小説 日輪 15
翌日の早朝、紗季から電話がかかってきた。頭痛に加えて今朝からは吐き気も続いていると言い、涙声で何度も謝っている。僕は朝一番に病院に電話をかけ、放射線治療室の看護師に紗季の症状を伝えた。すると、医師に相談してくれたようで、すぐに来てくださいと言われた。
仕事は有休をもらって、車で紗季の実家に向かった。紗季は義母に肩を抱かれ、真っ青な顔をして車に乗り込んできた。口元にハンカチを当てている。
「お願いしますね。紗季が私は付き添わなくていいって言うから」
義母は苦しそうな表情を浮かべながらも、口調はいつも通りさばさばしていた。
「また連絡します。昨日はありがとうございました」と僕は頭を下げた。
「大丈夫か」と助手席の紗季に声をかける。彼女は涙ぐみながら頷いて、顔を伏せたまま動かなくなった。
「迷惑かけてごめんなさい」と聞き取れないくらいの弱々しい声で言った。
本当にそうだ。皆に心配をかけて、迷惑をかけて、もういい加減にしてくれ。そう言おうと思ったが、どうしても言葉が出てこなかった。
左手を伸ばして紗季の頭をそっとなでる。もう泣くのを見るのはたくさんだと思う。ウイッグのかたい髪に触れて、高校生の頃の姿を思い出した。あの時紗季はあんなに楽しそうに僕に色々な事を話してくれたのに、どうしてこんなことになってしまったのだろう。
「自分を大切にして欲しい」
それは自分の心の底からの思いだった。目を挙げると、助手席側の窓から義母が心配そうに覗いていたので、頭を下げて車をゆっくりと発進させた。
「行こう」
急ブレーキを踏んだりしないよう慎重に運転し、やっと病院へ辿り着いた。
放射線治療科で受付すると、それほど待たずに診察に呼ばれた。田中医師はひととおりの症状を確認したあと、「まず心配はいらないとは思うのですが、乳腺外科の鈴木先生と相談したので、念の為頭部のMRIをとってみましょう」と言った。初診の時と同じ穏やかな口調だった。
「ありがとうございます」と僕は言った。紗季はハンカチで口元を押さえながら頷いた。正直なところ、精神的なものとして片付けられてしまう可能性を危惧していたので、医師の柔軟な対応には心底ほっとした。
「今確認しましたら、今日は救急の患者さんが沢山いて、すぐにMRIは取れないので、明日の9時に予約を入れました。MRIの撮影が終わったら、乳癌外科外来で鈴木先生がその結果をご説明します。今日は吐き気止めの点滴をしましょう。内服薬もお出しします」
診察室を出て、僕達は処置室という点滴をする部屋に向かった。そこで紗季が点滴を受けているあいだ、僕は再び放射線科へ行き、受付のスタッフに声をかけた。すると、初診の時に説明をしてくれた看護師が診察室から出て来て、僕を招き入れた。
田中医師は僕が何を言いたいのかわかっているようだった。
「あの、頭に転移している可能性もあるんでしょうか。紗季が心配しているようなので……」
田中医師は椅子を回して僕に体を向けた。そしてまっすぐ僕の目を見た。
「可能性はかなり低いですが、ゼロではないです。また明日鈴木医師からご説明しますね」
僕は口を開いて何かを言おうとした。でも何を言えばいいのかわからなくなり、言葉を探しながら医師の顔を見つめ続けた。医師も感情を覆い隠すような目をしてじっと僕の様子を眺めていた。
「脳転移だったとしても、外科手術や放射線治療という治療法があります。でも、心配なさらなくても大丈夫だと思いますよ」
田中医師は終始穏やかな口調だった。心を抑制した声のなかに温かい感情が籠もっているのがはっきりと伝わる。その声音がいつまでも耳に残る。
「ありがとうございました」
僕はよろよろと椅子から立ち上がり診察室を出た。
処置室に戻ろうとすると、後ろから「望月さん」と声を掛けられる。振り向くと看護師が走り寄ってきて、「明日のMRIの説明をさせてください」と言った。
説明室でテーブルをはさみ看護師と向かい合う。説明が終わったところで「昨日電話をくれた看護師さんですか?」と尋ねてみた。
「そうですよ。ご本人が無事に見つかって良かったですね!」
