の当たりにした【庶民の純真さ】はあまりにも衝撃的だったのではないでしょうか。」


    庶民の純真さ!?


う~ん…自分が庶民だからか《庶民の純真さ》など意識したこともないが…


しかし、他と『くらべたとき』に初めて見えてくるものがある、と右京氏は言う。


よく「海外で生活して、はじめて日本の良さがわかった!」という日本人がいるが、《お偉いさん》を知るからこそ《庶民》の良さがはじめてわかる、というわけか…


それはそうと、社会の上層部の人々の、


   魂がくさっている


というのはなんだ?


思わず聞いた。


「社会の上層部の人たちの『魂がくさっている』というのは右京さん個人の考えですか?」


「個人の考え? いや、世間を知っている人なら誰でもわかっていることだと思いますよ。」


「誰でもわかっている?はぁ…なる..ほど…じゃあ…『魂がくさっている』というのは具体的にどういうことですか?」


右京氏は、コーヒーを一口飲んでから静かに語りはじめた。


「たとえば…ここに1人の若い女性がいます。この女性が不思議な縁で、ある大企業の会長の御曹司と恋に落ちる。

若い二人は互いに心から純粋に愛しあい、結婚を誓う。でも、会長である父は、会社の未来を考え取引先の令嬢と結婚させたい。

そこで会長は、女性を呼び出し、こう告げます。

『うちの息子を好きになってくれてありがとう。でも色々あってね…申し訳ないのだが、今回はこれで手を引いてください』

そう言って、テーブルの上に1000万円の札束を置く…こういうことが普通にできてしまうということです。

まあ、これは、たとえばの話なのでニュアンスを汲み取ってください。」


【魂がくさっている】とは、私のイメージでは、

 《無気力でやる気がない怠け者》


なのだが、どうやら違うようだ。


こうした《怠け者》を世間では、【魂】ではなく

   【根性がくさっている】


というのだそうだ。

右京氏が上に述べた《御曹司》の話からすると、《魂がくさっている》上層部の人々とは、仕事ができ、聡明で、知識があり、人脈があり、礼儀正しく、常識豊かで、どこに出しても恥ずかしくない…と、ここまではたしかに素晴らしい!しかし、悲しいかな、その腹の中は、


【金がすべて】…人を人と思っておらず庶民を見くだしている。


ということだろう。なるほどたしかに、上層部の人々の多くが、もし本当に腹の中がこんな状態だとするならば、

   魂がくさっている


と、右京氏が認識するのも無理はない。


それにしても、“上層部の人々の魂がくさっている”との右京氏の主張に、一瞬耳を疑った。


なぜなら、上層部の人々が、今まさに上層部にいるゆえんは、優れた能力と人格の持ち主による人並みはずれた努力の結果だと想像していたのだから…


なので、この件は、右京氏以外の意見も聞いてみたくなり、以来、家族や友人、知人などに、そうした話題になった際、もののついでにたずねるようにしてきた。


その結果、大きく分けて、以下の4つの意見に集約された。


①ある30代の会社員の女性は、

「上のほうのお偉いさんの『魂がくさっている』って、誰もが心の奥では“感覚”としてわかっていると思う。でもふだんは誰もそんなこと意識しないから、ただ『お金があってうらやましいなぁ』と憧れるだけじゃないかな。」

②60代の会社経営者の男性は、

「魂がくさってる?そりゃそうだね。彼らは能力も高く、人並み以上の努力は当然している。じゃあなぜ、そこまで努力できるか?っていうと、欲にまみれてるからでしょ。欲にまみれなかったら『金持ち』になんかなれないよ。人を蹴落としてでも成功したい!、上にいきたい!ってならないとね。」

③大企業の中間管理職である50代の男性は、

「大会社の経営者クラスになると、自分の会社の従業員なんかは、会社に利益をもたらす使い捨ての【道具】の一つにしか見えなくなる。」

④40代の飲食店経営の女性は、

「そういった上の人たちは、自分たちが『魂がくさっている』とは気づいてないよ。それどころか、庶民をみくだし、『努力が足りないだけだ』なんて思ってる。『つきあう人を選ばないから庶民から抜け出せないんだよ』ってね。“得にならんヤツとはかかわるな”と。それってつまり、エゴ。自分の欲の満足だけ考えろってことだから。こんなことを、恥ずかしげもなく言えることじたい、くさってる証拠なんだけど、それすら気づいてないから病根が深いのよ。」


この約20年間で、数えてはいないが、相当数の人たちの声を聞いた。そのなかには

「《魂がくさっている》かどうかは個人による。上層部に多いという考えは偏見ではないか。」

という趣旨の意見もわずかにあった。

確かにその通りで、正論であるし「個人」によることは間違いない。ただ《比率》の問題であろう。


そのうえで、多くの意見を聞いた結果、ほとんどが上記の四つの声に集約された。なかでも圧倒的に多かったのが上記②の意見であった。


これらの意見については、人情として、ルサンチマン(財力と地位を“持つ者”に対する、“持たざる者”のやっかみ)も多分にあると考えるのが自然である。


しかし、たとえ「やっかみ」だとしても意見を言った当人が自らの深層にひそむ「やっかみ」に気づいていない場合もあり、検証は難しい。そのため今回は、声としてあげられた言葉をそのまま採用することにした。


