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京町家との格闘をお話ししてみなさんと一緒に考えます

その12町家を作り守ってきた職人の技-2・左官

各職のはじめに
 以下の各職の話は冒頭の「○○について」を除き各職方が話したことに補足してまとめたものです。末尾の「伝えたいこと」は次代の職人に向けた言葉ですが、皆さまにも受け止めていただきたい内容です。

左官について
 私が仕事を始めた1970年代の初めに野丁場(ビル現場)では左官は嫌われていました。〝時間がかかるし現場を汚す〟といわれ、近代化の遅れた業種とみられ蔑みを込めて「湿式」と呼ばれていました。そして現場ではいかに左官の仕事を現場から追い出そうかと考えていました。フラットルーフの防水下地の均しモルタルを省くためにコンクリート直押えに替える―左官でなく土間屋と呼ばれ、沖縄の人が多かった(米軍滑走路)―、外壁のモルタル下地を止めて吹付タイルの厚吹きに替える(ボンタイル)、壁、柱型、梁型などのペンキ塗り下地のモルタルを、今でいうプラスターボードのGL構法(団子張り)に替える、などです。町場の新築でも70年代半ばには、左官が自嘲気味に〝1軒の住宅での仕事は浄化槽の周りの土間抑えだけや〟といっていました、それも下水の普及でなくなりました。そんな状況のなか左官屋も手をこまねいたわけでなく、モルタルや鏝を使うからとコンクリートブロック積み、タイル張り、吹付タイルへと職場を広げました。しかしそれぞれ専門業者が生まれ、そこからも撤退を余儀なくされ、残るは文化財やごく少ない数寄屋普請などに追い詰められていきました。
左官に変わる工法はより優れていたのでしょうか、そうではありません。プラスターボードペンキ塗りはボードのジョイントが割れてきます―寒冷紗張りでも防ぎきれない―。吹付タイルは10数年ごとにトップコートを塗り替えないと基材まで傷みます。樹脂プラスター吹付けも寿命は10数年です(外部)。左官の代替工法が選択された理由はコスト、工期、熟練の技を必要としないなどです―確かに上裏(あげうら・階段裏、梁下、スラブ下など)のモルタル塗りは剥離して落下する恐れがあるものの―。水ごね(糊を使わない)の聚楽壁は優に100年はもちますし、傷んでも土が乾いているだけなのでリユースもできます。そして何より風合いは他の材料には代えがたいです。またさまざまな空間に求められる表現も多彩です。自然素材であることや吸湿性などで注目はされていますが、それだけでなく風土の中で生まれ、風土に育まれて風土になった左官の技と職人は絶えさせてはいけないのです。

仕上りと特徴
仕上り(完成品)
・土壁、砂壁、土蔵~砂壁は糊ごねになりお茶、旅館など頻繁に塗り替える 
 建物に使うことが多い、また漆喰は布海苔を入れるが100年はもつ
・漆喰、鏝絵、彫塑、刳り形(洋館)、人研ぎ(明治以降)、豆砂利洗出し(同左)
・炉壇、竃
・三和土~かつては手傳の仕事
・版築(寺の基壇、築地塀など)
特 徴
 土はどこでも取れ、水で柔らかくなり、乾けば硬くなり、何百年でも持
ち、固まっていても水につければ元に戻ります。聚楽、色土や砂壁で多彩な味わいを出せます。
 漆喰の原料の石灰岩は日本ではどこでも手に入ります。漆喰は消石灰(生石灰は扱いにくい・ドロマイドプラスター)に布海苔を混ぜて苆を入れて水で練ります。西洋のように砂を入れないので水に強いです。土佐漆喰は糊を入れずに苆を入れ、糊の代わりになるように半年ほどねかせてから塗るのでさらに水に強く、塩分を含んだ海風にも耐えますが、仕上り時に黄色っぽくなるので―時がたつと白くなる-、京都では好まれません。なお土佐漆喰は施工難度も高い漆喰です。

