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街歩き #010 | 東京都江東区の旅

東京都江東区

 こんにちは。本日ご紹介する街は「東京都江東区」です。江東区北部の清澄白河周辺をぶらり。

 清澄白河は清澄と白河の合成地名です。清澄は土地の開拓者・清住弥兵衛が地名由来。かつては弥兵衛町と呼ばれていました。白河は霊巌寺に白河藩主・松平定信の墓所があるため白河町と名付けられました。

 岩崎家が築いた清澄庭園・阿茶局ゆかりの雲光院・幕末の深川にタイムスリップできる深川江戸資料館・松平定信墓所のある霊巌寺・芭蕉庵があったとされる芭蕉稲荷神社・松尾芭蕉の芭蕉記念館・深川発祥の地である深川神明宮など…。

 今回は「東京都江東区」の清澄白河を歩きます。

清澄白河駅

清澄庭園

清澄庭園

 清澄白河駅近くに広がる大きな庭園が清澄庭園です。

 都名勝。一説には紀伊國屋文左衛門の屋敷跡と伝わります。江戸時代は下総国関宿藩主久世大和守の下屋敷。1878年岩崎彌太郎が取得し深川親睦園として開園。関東大震災後の1924年岩崎家から東京市に寄付され、1932年に清澄庭園として開園。

清澄庭園 パンフレット

 中央にある池は大泉水。かつては隅田川から水を引いていたそうですが、現在は雨水でまかなわれています。

清澄庭園 大泉水

 園内の一番奥にある " 芭蕉の句碑" 。芭蕉の最も有名な句 ” 古池や かはづ飛び込む 水の音 " が刻まれています。

清澄庭園 芭蕉の句碑

 大泉水に突き出すように建てられている数寄屋造りの建物が " 涼亭 " 。岩崎家が1909年に建立しました。震災・戦災の被害から免れた歴史的建造物です。

清澄庭園 涼亭

 出入口脇にある大正記念館。大正天皇の葬儀に用いられた葬場殿を移築したものです。戦火で焼失してしまったため、1953年に貞明皇后葬儀殿の材料で再建。1989年に全面改築されています。

清澄庭園 大正記念館

 池の端に石を点々と置いて歩けるようにしている " 磯渡り " は水辺を間近に感じますね。磯渡りの上では池の亀が甲羅干し中。アカミミっぽいので外来種だな。

清澄庭園 磯渡り
清澄庭園 亀の甲羅干し

採茶庵跡

採茶庵跡

 清澄庭園の南に流れる仙台堀川を渡ったところに採茶庵跡があります。

 江戸時代中期の俳人・杉山杉風の庵室跡。杉風は松尾芭蕉門人で蕉門十哲の一人。芭蕉は奥の細道の旅に出る前、住居の芭蕉庵を手放し、しばらく採茶庵で過ごしました。ここで門人達と別れを惜しんだ後、舟で隅田川をのぼり、千住大橋から奥州へと旅立ちました。

採茶庵跡
仙台堀川

 古地図の緑色の部分が現在の清澄庭園。その南側を流れている仙台堀川を西へ進み、隅田川で北上したのですね。北上した先にある千住大橋から松尾芭蕉の奥の細道紀行がスタートします。

古地図 清澄白河周辺

雲光院(浄土宗)

雲光院

 採茶庵跡から徒歩10分。住宅と各種寺院が混在するエリアの一角にあるお寺が雲光院です。

雲光院

 1611年阿茶局開基。自身の菩提寺として自らの発願で創建。阿茶局の法名・雲光院がそのまま寺名となりました。57年明暦の大火で被災。神田岩井町に移った後、82年に現在地・深川に移転。1923年の関東大震災・45年の東京大空襲の二度の被災により御本尊などを焼失。

 阿茶局の墓塔(石造宝篋印塔)は本堂右手の墓所の中にあります。石塔正面に寛永14年(1637)の銘が刻まれていますが、これは阿茶局が亡くなった年です。

雲光院 阿茶局墓塔(石造宝篋印塔)

