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【短編小説】キュート

 小学校の頃の話だ。

  ナイター練習が終わりかけるころ、決まって父はやってきた。

 とっくに私の腕は重く、ヘルメットの下でまとめた髪が蒸れる。父の姿がフェンスの向こうに見えた気がして、背筋が伸びる。あんまり伸ばしては、フォームが崩れる。次で、打ってやろう。汗が額を伝う。ピッチャーの手を離れた球がゆっくりこっちに向かってくる。その軌跡が、暗いグラウンドを照らす光の中にぼやけて見えた。

 小学校も高学年に上がると、火曜日の夜にナイター練習が入るようになっていた。近くの中学校のグラウンドを借りるのだ。夜の闇に焚かれた照明は眩しい。砂の校庭がだだっ広く見える。キャップをかぶったコーチや監督の顔に薄暗い影がかかっている。普段、昼間に行われる週末の練習にはない、独特の緊張がする。周りの家は全部眠っていて、まるでここだけが時間から取り残されているかのようだった。
 ナイターは、好きだった。土日の練習はいつも決まりきった、ノックとか、そういうことばっかだから面白くない。試合をするのが嬉しい。投げて、打って、走って。それ以上に楽しい練習なんてない。
 
 それに、この夜の感じがわたしはたまらなく好きだった。
 
 それは例えば夕方に早めの夕食を食べるさみしさ、洗濯したばかりのユニフォームが心地よいこと、普段いかない中学校のグラウンドがとても立派に見えること。
 そして、なによりも練習おわりに父と二人で帰ること。それがすごくわくわくしたのだ。

 練習が終わるころ、父は学校の外から静かにこっちを見ていた。他のお母さんたちはベンチの辺りでわいわいしている。子供たちと同じか、それ以上に楽しそうだ。そして、休憩の時にはここぞとばかりに塩分補給のラムネとか冷たいお茶とかそういうのをくれたりする。たまに、練習が終わって帰るとき、「頑張ってね」とわざわざ小さいお菓子を渡してくれることもあって、わたしはなるべく明るい声で「はい」と答えることにしている。気づかぬうちに父も私のそばにいて、「ありがとうございます」と言葉を添えていた。誰かのお母さんは(多分栗林君だと思う)大げさにいえいえと笑った。

 妙な優しさの正体を知ったのは私がもっと大人になってからのことだった。

 普段クラスでちょっかいをかけてくる渡辺君もお母さんの前では神妙にしている。「じゃあな」。そういったきり、そっぽを向いた。男の子たちはまだ帰る様子はない。お母さんたちが会話を続けているからだ。校門のところでたむろしている。外なのにユニフォームを脱ぎだして、ふざけている。コーチもコーチで、話したりないみたいだ。
 わたしは、渡辺君にじゃあねといいながら、先を歩くお父さんを追いかける。お父さんは母親たちの会話に混ざらない。
 まだ、練習後の気が抜けてふざけているところに混ざっていたいような気がするけど、帰る。母親たちと子供とコーチの笑いはすぐに後ろの闇に消えた。
 学校から少し離れたとこに停めてある父の車に乗り込むと、夜が一層暗くなったな気がした。街灯がぽつりぽつりと灯っている。カーテン越しに動く人影が見えることもある。カーラジオから知らない大人の声がする。
 