もとより本格的な調査ではなく、あくまでも出会った範囲内での人々の《生の声》だ。


それを前提としたうえで、代表的な上記の四つの意見をあえて一言にまとめると、


社会の上のほうの人は、欲がすべてになってしまい、傲慢になり人を人とも思えなくなり庶民をみくだしてしまう
        ↓
    魂がくさってしまう


場合が多い。という主張になるだろうと思う。


いずれにせよ、


《上の階層の人の魂がくさっている場合が多い》という事がこれほど広範な人々の共通認識であることに正直、驚きを隠せなかった。


だが、世の中を見渡せば、近くは、政治家の裏金問題や電通元専務髙橋氏、KADOKAWA会長、ADK会長、AOKI会長らによる【東京五輪汚職事件】を引き合いに出すまでもなく、日頃から飽き飽きするほどメディアで報道され、それでも氷山の一角に過ぎぬであろう政⋅官⋅財癒着による、贈収賄、キックバック、不正入札、利益供与の強要、違法謝礼等々の数々の犯罪…。しかも、これが国民からは多額の税金をしぼりとり、その税金で暮らしておきながらの所業なのである。


こうした枚挙にいとまがない悲しい現実は、《上層部の魂がくさっている》という私の身近にいる人々の「共通認識」を裏付けてあまりあるという見方も十分可能であろう。やはり、


   大衆は愚にして賢


というべきか。


いずれにせよ、ここまでみてきたかぎりにおいては、社会の《勝ち組》である上層部と、庶民の違いは、ある面からみると、

  【欲】のさじ加減にある


と思う。


「金持ちになりたい!」、「有名になりたい!」「権力が欲しい!」「安定した地位が欲しい!」「異性にモテたい!」「性欲を満たしたい!」というのが一般的に言うときの【欲】には違いない。


しかし「弱い立場の人を守りたい!」、「差別や戦争をなくし平和のために尽くしたい!」というのも、もちろん【欲】である。


どの【欲】も消滅させることはできないし、させる必要もない。生きていく上で大切なものだからである。だから、《さじ加減》ということになるはずである。


この【欲】について、「あ~、なるほど!」 と感じるものを【人類の知的遺産】のなかに発見した。


それは、ロシアの文豪レフ・トルストイの世界的名作「アンナ・カレーニナ」のあまりにも有名なシーンである。ほんの一部だけ以下に抜粋したい。

この作品のラストに近い場面ーー。

地主貴族であるリョービンは兄の死をきっかけに「死」について考えはじめ、誰ひとりとして避けることのできない「死」というものを前にして、【人生の意味】について悩みはじめる。

人間はなんのために生きるのか?

貴族リョービンは、その答えを求めて、プラトン、スピノザ、カント、ショーペンハウエルといった超一流の哲学者たちの書物をひもときながら、深い思索を重ねていった。

しかし、リョービンは、なに一つ満足のいく解答をみつけることはできなかった。

ことここにいたって彼は、この問題に対しては一切の知識をもってしてもまったく歯が立たないことを思い知らされたのである。

信仰を持たないリョービンは自分に問う。
「自分はいったい何者か?自分はどこにいるのか?なぜここにいるのか?」

農場で百姓たちをながめながら、「あの百姓たちもいずれは土に埋められ、あとかたも残らない。いや、この俺もそうだ….いったい何のためだ?」

リョービンの苦悩は深まる。

そんなとき、農場で運び人夫のフョードルと話をする。

リョービンはフョードルに、この土地を善良な百姓であるフォカーヌイチが借りてくれないものだろうか、とたずねてみた。

「土地代が高えですから、フォカーヌイチにゃ払えねえでしょうな、リョービンのだんな」

フョードルは汗ばんだふところから麦の穂をつまみだしながら、答えた。

「それなら、どうしてミチュハーには払えるんだい?」

「ミチュハーに払えねえってことがありますかい、だんな!あいつはしぼれるだけしぼって、抜け目なくもうけてますからな。

でも、フォカーヌイチじいさんは人の生き皮をはぐようなまねはしませんや。相手によっちゃ、貸した金を勘弁してやることもあるんで。」

「じゃフォカーヌイチはどうして貸した金を勘弁してやるんだね?」

「そりゃ、つまり、人間にも色々あるからでごぜえますよ。ミチュハーみてえに、てめえの腹を肥やすことばかり考えてるのもありゃ、フォカーヌイチみてえに正直なじいさんもいるんでさあ。じいさんは魂のために生きてますだ。神さまのことをおぼえているんでさあ。」