 境内には六色の頭巾を被ったお地蔵様がいらっしゃいます。遊び心があって嬉しくなりますね。ふくにゃんという招き猫の石像もありますよ。
 法事でお忙しくされている中でも丁寧に御朱印対応いただきました。参拝者を温かく迎えていただける大変素敵なお寺です。

雲光院 六地蔵
雲光院 ふくにゃん

 < 阿茶局 >

阿茶局 肖像画

 1555年甲府生。父は甲斐武田氏の家臣・飯田直政。今川氏家臣・神尾忠重に嫁ぎましたが、77年に死別。79年徳川家康の側室に。馬術や武術にも優れ、才知に長けていたため、側室でありながら家康の懐刀として政治的手腕を発揮しました。89年徳川秀忠の生母・西郷局が亡くなった後は秀忠を養育。1614年大阪冬の陣では使者として和睦の成立に貢献。16年の家康没後も秀忠・家光に仕えました。20年秀忠の五女・和子が東福門院として入内する際には母親代わりとして上洛。後水尾天皇からの信頼を得て「従一位」に叙せられました。37年没。菩提寺は東京・雲光院と京都・上徳寺。

雲光院 阿茶局墓塔(石造宝篋印塔)
雲光院 御朱印

深川江戸資料館

深川江戸資料館

 雲光寺から徒歩5分。深川資料館通りを進んでいくと深川江戸資料館が見えてきます。

深川江戸資料館 パンフレット

 1986年開館。江戸時代に関する資料を展示・収集・保存する施設。常設展示では天保年間の深川佐賀町の町並みを実物大で再現。幕末の江戸深川へのタイムスリップ気分が味わえます。

 導入展示室では松平定信や鶴屋南北など深川ゆかりの人物と深川の歴史を紹介。

深川江戸資料館 導入展示室

 地下1階が常設展示室。幕末の深川佐賀町の町並みが実物大で再現されています。展示室に入った時はちょうど夜の場面。船着場にある猪牙舟は今でいう水上タクシーです。水に囲まれた深川は舟運の町でした。

深川江戸資料館 猪牙舟
深川江戸資料館 船宿相模屋

 しばらくすると、鳥のさえずりと共に朝の場面に代わります。船着場の周辺には稲荷寿司や天ぷらの出店があります。江戸時代のファストフードですね。

深川江戸資料館 船着場
深川江戸資料館 天麩羅屋
深川江戸資料館 稲荷鮨屋

 町の一角にある火の見櫓。江戸の町は火事との戦いの歴史でした。火の見櫓周辺は火除け地として、類焼を防ぐための広場が設けられています。

深川江戸資料館 火の見櫓

 庶民が住んでいる長屋も再現されています。長屋の真ん中に共用の井戸。井戸からの水で洗濯をしている長屋の風景は時代劇でもお馴染みですね。ごみ溜めには割れた瀬戸物が入っています。

深川江戸資料館 井戸・稲荷
深川江戸資料館 ごみ溜め

 江戸時代の商店。季節の野菜・漬物・卵を並べた八百屋。精米した米を売る舂米屋がありますね。

深川江戸博物館 八百屋八百新
深川江戸資料館 舂米屋上総屋

 資料館の入口には国民栄誉賞授賞者である横綱大鵬の顕彰コーナーがあります。大鵬は長年深川で暮らしていました。江東区名誉区民第1号となりました。

深川江戸資料館 横綱大鵬パネル

霊巌寺(浄土宗)

霊巌寺

 深川江戸資料館から歩いてすぐ。資料館の隣にあるお寺が霊巌寺です。

 1624年雄誉霊巌上人開山。関東十八檀林の一つ。明暦の大火で焼失し、1858年日本橋霊巌島から現在地に移転。境内の銅像地蔵菩薩坐像は江戸六地蔵の一つ。国史跡の松平定信墓所があります。当地白河は定信が陸奥白河藩主だったことに由来します。