左官職(かべぬり)のあゆみ

土壁の誕生 土を塗るあるいは積むということは縄文時代からあったとされますが、左官という職種が現れるのは平安時代中頃の律令下の奈良時代(属(さかん)・左官)で、元首鏝もそのころにできたと思われます。部位として壁がある建物で、木や葦などで木舞下地を組んで土を塗るということは、土の持つ気密性、断熱性、防火性などの特性から、普通に行われていたと思われますが、本格的に壁に使われるようになったのは仏教建築導入以降です。なお石灰も上古から使われていましたが、高松塚の石灰は絵画の下地として塗られたもので左官仕事ではありません。また、法隆寺の白壁は漆喰ではなく白土です。
左官の濫觴期と発展 鎌倉時代に細い柱(前時代に比べて)に貫を入れた禅宗様が導入され、広範に壁に土が塗られるようになったとされ、室町から安土桃山時代に城郭や土蔵に土壁が普及します。それまでの高価な米糊に代わって安価な布海苔が普及することで、特性が向上しかつ材料価格が下がることによって漆喰が普及しました。この頃に今の左官の仕事が確立されました。また、茶の湯が盛んになり数寄屋建築に土の風合いを生かした土壁が好まれるようになりました。江戸時代はこの時代を引き継ぎ目立った変化はありません。
左官の全盛期 近世以降鏝絵が盛んになり、京都では明治以降大阪土や錆土が好まれ普及しました。また西洋建築の導入によって仕事の範囲が広がり、擬洋風の人造石洗出し、人研ぎ(花崗岩や大理石の砂利を入れたモルタルを研いで石に似せる)など、左官の仕事が一気に広がりました。またその材料であるセメントは幕末から輸入されていたものの高価であり、明治初年には官営工場で、明治10年代には民間でも生産が開始され価格が下がることで、急速にセメントが普及し、モルタル工法も普及していきました。それに伴って押さえ性能の良い(力が伝わりやすい)中首鏝が導入され、従来の地金に加え焼き入れ鏝、油焼き(半焼き入れ)鏝が登場し、また面引き (角の面取り)や切り付け(入隅の面鏝)などの用途に応じた鏝も開発され、一気に鏝の種類が増えました。そしてその施工性と仕上がりの良さから従来の土壁の鏝にまで広がることで、土壁の仕上りの平滑度が向上しました。
左官の衰退と再評価 その後、左官は昭和50年代までは大いに利用されたものの、建設工事の近代化の中で、工期短縮、湿式から乾式への転換、熟練に頼らない工法の選択などにより、左官仕事はその範囲と仕事量が抑えられ、タイル貼りやブロック積み、吹付タイルなどを手掛けることに活路を模索しましたが、凋落の歯止めにはなりませんでした。 近年、自然素材の再評価、土壁の調質機能、壁面造形美術の方面で、そして町家や民家の再生などにより左官が見直されつつあります。

基本的な鏝

道具と材料
1. 鏝
 土や漆喰などの柔らかい者にはしなやかな地金を使い、モルタル、プラスターなどの硬いものは焼き入れや半焼(油焼き)を使います。焼き入れの鏝は表面を滑って塗りづらいです。薄くしなやかさのあるステンレス鏝も土壁に使え、ムラを残さず押えられます。押え鏝(なで鏝)は水土溜めの抑え面がわずかに凹面にしてあります。中首は力が入りやすいため、より平滑に押さえられます。室内が暗く、夜も行燈の時代は多少の鏝ムラは気にならなかったのですが、電気照明になり明るくなったために、より平滑に仕上げることが求められるようになり、それが左官が苦労する原因のひとつです。昔は鏝は自分の好みに合わせて鍛冶屋さんに作ってもらいました。また特殊な部位の仕上にはそのつど鏝を作りました。

