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義父に「社長」と呼ばれたあの日

昨日9月21日は、「世界アルツハイマーデー」だそうだ。1994年のこの日、スコットランドのエジンバラで第10回国際アルツハイマー病協会国際会議が開催されたことに由来する。

日本では「認知症の日」として、各地でいろいろなイベントが開催されたり、新聞でも認知症の特集記事が目立った。報道によると2025年の認知症の推定人数は700万人になり、65歳以上の高齢者の約5人に1人は認知症になるそうだ。

そもそも、現時点で3人に1人が65歳以上の高齢者だというのだから、日本の高齢社会は嘆かわしい状況だ。ちなみに、かくいう私も来年にはその仲間入りをする。

私たち夫婦はすでに、4人の両親を見送ったのだが、そのうちの2人は晩年に認知症を患った。私の実母と義父だ。

今から約15年ほど前の日曜日、昼間からビールを飲んで、妻とテレビを見ていると固定電話が鳴った。当時は今のように悪質な勧誘電話はほとんどなかった時代で、私はなんの躊躇もなく電話に出た。

私「もしもし。」
電「もしもし。こちらは駅前交番ですが、〇〇さんのご自宅でしょうか。」
私「そうですが。」
電「実は△△さんという方が、こちらにおられて、お宅の義父だとおっしゃって
  いるのですが、間違いありませんでしょうか。」
私「えっ!!、義父は愛知県に住んでいるのですが。(ここは兵庫県)」
電「でも、その愛知県から兵庫県まで来られたとのことです。」

義父が訪ねてくるなんてことは何も聞いていない。状況はよくわからないが、とにかく駅前交番まで行くことにする。私はビールを飲んでいるので、すぐにタクシーを呼んだ。

途中で妻が義父が同居していた義姉に電話をすると、向こうでも突然いなくなったので探していたところだそう。妻からの電話で安心したとのことだった。

駅前交番に到着すると、間違いなくそこには義父が椅子に座っていた。

事情を聞くと、よくわからないのだがとにかく何かの不満があり、義姉の家を飛び出して、妹、つまり妻の家まできたとのこと。ここまでどうやってきたのかと聞くと、親切な方々が次々と道順を教えてくれたたそうだ。

交番で話をしていても埒があかないので、とにかく乗ってきたタクシーで自宅まで帰ることにした。

義父の認知症のはじまりだった。80歳だった。

そして、翌日には義母が飛んできた。

我が家にはそれまでも何度も来ていたので、最初は以前と変わらず穏やかな時間を過ごしていた。しかしすぐに、何かでタガが外れると怒り出す。そして、自分の娘(私の妻)もわからなくなり、「へんなおばさんがいる」と言うようになった。

ちなみに私はなぜか「社長」だった。理由はわからないが、義父が働いている会社の社長だと思っていた。もちろん当時、すでに義父は働いてはいない。

しかし、正常になる時もあり、そんな時には、

「一体俺の頭はどうなっちまったんだ!」

と、苦しそうな表情を見せていた。認知症の初期段階で、本人にとって最も苦しい時期だった。周りで見ている我々もとても辛かった。

数日後に妻から会社に電話があった。

止めるのを振り切って、義父が家を飛び出したそうだ。そして、妻が後をつけているので、なんとかしてほしいと言うのだ。「わかった!」と電話を切ると、周りの同僚に、

「義父が認知症で徘徊しているので、迎えに行ってくる」

と告げて、会社の制服のままで駐車場まで走って行った。周りはぽか〜んとした顔で走り去る私を見送っていた。

義父は家の近くのバス停のベンチに座っていた。妻はバス停の近くの電柱の陰で義父の様子を見ていた。妻に車でドライブしてくることを告げて、バス停の前で車を停めた。

義父「あっ、社長どうしたん?」
私 「ちょっと用事があって通りかかったんや。一緒にちょっとドライブしよう
   か。」

まずは1kmほど離れたところにある喫茶店で水出しコーヒーを飲んだ。初めて入った店だったが、それなりに美味しかったのを覚えている。しかし、義父と話した内容は全く覚えていない。おそらくは架空の会社の話でもしたのだろう。

コーヒーを飲み終えると、新島(にいじま)と呼ばれる埋め立て地に行くことにした。新島には釣り場があり、平日でも何人かは釣りをしている。義父は釣りが大好きなのだ。

岸壁に車を停めて、何人かの釣り人の様子を一緒に見た。義父は何が釣れるのだろうと興味深く釣果をのぞいていた。

ドライブを終えて自宅に帰り義父をおろした後に、私はそのまま会社に戻った。

しかし、義父の問題行動はその後も毎日繰り返され、その度に妻と義母は対応に追われ大騒ぎだった。そして、とてもこのまま義父の面倒を見ることはできないという状況となった。

そこで、義兄、義姉とも相談した上で、急遽、義姉の家の近くの施設を探すことにする。ちょうど、いくつかの施設が開設したばかりの時期で、意外にすんなりと入居できる施設が見つかった。

最初の施設は待遇が悪く、その後2,3の施設を変わったのちに最終的には親切で居心地の良い施設に移る。義父はそこで1年ほど過ごしたのちに、83歳でこの世を去った。

長い期間だったように思うが、結局認知症だったのは3年間だった。

今でも、「社長!!」とニコニコしながら私を見る義父の顔を思い出すと、なんとなく微笑んでしまう。散々苦労をした「へんなおばさん」には申し訳ないのだが。(笑)


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