 こうして二人で帰るとき、決まってコンビニに寄るのだった。コンビニは照明の煌々と灯るグラウンドと同じように、時間を間違えたみたいな、明るいたたずまいだ。
 父はお酒とチャーシューを買って、わたしはいつも、四つ入りのミニシナモンロールと、エナジードリンクを買った。エナジードリンクは、我が家では希少だった。母によって禁じられていたのだ。が、父はお構いなしで、買ってくれた。といっても、最初の何口かでもう飲めない。炭酸と過剰な甘さと、よくわからない風味に飽き飽きしてしまうから。それでも毎度コンビニで買ってしまうのは、やはり変な物質が入ってるからなのかもしれない。
 お父さんは残りを飲み干して、不味いねえと真面目な顔で言った。
 そして、ビールを開けて、チャーシューをつまみにしながら、テレビをつける。夜のスポーツ番組にチャンネルを合わせる。見るのは野球じゃなくて、サッカーだった。絶対にサッカーだった。わたしもリビングのテーブルにいて、シナモンロールを食べている。それなのにお父さんは私のことなど忘れてしまったかのようにサッカーを見て、ちょっとひとりごとを言って、お酒を飲んで、たまに携帯をいじった。それがとても親らしくなくて、わたしは安心した。
 ふと、気づいたように顔を上げる。うっすらとひげが青白い光に照らされている。風呂入って寝な。そういわれるまでわたしはぐずぐずとシナモンロールを咀嚼し、余った二つを明日の朝食べるために輪ゴムで止めて、テーブルに置いておく。
 その時初めて、自分がとても疲れていることに気づき、溶けそうになりながらお湯につかり、吹き飛ばされそうになりながら髪を乾かして、泥のように眠った。
 泥のような眠りの中見る夢では、わたしたちは得体の知れないものの群れに襲われていて、わたしはバットを振り回してそいつらを倒している。ボールを打つのとは違う鈍い感覚が気持ち悪い。お母さんは弟の手を引いていて、わたしはたまにボールを投げる。剛速球でやつらを吹き飛ばす。でもやっぱり奴らはたくさんいるから、ふたりを守りながら倒すのは難しくって、母と背中合わせになりながら夢中でバットをふる。額の汗が目に染みる。母が怒ったように足を振り上げ、次の瞬間あきらめたのか、わたしたち二人を抱き寄せる。まだだよ、お母さん。わたしはまだ動けるもの。
 でも正直、腕が重い。
 と、そこへ父が、真っ赤なフィアットを猛スピードで走らせてきて、やつらを蹴散らす。すかさず私たちも飛び乗る。普段は物静かな父が豪快なハンドルさばきで、アクセル全開で、止まらない。助手席のわたしも、攻撃しやすいように窓を破り、バットを振り回す。
 いつの間にか辺りは明るい。やつらの姿もない。やったな。そうお父さんが言う。寝ちゃってるわ、と後ろの母が弟の肩を抱きながらいう。ダッシュボードを開けると、おおきなシナモンロールが出てきて、端からはがしていくと、ずうっと長く続いていていつまでも甘い。玲央の分も残しといてやってね、そう父がいった。

「どこ行くの?」
父はドアに手をかけていた。
「どこって、そんなの決まってるだろ」
「まって、行かないでよ」
「大丈夫だよ。ひとりでも立派にやってるじゃない」
「でもだめだよ。いかないでよ」わたしは涙声になっている。
「でも、いかないでって言ったって、」母が後ろから口をはさんだ。

「もう、朝よ」

 “奴ら”なんていなかったし、昨日残していたシナモンロールは玲央が勝手に食べちゃってた。うちの車はフィアットじゃない。「ユニフォームは洗濯機に入れないでって言ってるでしょ」お母さんが小言をいう。
「うーん」
 びっちりスーツを着こなした父が脇を抜けていった。すっかりサラリーマンだ。これ以上ないくらいのサラリーマンだ。薄くて何が入ってるのか分かんないバッグも持っている。
「いってくるよ」
「行ってらっしゃい。ほらあんたたちも急ぎなさい」
「わかってるよ」
 玲央が口答えする。わたしは玲央と同じことを言いたくないので何も言わない。ドアの向こうに見えなくなる父の姿がなんだか嘘っぽくてどこからが夢だったのか一瞬分からない。  
 だけど台所のシンクの縁には、ビールとエナドリの缶が逆さになって日の光を浴びていた。

〈終わり〉
 


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