「どんな風に魂のために生きているんだいっ!」

リョービンはほとんど叫ぶように聞いた。

それに対しフョードルはこう答える。

「どんなふうにって、わかりきったことじゃごぜえませんか。正直に神さまの掟どおりに生きてるんでごぜえますよ。」

リョービンは興奮のあまり、息を切らしながら、くるりと踵を返して、スティッキを手にして、急ぎ足で我が家をさして歩きだした。

百姓フョードルから啓示を受けた貴族のリョービンは心の中になにか新しいものを感じて、その新しいなにものかを手さぐりしてみるのであった。《あの男は、自分の欲得のために生きちゃいけないといった。フョードルのやつが、自腹を肥やすために生きるのはよくない、真理のために、神さまのために、生きなければいけないのだ、というと、おれはただちょっと暗示を受けただけで、すぐそれを理解してしまった!》

「アンナ・カレーニナ」(トルストイ・作)より


このあとリョービンは「自分の欲得だけ」のためではなく、魂のため、人のため、に生きようと決意する。それは人を蹴落としたり、利用したり、裏切ったり、見下したりしない、という生きざまをも意味する。

 

 欲は大切だけど欲にまみれるな


とういうわけだ。与えて言えば、


欲にまみれてもいい、ただし、人を蹴落としたり、庶民を見下したりするな!


ということだろう。だが人間というものは、《欲にまみれると》どうしても人として見れなくなってしまうものらしい。そして、その対極にあるのが、


 多くの庶民の生き方ではないか?


ここに着目したからこそ、トルストイとドストエフスキーという世界第一級の知性が、ともに

    庶民こそが偉大!

    庶民から学べ!


と訴えているのではないだろうか。


大衆を見くだす人間はえてして【一流】にあこがれるが、皮肉にも、肝心の【一流】はユゴーでもホイットマンでも【大衆が一番偉大】だと主張している。というよりは、【大衆の偉大さ】を洞察できたからこそ、【一流】なのだ。

ドストエフスキーは晩年、上流知識人たちに向かって以下の思想を舌鋒鋭く訴え続けた。


民衆の真理の前に頭を下げ、それを素直に真理とみとめなければならない。


こうした視点からみると、現代日本の《格差社会》における、


社会の勝ち組=上層階級→優秀
社会の負け組=底辺の庶民→劣等



という《ある種かなり根強い一部の思潮》が、人間の外側に付与される【財力】【権力】の側面のみを基準としたものに過ぎぬことがわかる。


もう少し視野を広げ、【人間性】【生き方】という、人間として、より根本的な部分を基準にした場合には、


上層階級=欲にまみれて傲慢→劣等
多数庶民=欲にまみれず純真→優秀


という【逆転の図式】が浮き彫りになってくるのだ!


そんな当たり前のことを、なにを新たな発見のように書いているのか?


という声が聞こえてきそうであるが、私にとっては、本当に新たな発見だったのだ。そして世の中には私のような人間も多少はいるはずであり、この人たちを対象にすれば、この記事を書く意味も少しはあると考える。


また、


かりにそれを知ったからといってどうなるのか?


との声も聞こえてきそうである。つまり、


お金持ちやお偉いさんの大半は親もお金持ちやお偉いさんだから、結局その《幸運》のおかげで今の立場を享受している。そのくせ庶民が貧しいのは【自己責任】などとほざいている(笑)こんなしょうもない世の中で、どうすれば、格差が是正されるのか、それが知りたいのに、この記事では、まるで「貧しいことは良いことだ!」みたいな論調ではないか!


と。まったくその通りである。ただ、今回の投稿の目的は、


 庶民を見くだす思想を撃破する


ことである。それには、まず、庶民蔑視の思想的基盤の一つである、


   金と地位=幸福


という一面的な枠組みを取っ払わなければならないのであるが、格差是正を論じてしまうと、結局はこの枠組みの中から一歩も抜け出せないのである。この点、ご容赦いただきたい。


さて、ここまでは19世紀という古き時代のロシアの知識人たちの思想の一端をのぞいた。


今度は、一転、現代の、しかもアメリカに目を移し、文豪とはまた違う世界に生きる《実務家》の見識を参考にさらなる普遍性を探ってみたい。


世界に冠たるマクドナルド社を相手取っての裁判をはじめ、《40年以上の活動で刑事裁判無敗》を誇るアメリカの弁護士がいる。彼、ゲーリー・スペンスの著書の中から一部を以下に抜粋した。

あるホテルのメイドが陪審を務めた時の話をしよう。

彼女は毎日、わずかなお金のために何時間も働いている。私たちが落としていったゴミを掃除し、私たちのトイレを磨き、私たちの汚れたシーツを取り替え、夜になると、街の反対側の、小さなアパートに重い足取りで帰る。

年老いて、骨が痛む。疲れ果ててベッドに入ると、以前に夫が寝ていたとなりのシーツに思わず手が伸びる。夫に先立たれたのだ。

彼女は今、陪審員席に座っている。陪審員としての資格について弁護士から質問され、おどおどしている。時々まちがった言葉を話してしまうことが自分でもわかっているからだ。

