「いじめる」人間は、最後は堕落し、きらわれ、敗北してゆく。
~「希望対話」より~
Vol.1では【いじめの実体験】を開示し、
vol.2では【加害者に影響を与えた世相】をふり返った。
一方で《いじめの被害者》である私自身に、いじめられる原因はなかったのか?
Vol.3ではこの点をふり返りたい。
殴られる、蹴られる、引きずり回される、そんな
身体の痛みは時とともに癒される。
しかし、その瞬間の痛みとセットで打ち込まれた、
《恐怖》
はなかなか消えない。
そして、自分が殴られたり蹴られたりしているとき、
『ああ、この人間は俺のこと、殴ったり蹴ったりしてもいいと思うほど、どうでもいい、ゴミくらいにしか感じていないんだ…』
という《現実》を身体の激痛とセットで、
骨の髄までたたき込まれる!
そんな仕打ちを毎日、しかも数年ものあいだ受け続けているとどうなるか?
「この人間が」私をゴミあつかいする、、、、のではない。
という感覚になる。つまり、
私がゴミなんだ…ゴミだからゴミにふさわしい仕打ちを受けている、ただそれだけのことなんだ…
としか感じられなくなる。
心の中は、救いようがないほど《卑屈》になり、
自分なんか生きてる価値がない
という感覚になり、
早く死にたい
という意識が常態化する。
談笑する人の輪にいても、
自分なんかが、この場にいるなんて、おこがましい。
と萎縮し、人の輪に入らないよう必死に立ち回る。
めずらしく笑顔で話しかけてくれる人がいても、内心、
こんな笑顔を見せているが、どうせ腹の中では俺を見下しているんだろう
という《被害妄想》も常態化する。
『ゴミみたいな自分』など、どうなってもいいので風呂に入る気力も失せて、
髪型や服装などの《身だしなみ》もかまわなくなってしまう。
そして、この、どうしようもない【自己無価値感】で生きるのはとても苦しい。そこで心の防衛機能がバランスをとろうとするため、異様にプライドが高くなり、ときに傲慢にさえなる。しかして《卑屈》と《傲慢》を古時計の振り子のように行ったり来たりする。
また、人間が怖くて、自宅から一歩外に出るときは異常なまでの恐怖にさいなまれる。
つまり、人を避け、ビクビクオドオドしている、挙動不審で不潔なヤツ
の出来上がり。
そして、このようなキャラはイジメの対象になりやすいため、さらにいじめられてしまうという《負のスパイラル》にハマる。
社会に出てからも《スパイラル》はつづいた。
そして、自らの青少年期を振り返るとき、
《いじめられる自分》に原因があったのだ
と、思うのが常であった。
柔道部もそうだ。【シゴキという名のいじめ】の巣窟を選んで入って行ったのは他ならぬ自分ではなかったか?イヤなら入らなければよかったではないか?と。
なにより、
勉強もビリ、スポーツもダメ、性格も暗い、人一倍自己中心的、ウソつき、変わり者…
これでは、普通に考えれば、いじめられないほうがおかしい、とずっと思っていた。
そんなとき、ある哲人の言葉との出会いがあった。
それは、23年も前のことだ。
冒頭はこう、はじまる…
単純な【勧善懲悪】の時代はとうに終わり、なにが善でなにが悪かは時代や国によって変わる相対的なものだから簡単に善悪を断定しずらい――。そんな風潮になって久しい今、
【いじめは絶対に「悪」】
とは、なんと断定的な…いや、なんと率直な物言いだろう!
これが最初に私が感じた事だった。
なるほど、心が死んでいるから、人をいじめる…
クギを抜いても穴はずっと残る…本当にその通りだ!
「原因」はいじめている側の「心の中」にあるとはいかなることか?
「ぼくは、堅くて、柔軟性がないから、人の意見を聞けなかった面があるかも知れません」との「いじめられ経験者」の考えに対し、
と答えている。続いて、
なんと、「いじめられる側」より「いじめる側」のほうが「みじめで恥ずかしい人間」とは!
私は「いじめられる側」のほうが「みじめで恥ずかしい」と思っていた…
ここまで言葉をたどってきた私の胸の奥で、なにかが弾けた。
まあ、具体的な対処についてはそうならざるを得ない。
「いじめる」ほうの子が、そのことで、どれほど自分の人間性を破壊しているか…
とは、なんと鋭い視点!
恥ずかしいのは傍観者だ!
と。その通りだ。
いじめられている人は、正しい人!
「加害者も被害者もどっちもどっち」という考えが「いじめ」の温床…
「うちの子は、いじめる側だから、安心」などという考え方があるかぎり、変わらない。
「いじめ」はいじめる側の心を徹底的に破壊する!
Vol.4へつづく…