霊巌寺

 境内には、江戸六地蔵の一つである銅造地蔵菩薩坐像があります。江戸六地蔵は、深川の地蔵坊正元が不治の病の平癒を地蔵菩薩に祈願したところ、無事に平癒したことから、1706年に造立の願を発し、造立されました。

< 江戸六地蔵 >
 第1番|品川寺(品川区・東海道)
 第2番|東禅寺(台東区・奥州街道)
 第3番|太宗寺(新宿区・甲州街道)
 第4番|真性寺(豊島区・旧中山道)
 第5番|霊巌寺(江東区・水戸街道) 
 第6番|永代寺(江東区・千葉街道)<第6番は廃仏毀釈により廃寺>

霊巌寺 銅造地蔵菩薩坐像
霊巌寺 銅造地蔵菩薩坐像 ポストカード

 国史跡の松平定信墓所。門が閉じられており、墓所の中に入ることはできません。

霊巌寺 松平定信墓
霊願寺 松平定信墓 ポストカード
霊厳寺 御朱印

 < 松平定信 >

深川江戸資料館 松平定信

 1759年生。田安徳川家・徳川宗武の七男。8代将軍吉宗の孫。76年陸奥白河藩主・松平定邦の養子に。天明の大飢饉での藩政建て直しの手腕を認められ、1787年11代家斉の老中主座に就任。寛政の改革による幕政改革の推進で成果をあげる。93年極端な緊縮財政による批判を受け辞職。1829年没。

霊巌寺 松平定信墓
瀬戸神社 旧扁額 松平定信筆(神奈川県横浜市金沢区)
玉川碑 松平定信筆(東京都狛江市)

 < 関東十八壇林 >

増上寺(東京都港区)

 江戸幕府が定めた関東における浄土宗の僧侶養成・学問所。

 東京|増上寺・伝通院・霊巌寺・霊山寺・幡随院・大善寺
 埼玉|蓮馨寺・勝願寺・浄国寺
 神奈川|光明寺
 千葉|東漸寺・大巌寺
 茨城|弘経寺(常総)・弘経寺(結城)・常福寺・大念寺
 群馬|大光院・善導寺

 これまでに9箇所参拝済。

伝通院(東京都文京区)
霊巌寺(東京都江東区)
蓮馨寺(埼玉県川越市)
勝願寺(埼玉県鴻巣市)
浄国寺(埼玉県さいたま市岩槻区)
光明寺(神奈川県鎌倉市)
東漸寺(千葉県松戸市)
大巌寺(千葉県千葉市中央区)

芭蕉稲荷神社・深川芭蕉庵旧地

芭蕉稲荷神社

 1917年の台風で"芭蕉道愛の石の蛙"が出土。21年東京府は当地を"芭蕉翁古池の跡"と指定しました。神社は地元の人々の尽力により創建。芭蕉は1680年から当地・深川芭蕉庵を本拠地として数々の句や紀行文を著しました。境内には"古池や蛙飛びこむ水の音"の句碑があります。

芭蕉稲荷神社 松尾芭蕉句碑
芭蕉遺愛の石の蛙

 < 松尾芭蕉 >

松尾芭蕉像(埼玉県草加市)

 1644年伊賀生。蕉風と呼ばれる句風を確立した江戸元禄期の俳人。89年に弟子・河合曾良と共に江戸深川を出発し、千住から奥州・北陸を巡り美濃大垣まで旅した紀行文"おくのほそ道"が有名。94年没。芭蕉は"行春や鳥啼魚の目は泪"の句を矢立の初めとして千住から奥の細道に旅立ちました。

清澄庭園 古池の句碑
松尾芭蕉像(東京都足立区・荒川区)
採茶庵跡 松尾芭蕉像

芭蕉庵史跡展望庭園

芭蕉庵史跡展望庭園 松尾芭蕉像

 芭蕉稲荷神社近くの隅田川遊歩道沿いにある庭園。小名木川と隅田川の合流地点にあります。芭蕉は採茶庵から舟で小名木川を進み、隅田川に入りました。隅田川が望める絶好のロケーションにある庭園。園内にある芭蕉の銅像は17時に回転するそうです。