弁護士が他の陪審員に話しかける。銀行員の妻。うしろの列の大学教授。地元の経営者。だが、彼女にはあまり話しかけない。

けれども、彼女ほど、人間のありさまがわかっている人がいるだろうか。

悲しみや貧しさ、つらい労働、孤独について、彼女ほど知っている人がいるだろうか。

彼女ほど勇敢な人がいるだろうか。

彼女は深い知識を心の奥に抱いている。

彼女が話をする時、他の陪審員は注意深く聞いていなければならない。声が低く、なかなかうまい言葉を見つけられないからだ。だが、彼女が見つけた言葉は、心から出てきた言葉だ。

私の経験からも、最後には他の人々も彼女の話に耳を傾け、尊敬するだろう。

「議論に絶対負けない法」(G・スペンス著)より


なるほど、彼女は、最高級の料理の味も、高級車の乗り心地も、豪邸の住みごこちも知らない。社会や政治や経済や法律のむずかしい理論やしくみもあまり知らない。そして、日々のつつましい質素な暮らしから脱出するすべも知らない。

にもかかわらず、全米NO.1弁護士ゲーリー・スペンスは、この、年老いた、孤独で、貧しい、無名の女性こそが、一番、


 人生のありさまをわかっている


と公言しているのだ!


ならば、その【人生のありさまをわかる】とは、どういうことか?


そのヒントが散りばめられている創作短編がある。1980年代に発表されたこの短編は、いろいろと物議をかもした作品であるが、《虚構でしか表現できない真実》をみごとに表現しているので以下に紹介したい。


この物語は、今から35年前の12月31日、札幌の街にあるそば屋「北海亭」での出来事から始まる。

そば屋にとって一番のかき入れ時は大晦日である。

北海亭もこの日ばかりは朝からてんてこ舞いの忙しさだった。

いつもは夜の12時過ぎまでにぎやかな表通りだが、夕方になるにつれ家路につく人々の足も速くなる。

10時を回ると北海亭の客足もぱったりと止まる。

頃合いを見計らって、人はいいのだが無愛想な主人に代わって、常連客からおかみさんと呼ばれているその妻は、忙しかった1日をねぎらう、大入り袋とみやげのそばを持たせて、パートタイムの従業員を帰した。

