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「Ageism」という言葉を初めて知った日曜日の朝

週末の食事はコンビニでパンを買ってきて食べるというのが、我が家のルールである。日々、朝から栄養のことを考えておいしい朝食を作ってくれるモーニャン(妻)に少しでも楽をしてもらいたいという思いからである。

そして、本日も近くのファミリーマートにサンドウィッチを買いに出かけた。店に入るといつになく多くのお客さんがレジの周りに群がっている。

それも年配の方ばかりである。近くの公園でグランドゴルフをするので、その前にコーヒーでも買いに来てのかもしれない。

私もサンドウィッチを手に、列に並ぼうと思ったのだが、群がっているだけで列がない。どこに並んでいいのかわからない。

レジは二つあるのだが、この店はレジ前に並ぶのは一列で、レジの手間で空いたレジに分かれるように足元に矢印が書かれている。彼らはこれを無視して、ただ群がっているのだ。

しばらくして、レジの店員さんが痺れを切らして、「ちゃんと並んでください!順番を守ってくださいね!」と大声で注意をした。いつもは大きな声を出さない人なので、よほど腹に据えかねたのだろう。

年配のお客さんたちはあわてて周りを見渡して床の矢印に気づき、それに従って並び始めた。しかし、中にはまだルールが理解できずにウロウロしているお客さんがいる。

私が手招きをして「この列に並んでください。そして、空いたレジに行くんですよ」と伝えると、「そうかそういうことだったのか」と納得した様子だった。

「こんなこともわからなくなるのか、高齢者になると・・・」と感じた直後に、ふと先日の病院での出来事を思い出した。私も同じことをしていたのである。

それはある事情でかかりつけの病院の紹介で別の病院を受診した時の話である。診察の前の採血があるというので、採血室に向かうとそこには数人が受付に並んでいた。

彼らの後ろに並んだのだが、どうも私が通路の通行を妨げているのに気づいて、下を見てみるとそこには並ぶ方向が矢印で書かれていたのだった。通路で邪魔そうに私を見ている患者さんに頭を下げて矢印の通りに並び直したのだった。

レジや受付に並ぶルールを見落とすのは、別に年齢の問題ではない。しかし、周りを見ても自分のことを考えてみても、どこか年齢とともにこの手のルールに疎くなっていると感じるのは確かである。

複雑な気持ちのまま無事にサンドウィッチを購入して帰宅した。朝食を食べた後にモーニャン(妻)にこの話をしながら、新聞の朝刊を開くとそこにあったのが「Ageism」という言葉だった。

Ageismとは、「人種差別」、「性差別」に続く第3の差別と言われているらしい。

初めてこの言葉を使ったのは、米国の医師で老年医学者ロバート・バトラーで、1969年に彼はAgeismを「高齢であるという理由で高齢者をステレオタイプ化し、差別するプロセス」と定義した。

要するに「年齢差別」だ。バトラーは「高齢者」に言及しているが、対象は高齢者に限らず、若者も対象になるそうだ。いわゆる「青二才のくせに」とか、「最近の若い連中は」などがこれに相当する。

前者の高齢者差別は、これからの年齢構成が高齢化し、若者が高齢者を支えるための負担が増えれば増えるほど、彼らの高齢者に対する反感、差別意識は大きくなるだろう。

しかし、ここであきらめてはいけない。我々高齢者が差別されないためにできることはなんだろう。

年齢構成による若者への負担を減らすためには、可能な限り働いて厚生年金を納めて、少しでも自分たちの生活を自分たちで支えることなのだろうか。

若者たちに疎ましがられないように日々変化していく社会のルールに敏感になり、それらを確実に守るようにしないといけないのだろうか。

あるいは、高齢者と言われないように若々しくあるために外見にも気を使い、健康に留意して日々を送るのだろうか。

いずれも間違ってはいないが、本来の姿とは違う気がする。

誰もが歳をとるし、歳をとると体の自由はきかないし、肉体的にも精神的にも衰えるのは自然の摂理である。それを前提にした社会はできないのだろうか。

高齢者に優しい社会は若者にも優しい社会だ。高齢者を養う負担を高齢者に負わせて若者の負担感を減らしたり、社会に順応できないことを高齢者の責任にしてもいいのだろうか

他にやるべきことがあるのではないだろうか。また、そこに割く原資は他にあるのではないだろうか。

高齢者の勝手な言い分かもしれないが、厳しいご指摘をいただくことを覚悟の上で申し上げると、単純な理屈で高齢者や若者の負担を増やすのではなく、もっと根本的な社会的考え方や仕組みを変えることが必要なのではないだろうか、と感じた日曜日の朝だった。


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