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気になるのは足袋の色


足袋の色といえば?

 先日、太田記念美術館(東京都渋谷区)へ「月岡芳年 月百姿」を観に行ってきた。月岡芳年(つきおか よしとし/1839~92)の晩年の作であり代表作でもある「月百姿(つきひゃくし)」。タイトルの通り、月にちなんだ物語を題材に100点からなる作品を前期(2024.4.3~29)と後期(5.3~5.26)に分けて紹介する展示会だ。

 実は浮世絵に興味を持ち始めたのはごく最近のこと。だが見始めるといろいろなところが気になってくる。今回は月…ではなく足元、とくに足袋に注目したい。ところで足袋というと何色を思い浮かべるだろうか。冠婚葬祭などで見かける足袋のイメージがあり、礼装以外でも足袋といえば白色という印象が強い。

月岡芳年の浮世絵に見る足袋の色

 ところが月岡芳年の絵を見ていると、数は少ないものの白足袋のほかに色のついた足袋などが描かれている。紫や藤色、茶色や鼠色、柄物などもあった。

 たとえば、「桜さくすみの川にこぐふねも くれて関屋に月をこそ見れ水木辰之助」という絵は、元禄年間を代表する歌舞伎の女形、水木辰之助(みずきたつのすけ)が夜桜を見物する姿が描かれている。水木が始めたとされ、後に女形の典型となった紫色の縮緬帽子を頭に被っているのだが、よく見ると同じ紫色の足袋を履いている。

 ほかにも着物の柄と足袋の色を藤色で揃えたように見受けられる絵もあった。

足袋の色は創作か

 月岡芳年は絵をより効果的に見せるために、実際には季節とそぐわない草花を描くなど、芳年独特の創作があるとされている。では、足袋の色や柄も芳年の創作にすぎないのだろうか。

 今回の展示会とは別になるが、芳年より前の世代になる勝川春潮が1781~1801年頃に描いた「橋上の行交(きょうじょうのゆきかい)」では、黒い足袋に赤い鼻緒の草履を履く男性、その後ろには浅黄色のような足袋を履いた子供が描かれている。これを見ると、どうやら芳年が独自の美的観点からだけで色を付けたというわけではなさそうだ。

足袋の歴史

 『江戸のきものと衣生活(いせいかつ)』によると、江戸時代以前より主に革製が使われており、特に女性の間では紫の足袋が流行っていた。ほかに白や浅黄、浅葱(薄い藍色)の染革(そめがわ)の足袋が寛文年間(1661~73年)まで用いられていた。ところが明暦3年に起こった江戸の大火以降、耐火用として革の羽織の需要が高まったことで、革の価格が高騰。同時期に木綿が普及したことで男女とも木綿の足袋を履くようになったようだ。

 貞享年間(1684~88)には畝刺しといって、木綿に絹糸で刺し子をした足袋が広まるも、しだいに女性は白木綿の足袋が流行るようになった。男性は、元禄年間(1688~1704年)に柿色の木綿製が流行した。その後、八代将軍徳川吉宗が鷹狩の際に紺色の足袋を履いたことで、武家の間で用いられるようになり、やがて庶民へ広まるも江戸時代後期には男性は紺や白が、女性は白に限られるようになっていたのだという。

色柄物があってもおかしくない?

 先の「桜さくすみの川にこぐふねも くれて関屋に月をこそ見れ水木辰之助」で描かれている描かれている紫縮緬の被り物(帽子)は、水木辰之助(1673~1745年)が始めたもので水木帽子ともいわれている。時代的に色の足袋が広く用いられていた時代と重なっている。

 ということは、実際に水木辰之助が紫の足袋を履いていた可能性もある。芳年の他の浮世絵にあった茶や鼠色、柄物の足袋も実際も履かれていたと考えてもよさそうだ。

 細かい部分に着目して観る楽しみもある浮世絵。次はどのような気づきに出会えるだろう。
 

 <参考文献>
『月岡芳年 月百姿』日野原健司著 公益社団法人 太田記念美術館(青玄社 2017年8月31日初版発行)
『日本ビジュアル生活史 江戸のきものと衣生活(いせいかつ)』丸山伸彦編著(小学館 2007年6月27日 第1版第1刷発行)
 
 


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