最後の客が店を出たところで、そろそろ表ののれんを下げようかと話をしていた時、入口の戸がガラガラガラと力無く開いて、2人の子どもを連れた女性が入ってきた。

6歳と10歳くらいの男の子は真新しいそろいのトレーニングウェア姿で、女性は季節はずれのチェックの半コートを着ていた。

「いらっしゃいませ!」と迎える女将に、その女性はおずおずと言った。

「あのー⋅⋅⋅⋅⋅⋅かけそば⋅⋅⋅⋅⋅⋅1人前なのですが⋅⋅⋅⋅⋅⋅よろしいでしょうか」

後ろでは、2人の子どもたちが心配顔で見上げている。

「えっ⋅⋅⋅⋅⋅⋅えぇどうぞ。どうぞこちらへ」

暖房に近い2番テーブルへ案内しながら、カウンターの奥に向かって、「かけ1丁!」と声をかける。

それを受けた主人は、チラリと3人連れに目をやりながら、「あいよっ! かけ1丁!」とこたえ、玉そば1個と、さらに半個を加えてゆでる。

玉そば1個で1人前の量である。
客と妻に悟られぬサービスで、大盛りの分量のそばがゆで上がる。

テーブルに出された1杯のかけそばを囲んで、額を寄せあって食べている3人の話し声がカウンターの中までかすかに届く。

「おいしいね」と兄。

「お母さんもお食べよ」と1本のそばをつまんで母親の口に持っていく弟。

やがて食べ終え、150円の代金を支払い、「ごちそうさまでした」と頭を下げて出ていく母子3人に、

「ありがとうございました! どうかよいお年を!」と声を合わせる主人と女将。

新しい年を迎えた北海亭は、相変わらずの忙しい毎日の中で1年が過ぎ、再び12月31日がやってきた。

前年以上の猫の手も借りたいような1日が終わり、10時を過ぎたところで、店を閉めようとしたとき、ガラガラガラと戸が開いて、2人の男の子を連れた女性が入ってきた。

女将は女性の着ているチェックの半コートを見て、1年前の大晦日、最後の客を思い出した。

「あのー⋅⋅⋅⋅⋅⋅かけそば⋅⋅⋅⋅⋅⋅1人前なのですが⋅⋅⋅⋅⋅⋅よろしいでしょうか」

「どうぞどうぞ。こちらへ」

女将は、昨年と同じ2番テーブルへ案内しながら、「かけ1丁!」と大きな声をかける。

「あいよっ! かけ1丁!」と主人はこたえながら、消したばかりのコンロに火を入れる。

「ねえお前さん、サービスということで3人前、出してあげようよ」

そっと耳打ちする女将に、

「だめだだめだ、そんな事したら、かえって気をつかうべ」

と言いながら玉そば1つ半をゆで上げる夫を見て、

「お前さん、仏頂面してるけどいいとこあるねえ」

とほほ笑む妻に対し、相変わらずだまって盛りつけをする主人である。

テーブルの上の、1杯のそばを囲んだ母子3人の会話が、カウンターの中と外の2人に聞こえる。

「⋅⋅⋅⋅⋅⋅おいしいね⋅⋅⋅⋅⋅⋅」

「今年も北海亭のおそば食べれたね」

「来年も食べれるといいね⋅⋅⋅⋅⋅⋅」

食べ終えて、150円を支払い、出ていく3人の後ろ姿に

「ありがとうございました! どうかよいお年を!」

その日、何十回とくりかえした言葉で送り出した。

商売繁盛のうちに迎えたその翌年の大晦日の夜、北海亭の主人と女将は、たがいに口にこそ出さないが、9時半を過ぎた頃より、そわそわと落ち着かない。

10時を回ったところで従業員を帰した主人は、壁に下げてあるメニュー札を次々と裏返した。

今年の夏に値上げして「かけそば200円」と書かれていたメニュー札が、150円に早変わりしていた。

2番テーブルの上には、すでに30分も前から「予約席」の札が女将の手で置かれていた。

10時半になって、店内の客足がとぎれるのを待っていたかのように、母と子の3人連れが入ってきた。

兄は中学生の制服、弟は去年、兄が着ていた大きめのジャンパーを着ていた。

2人とも見違えるほどに成長していたが、母親は色あせたあのチェックの半コート姿のままだった。

「いらっしゃいませ!」と笑顔で迎える女将に、母親はおずおずと言う。

「あのー⋅⋅⋅⋅⋅⋅かけそば⋅⋅⋅⋅⋅⋅2人前なのですが⋅⋅⋅⋅⋅⋅よろしいでしょうか」

「えっ⋅⋅⋅⋅⋅⋅どうぞどうぞ。さぁこちらへ」

と2番テーブルへ案内しながら、そこにあった「予約席」の札をなにげなく隠し、カウンターに向かって「かけ2丁!」

それを受けて「あいよっ! かけ2丁!」とこたえた主人は、玉そば3個を湯の中にほうり込んだ。

2杯のかけそばをたがいに食べあう母子3人の明るい笑い声が聞こえ、話も弾んでいるのがわかる。

カウンターの中で思わず目と目を見交わしてほほ笑む女将と、例の仏頂面のまま「うん、うん」とうなずく主人である。

「お兄ちゃん、淳ちゃん……今日は2人に、お母さんからお礼が言いたいの」

「⋅⋅⋅⋅⋅⋅お礼って⋅⋅⋅⋅⋅⋅どうしたの」

「実はね、死んだお父さんが起こした事故で、8人もの人にケガをさせ迷惑をかけてしまったんだけど⋅⋅⋅⋅⋅⋅保険などでも支払いできなかった分を、毎月5万円ずつ払い続けていたの」

「うん、知っていたよ」

女将と主人は身動きしないで、じっと聞いている。

「支払いは年明けの3月までになっていたけど、実は今日、ぜんぶ支払いを済ますことができたの」

「えっ? ほんとう、お母さん!」

「ええ、ほんとうよ。」

「お兄ちゃんは新聞配達をしてがんばってくれてるし、淳ちゃんがお買い物や夕飯のしたくを毎日してくれたおかげで、お母さん安心して働くことができたの。

よくがんばったからって、会社から特別手当をいただいたの。

それで支払いをぜんぶ終わらすことができたの」

「お母さん! お兄ちゃん! よかったね! でも、これからも、夕飯のしたくはボクがするよ」

「ボクも新聞配達、続けるよ。淳! がんばろうな!」

「ありがとう。ほんとうにありがとう」

「今だから言えるけど、淳とボク、お母さんに内緒にしていたことがあるんだ。

それはね⋅⋅⋅⋅⋅⋅11月の日曜日、淳の授業参観の案内が、学校からあったでしょう。

⋅⋅⋅⋅⋅⋅あのとき、淳はもう1通、先生からの手紙をあずかってきてたんだ。

淳の書いた作文が北海道の代表に選ばれて、全国コンクールに出品されることになったので、参観日に、その作文を淳に読んでもらうって。

先生からの手紙をお母さんに見せれば⋅⋅⋅⋅⋅⋅ムリして会社を休むのわかるから、淳、それを隠したんだ。

そのことを淳の友だちから聞いたものだから⋅⋅⋅⋅⋅⋅ボクが参観日に行ったんだ」

「そう⋅⋅⋅⋅⋅⋅そうだったの⋅⋅⋅⋅⋅⋅それで」

「先生が、あなたは将来どんな人になりたいですか、という題で、全員に作文を書いてもらいましたところ、淳くんは、『一杯のかけそば』という題で書いてくれました。

これからその作文を読んでもらいますって。

『一杯のかけそば』って聞いただけで北海亭でのことだとわかったから⋅⋅⋅⋅⋅⋅淳のヤツなんでそんな恥ずかしいことを書くんだ!と心の中で思ったんだ。

作文はね⋅⋅⋅⋅⋅⋅お父さんが、交通事故で死んでしまい、たくさんの借金が残ったこと、お母さんが、朝早くから夜遅くまで働いていること、ボクが朝刊夕刊の配達に行っていることなど⋅⋅⋅⋅⋅⋅ぜんぶ読みあげたんだ。