そう言って看護師は笑った。
「ご迷惑をおかけして本当に申し訳なかったです。ありがとうございました。治療室のスタッフの皆さんにも申し訳なかったと伝えてください」
僕は深く頭を下げた。そのままテーブルに突っ伏してしまいそうだった。
「そんな、大丈夫ですよ。気になさらないでくださいね」
先ほどの医師との会話を聞いていたはずなのに、何事もなかったかのような明るい声だ。僕は顔を挙げて看護師をじっと見つめた。看護師も僕の目を見た。自分は今一体どんな顔をしているのだろう。
看護師はテーブルに視線を落とし、瞬きもせず一点を見つめて何かを考えていた。その目は漆黒だった。十秒ほど沈黙が流れる。
「望月さん、抱えきれないと感じたら吐き出してくださいね。男性はどうしても一人で抱え込みがちですが、たとえ解決には至らなくても、話すだけでも気持ちが楽になると私は思いますから。そのほうがご本人のためになる場合もあります。専門の相談員もいますし、いつでもお声がけくださいね」
看護師は目を伏せたまま言った。言葉が胸の隙間を通り抜けていくのを感じ、心に穴があくとはこういう事をいうのだろうかとぼんやり思った。
「ありがとうございます。僕は大丈夫です。辛いのは本人ですから」
とっさに出てきた台詞を口のなかで強く噛みしめる。
看護師は僕がそう答えるのがわかっていたように、どことなく悲しげな目をして「お大事になさってくださいね」と言った。
点滴が終わり、紗季の症状は落ち着いたので、今日はこのまま帰宅することになった。
紗季と一緒に病院を出た。車に乗り込む時、西には血の色に染まった夕陽がビルに半円を沈めていた。一面茜色の空に太陽の赤さが際立って、世界の終焉を見ているような気がした。本当に世界は今日終わってしまうのかもしれない。この虚しい空の色合いを僕は生涯忘れないだろう。
家に着くと、紗季はくずれおちるようにリビングの床に座り込んだ。魂が抜け落ちて、なんとか人間の形をとどめているだけの人形のようだった。僕は紗季の隣にごろりと寝転がり、ぼんやりと天井を眺める。家の中は肌寒かった。いつの間にか夏が過ぎ去り、秋が訪れたのだ。自分はこの夏何をしていたのだろうか。もう昨日のことも思い出せなかった。
壁掛け時計の秒針の音に混じって、冷蔵庫のコンプレッサーの音が響く。以前より音が大きくなっているから、そろそろ寿命なのかもしれない。紗季が癌になってから、自分は冷蔵庫ばかり開けていた。買い物だけすればいいと思っている。そんなことを言われるのも無理はない。
「もし転移してたらさ、俺は仕事を辞めて、毎日家事をやって、お前と一緒にこうやってゴロゴロするよ。俺も一緒に行くから。俺はお前がいなければ何もない」
紗季は何を言っているのかわからないというような、空虚な目をしていた。その目の色は次第に濃くなり、光を含んで、ついに涙が流れた。その姿が僕の網膜に鮮やかに刻まれる。
「俺は、もしお前に会わなければ毎日つまらなくて、生きる意味もわからないまま惰性で過ごしていたと思うんだ。俺はお前が必要なんだ。だからここにいて欲しい。どこにも行かないでくれ」
今の自分の言葉に嘘偽りはないと感じながらも、不思議なことに悲しくもなければ苦しくもなかった。僕も紗季と同じように魂が抜け落ちてしまったのだろう。
紗季は涙を流して頷き「ありがとう」と言った。ほとんど声になっていなかった。
二人で床に寝転がり、ごろごろと右に移動したり左に移動したりしながら、部屋が真っ暗になってもずっと手を繋いでいた。
暗い部屋の片隅に自分のドッペルゲンガーが見えた。かつてなく近い距離まで迫ってきて親近感すら覚える。紗季の代わりに僕を連れて行ってくれ。そう思い静かに目を閉じる。陽が没しても、明日が訪れたらまた太陽は昇り、世界に明暗を与える。その自然の営みは果てることなくこの世の終焉まで続くのだ。
次回、最終話です!ここまで読んで下さった皆さま、本当にありがとうございます!
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