芭蕉庵史跡展望庭園 入口

 庭園内にある芭蕉句碑。1693年”奥の細道”の旅を終えた芭蕉は小名木川五本松のほとりに船を浮かべ ”川上と この川下や 月の友” の句を詠みました。「今宵名月の夜に船を浮かべて月を眺めているが、この川上にも風雅の心を同じくして月を眺めている友がいることだろう」という意味です。当地にあった小名木川五本松は月見の名所として江戸市民の人気を博していました。

芭蕉庵史跡展望庭園 芭蕉句碑

芭蕉記念館

芭蕉記念館 パンフレット

 1981年開館。松尾芭蕉関係の資料収集や展示を行う施設です。松尾芭蕉の生涯や奥の細道の紀行内容などが展示されています。

芭蕉記念館 バショウの木

 1917年に出土した"石の蛙"も展示されていますね。館内4箇所にあるスタンプを押すと芭蕉の絵が完成する企画が行われていました。

芭蕉記念館 石の蛙
芭蕉記念館 スタンプラリー

深川神明宮

深川神明宮

 1615年頃深川八郎右衛門創建。徳川家康は当地を開拓した深川八郎右衛門にちなみ、地名を"深川"とするように命じました。御朱印にも"深川発祥の地"と書かれていますね。深川七福神の寿老人も祀られていますが、七福神の御朱印は正月のみの対応です。

深川神明宮 鳥居
深川神明宮 御朱印

小さな旅の終わりに

 小名木川と隅田川の合流地点にある芭蕉庵史跡展望庭園の目の前に見える清洲橋。関東大震災後の帝都復興事業の一環として1928年に竣工しました。モデルは当時世界で最も美しい橋と呼ばれていたドイツ・ケルン市の大吊橋。国重文に指定されています。

隅田川 清洲橋

 岩崎弥太郎から岩崎家3代が築いた清澄庭園。弥太郎が買い取り整備を始め、弥之助が回遊式庭園として完成。久弥の時代に関東大震災の被災を受け、東京市に公園としての寄贈を行いました。見る方向で変化する景色が面白い庭園です。

清澄庭園

 カラフルなお地蔵様が素敵な雲光院。開基の阿茶局は来年の大河ドラマ”どうする家康”では登場しますかね。徳川家康の側室の中でも異彩を放つ重要人物ですからきっと登場するものと思いますが。"真田丸"では斉藤由貴さんが演じていました。

雲光院 阿茶局の墓碑

 幕末の街が再現された深川江戸資料館。朝昼夜と照明が変化します。入った時はちょうど夜の時間。ずっとこのままかと思っていたらすぐに鳥のさえずりと共に朝になりました。

 霊巌寺の松平定信墓所。1929年の100回忌で慰霊祭を挙行し、関東大震災の被害を受けた墓石を修理したのは、定信を敬愛する渋沢栄一でした。

霊巌寺 松平定信墓所

 有名な"古池や…"の句が詠まれた深川芭蕉庵。芭蕉が居を構えた深川は昔も今も水に囲まれたリバーシティです。遊歩道と水辺が近いところが隅田川らしさを感じる風景ですね。

芭蕉稲荷神社 松尾芭蕉句碑
隅田川

 隅田川と清洲橋の青さが印象的だった清澄白河。青つながりということで David Guetta と Bebe Rexha の ” I'm Good (Blue) "。

 EDM(Electronic Dance Music)ブームを牽引するDavid Guetta。最新のヒット曲がこの曲です。” And wherever it takes me, I'm down for the ride(どこにでも連れてかれてもノリノリなの)Baby, don't you know I'm good, yeah, I'm feelin' alright(いい気分なのわからない?ああ、絶好調)"という歌詞にあるようにとにかくノリのいい曲です。


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