そして12月31日の夜、3人で食べた1杯のかけそばが、とてもおいしかったこと。

⋅⋅⋅⋅⋅⋅3人でたった1杯しか頼まないのに、おそば屋のおじさんとおばさんは、ありがとうございました! どうかよいお年を!って大きな声をかけてくれたこと。

その声は⋅⋅⋅⋅⋅⋅負けるなよ! 頑張れよ! 生きるんだよ!って言ってるような気がしたって。

それで淳は、大人になったら、お客さんに、頑張ってね! 幸せにね!って思いを込めて、ありがとうございました!と言える日本一の、おそば屋さんになります。

って大きな声で読みあげたんだよ」

カウンターの中で、聞き耳を立てていたはずの主人と女将の姿が見えない。

カウンターの奥にしゃがみ込んだ2人は、1本のタオルの端を互いに引っ張り合うようにつかんで、こらえきれず溢れ出る涙をぬぐっていた。

「作文を読み終わったとき、先生が、淳君のお兄さんがお母さんにかわって来てくださってますので、ここで挨拶をしていただきましょうって⋅⋅⋅⋅⋅⋅」

「まぁ、それで、お兄ちゃんどうしたの」

「突然言われたので、初めは言葉が出なかったけど⋅⋅⋅⋅⋅⋅皆さん、いつも淳と仲良くしてくれてありがとう。

⋅⋅⋅⋅⋅⋅弟は、毎日夕飯のしたくをしています。

それでクラブ活動の途中で帰るので、迷惑をかけていると思います。

今、弟が『一杯のかけそば』と読みはじめたとき⋅⋅⋅⋅⋅⋅ぼくは恥ずかしいと思いました。

⋅⋅⋅⋅⋅⋅でも、胸を張って大きな声で読みあげているうちに、1杯のかけそばを恥ずかしいと思う、その心のほうが恥ずかしいことだと思いました。

あの時⋅⋅⋅⋅⋅⋅1杯のかけそばを頼んでくれた母の勇気を、忘れてはいけないと思います。

⋅⋅⋅⋅⋅⋅兄弟、力を合わせ、母を守っていきます。

⋅⋅⋅⋅⋅⋅これからも淳と仲良くして下さいって言ったんだ」

しんみりと、互いに手を握ったり、笑い転げるようにして肩をたたきあったり、昨年までとは、打って変わった楽しげな年越しそばを食べ終え、300円を支払い

「ごちそうさまでした」

と、深々と頭を下げて出ていく3人を、主人と女将は1年を締めくくる大きな声で、「ありがとうございました! どうかよいお年を!」と送り出した。

また1年が過ぎてーー。

北海亭では、夜の9時過ぎから「予約席」の札を2番テーブルの上に置いて待ちに待ったが、あの母子3人は現れなかった。

次の年も、さらに次の年も、2番テーブルを空けて待ったが、3人は現れなかった。

北海亭は商売繁盛のなかで、店内改装をすることになり、テーブルや椅子も新しくしたが、あの2番テーブルだけはそのまま残した。

真新しいテーブルが並ぶなかで、一脚だけ古いテーブルが中央に置かれている。

「どうしてこれがここに」と不思議がる客に、主人と女将は『一杯のかけそば』のことを話し、このテーブルを見ては自分たちの励みにしている、いつの日か、あの3人のお客さんが、来てくださるかも知れない、その時、このテーブルで迎えたい、と説明していた。

その話が「幸せのテーブル」として、客から客へと伝わった。

わざわざ遠くから訪ねてきて、そばを食べていく女学生がいたり、そのテーブルが、空くのを待って注文をする若いカップルがいたりで、なかなかの人気を呼んでいた。

それからさらに、数年の歳月が流れた12月31日の夜のことである。

北海亭には同じ町内の商店会のメンバーで家族同然のつきあいをしている仲間たちがそれぞれの店じまいを終え集まってきていた。

この夜も9時半過ぎに、魚屋の夫婦が刺身を盛り合わせた大皿を両手に持って入ってきたのが合図だったかのように、いつもの仲間30人余りが酒や肴を手に次々と北海亭に集まってきた。

「幸せの2番テーブル」の物語の由来を知っている仲間たちのこと、互いに口にこそ出さないが、おそらく今年も空いたまま新年を迎えるであろう「大晦日10時過ぎの予約席」をそっとしたまま、窮屈な小上がりの席を全員が少しずつ身体をずらせて遅れてきた仲間を招き入れていた。

海水浴のエピソード、孫が生まれた話、大売り出しの話。

にぎやかさが頂点に達した10時過ぎ、入口の戸がガラガラガラと開いた。

幾人かの視線が入口に向けられ、全員が押し黙る。

北海亭の主人と女将以外は誰も会ったことのない、あの「幸せの2番テーブル」の物語に出てくる薄手のチェックの半コートを着た若い母親と幼い二人の男の子を誰しもが想像するが、入ってきたのはスーツを着てオーバーを手にした二人の青年だった。

ホッとしたため息がもれ、にぎやかさが戻る。

女将が申し訳なさそうな顔で「あいにく、満席なものですから」

断ろうしたその時、和服姿の婦人が深々と頭を下げ、入ってきて二人の青年の間に立った。

店内にいる全ての者が息を呑んで聞き耳を立てる。

「あの⋅⋅⋅⋅⋅⋅かけそば⋅⋅⋅⋅⋅⋅3人前なのですが⋅⋅⋅⋅⋅⋅よろしいでしょうか」

その声を聞いて女将の顔色が変わる。

十数年の歳月を瞬時に押しのけ、あの日の若い母親と幼い二人の姿が目の前の3人と重なる。

カウンターの中から目を見開いてにらみ付けている主人と今入ってきた3人の客とを交互に指さしながら「あの⋅⋅⋅⋅⋅⋅あの⋅⋅⋅⋅⋅⋅、おまえさん」と、おろおろしている女将に青年の一人が言った。

「私達は14年前の大晦日の夜、親子3人で1人前のかけそばを注文した者です。

あの時、一杯のかけそばに励まされ、3人手を取り合って生き抜くことが出来ました。

その後、母の実家があります滋賀県へ越しました。

私は今年、医師の国家試験に合格しまして京都の大学病院に小児科医の卵として勤めておりますが、年明け4月より札幌の総合病院で勤務することになりました。

その病院への挨拶と父のお墓への報告を兼ね、おそば屋さんにはなりませんでしたが、京都の銀行に勤める弟と相談をしまして、今までの人生の中で最高の贅沢を計画しました。

それは大晦日に母と3人で札幌の北海亭さんを訪ね、3人前のかけそばを頼むことでした」

うなずきながら聞いていた女将と主人の目からどっと涙があふれ出る。

入口に近いテーブルに陣取っていた八百屋の大将がそばを口に含んだまま聞いていたが、そのままゴクッと飲み込んで立ち上がり

「おいおい、女将さん。何してんだよお。

10年間この日のために用意して待ちに待った『大晦日10時過ぎの予約席』じゃないか。

ご案内だよ。ご案内」

八百屋に肩をぽんと叩かれ、気を取り直した女将は

「ようこそ、さあどうぞ。 おまえさん、2番テーブルかけ3丁!」

仏頂面を涙でぬらした主人、

「あいよっ! かけ3丁!」

期せずして上がる歓声と拍手の店の外では、先ほどまでちらついていた雪もやみ、新雪にはね返った窓明かりが照らし出す『北海亭』と書かれたのれんを、ほんの一足早く吹く睦月の風が揺らしていた。

「一杯のかけそば」(栗良平・作)より


この創作短編「一杯のかけそば」が発表された当時、国会衆議院予算委員会の場で、ある野党の議員がこれを読んで聞かせ、こう叫んだ。

「ここには、貧しいけれども一生懸命生きている庶民の姿がうたわれております。また、人間の善意によって支えられながら励まし合って生きている、必死になって生きている人々の姿が描かれております。ー中略ー私どもは、このように必死に生きておられる一人一人の皆さんに信頼される政治を実現しなければならない。」

そう言い終わるやいなや、この議員は返す刀であの【リクルート汚職事件】を追及していったのである。


ともあれ、この創作短編は、先述の弁護士ゲーリー・スペンスの主張である、


年老いた貧しい孤独な無名の庶民の女性が、一番《人生のありさまをわかっている》


ということの意味をみごとに表現している。


なんの地位も権力も富もない庶民にとって、日々の暮らし、そして人生は、ある意味で断念と忍耐と泣き寝入りの連続といっても過言ではない。


貧しい辛いは当たり前、そのなかで、ささやかな楽しみを自分なりに無理やりにでも見つけだして暮らしている。


悲しみや貧しさ、孤独やつらい労働に耐え続けることによって得られるものは、


 人の痛みがわかるようになる


との一点であろう。要するに、


 弱者の痛みがわかるようになる


ということである。


いかに世界や社会のあらゆる知識を知っていようとも《人の痛み》がわからない、という体たらくでは、人間のことも、人生のことも、所詮は


 なんにも、わかっていない


といわざるを得ない。それでは、


  物知りな苦労知らずの坊や


に過ぎなくなってしまうのである。


だからこそ、弁護士ゲーリー・スペンスは、あの年老いたホテルのメイドこそ《人の痛みがわかる》=《人生のありさまを一番わかっている》との結論を導き出したに違いない。


創作短編「一杯のかけそば」の冒頭、札幌の真冬の夜に、季節はずれの半コートを着た母親が二人の子どもを連れて「かけそば⋅⋅⋅⋅⋅⋅一杯⋅⋅⋅⋅⋅」と店に入ってきたそのとき、女将も亭主も瞬時にこの親子の《貧しさと格闘する日々》を直覚したのだ。


そして、年の瀬くらいは子どもたちに思い出を作ってやりたいと、恥を忍んで一杯のかけそばを注文する母親の心を感得し、この親子の《痛み》に思いをはせたのである。


それは、この女将と亭主が同じように様々な悲しみや貧しさを経てきた《庶民》だからこそ可能であった同苦共感に他ならない。


これが、この物語の核心であり、ここから一切のやりとりが派生しているといってよい。


また、亭主が「だめだだめだ、そんな事したら、かえって気をつかうべ」とそばを半玉だけ足した場面からは、「救ってやるぞ」と上から下を見下ろすような臭みがなく、どこまでも同じ苦楽を分かちあう庶民として相手の心を《尊重》する姿が見てとれる。


こうした一切は、欲にまみれて庶民を見下す《魂のくさった》人間には到底できないことなのである。


ここにもう一つ、私見を述べさせていただければ、《人生のありさま》つまり言い換えれば、《人生の真実の姿》が立ち現れるのは、人生の総決算である《死》を目前にしたときであると思う。


有名な話であるが、何千人もの臨終をみとってきた、あるホスピス医師が次のように語っている。

“強かった人、多くのものを所有していた人、沢山の事を成し遂げてきた人ほど苦しむ。
お金持ちは、どれほどお金を出しても「死」を避けることができないこと、あの世には1円たりとも持っていけないことに愕然とする。” と。

その通り、【死】のときには、誰も助けられない。たった1人で立ち向かうしかない。しかも、財力も知識も役に立たない。むしろ、普段から威張っていたり、人に命令したり、財力や地位で自分を飾っている人ほど、「どうして、こんなに偉い自分が死なないといけないのか」と苦しむ、という研究もある。

地位も財力も権力もなく、威張られたり屈従を強いられたり、ほとんど《思い通りにならないこと》が当たり前の人生だった多くの庶民にとっては【死】という《思い通りにならない》事態は《思い通りにならない人生》の延長線上に過ぎず、とうに【免疫】ができているとの見方もできる。そのうえ、堪忍だらけのこの娑婆世界などに、ことさら執着する気持ちもそれほど強くはないという面もある。


つまり、人生の真実の姿が立ち現れる【死】という、人間の外側に飾り付けた一切の財力、地位、権力、才能、知識、がまったく通用しない事態が、いや、もともと飾り付けなどなにもない状態が、多くの庶民にとっては、当たり前の日常なのだ。


その「外側に飾り付けた一切のもの」が通用しない【死】を前に、厳然と力を発揮するものがある。
 

それは、自らの欲のために他者を蹴落とし、利用し、裏切り、蔑み、みくだす、そういう自分と戦い抜いたという《誠実な生きざま》である。


良い人生ほど死への恐怖は少なく安らかな死を迎える。崇高な行いをやり抜いた人には、もはや、死は無いのである。(トルストイ)


との通りである。


したがって、《人の痛みがわかり》《人間の外側から飾り付けられるなにものもなく》《欲にまみれない》純真な庶民こそが、【人生の真実】を本当に知る、


  賢者であり、人間の王者


なのである。


私たち庶民は、互いに尊敬し合い、誇り高く胸を張って、威風堂々と進んでいきたい。


有名人や富裕層をうらやみ、自らを卑下し、互いが「自分たちは所詮は底辺だから」などと軽蔑し合う、そんな自分で自分を貶めることほどみっともないことはないし、これほど醜悪な姿もない。


私たちは、政治を決してあきらめることなく、しっかり監視し、庶民から搾取し、甘い汁を吸おうとする《魂のくさった連中》に対しては容赦なく糾弾し、庶民の生活の向上のために戦い続けていかねばならない!


ここまで書いてきたことは、知っている人にとっては常識みたいなものかも知れない。

しかし、中には知らない人もいるのだ。

これを知れば、特定の職業を《底辺》とさげすむことが、どれだけ世間知らずなことであるかわかるはずである。私はこうした思潮を日本中に行き渡らせたい!


最後に「民衆は海、権力者は船」と言ったある大学創立者が青少年たちに贈った言葉で締めくくりたい。

“「自分は、人より偉い」と思っている人間は、そう思っている分だけ、「マイナス人間」なんです。ところが、社会的に地位がある人ほど、心の中で、そう思っている人が多い。多くの場合、医師は、患者よりも自分が偉いように錯覚する。法律家も、そうです。
学者は、自分の専門のこと以外は、素人なのに、自分がほかの人より偉いように錯覚する。そういう「人間を見くだす人」が高い地位にいるのでは、いつまでたっても、社会はよくならない。その間違った考えをひっくり返さなければならない。”

「希望対話」より











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