・元首(柳葉鏝、鶴首鏝)、中首、つまみ
・柳葉、笹葉、剣先、ペンギン、角
鏝の種類
・中塗鏝―地金、半焼
・仕上鏝―焼入、半焼、他―押え鏝(なで鏝)、磨き鏝、なで鏝、糊土(のり 
 つ)鏝、角鏝、柳葉鏝、引き鏝、笹葉鏝、目地鏝、繰り鏝、面引き鏝、煉瓦
 鏝、面戸鏝、チリ鏝、四半(しび)鏝、波消し鏝、木鏝、き摺り鏝
・特殊鏝
材 質
・地金鏝
・焼入れ鏝―堅打、甘打、半焼(油焼)
・ステンレス
・プラスチック、スチロール、他
・木鏝
 
2. 補助具
・鏝板、才取り棒~才取り棒は才取り(手傳)が土をすくって左官に投げ、左官は鏝
 板でそれを受ける
・練り舟、練り桶、練り鍬、ミキサー
・篩
・コソゲ~改修の時に既存の壁を剥す道具
・定規、目地棒、チリ箒
 
3. 材 料
 塗壁材としては荒壁土、中塗土、色土、色砂、石灰などがあり、補助材料としては苆、糊、顔料、布連(のれん・チリ別れ止)、ひげこ(チリトンボ・同左)、麻布(寒冷紗・下地の補強)、和紙(同左)などがあります。
 昔は荒壁土は運搬の便宜上現場付近で調達しました。それがそこの気候にも合います。粘土分と少しの砂が入っていれば大体使えます。それに藁苆を入れれば暴れは止められます。粘土分が多い時は砂を足します。日本中の壁土を分析すしたら、取れる土はさまざまでも、同じ配合であったという報告もあります。聚楽土は有名で聚楽第にちなむ命名ですが、京都のどこであっても深く掘れば手に入る地場産の土です。一般的に関西は良質の壁土が取れますが、関東はローム層に覆われているため良い土が手に入りにくいです。荒壁土の代名詞となった荒木田土はそこにあった土ではなく、花崗岩が風化して山から流れ出して堆積した荒川の荒木田原が発祥です。ちなみに大相撲の土俵は東京では荒木田土、大坂では羽曳野の土です。
 土は現代では山から掘り出していて、京都は大亀谷が多く、山の地層がいろんな土の層になっていて、上の方は砂が多く中塗土、やや砂が少ない層は聚楽土、さらに砂が少なく粘土分が多いと九条土、白っぽい粘土は白土として使います。色土は岡山や助松でとれ、大坂錆土は道具屋筋で取れます。
 そのほか水硬性の石膏プラスターやセメントは木造に使うのは硬すぎて、クラックが入りやすいので避けたほうが良いです(水硬性は吸水性が高いので外部には使わない方が良い)が、乾きが早いため石膏プラスターを中塗に使う場合は砂を多くして弱く(貧調合)します。また三和土の代わりに豆砂利洗出しをする場合には、ソイルセメントに土を入れて弱くするか、セメント量を減らしモルタル(貧調合)にして、さらに誘発目地を入れるとかの対策をする必要があります。
 つなぎとして入れる苆は藁、麻苧、和紙です。藁苆はバクテリアで発酵させて施工性を高め、割れを防ぐ糊の役割をさせるために入れます。藁苆は茶室などでは壁などの表面に見せて意匠上の風合いを出すために入れたりもします。藁苆は工程ごとに長さを変えて手仕上げになるほど細かくします。中苆は1寸(約30㎜)程度、ひだしと呼ばれるものは3分(約9㎜)程度、ミジンは5㎜ほどになります。
 弁柄などの顔料は色土では出せない鮮やかな色を出すときに使います。寒冷紗は貫伏せ(トオリニワ側の貫の部分の補強で盛上る)などの補強に使い、布連やヒゲコは茶室や数寄屋の薄壁のチリ際の割れ防止に使いますが、町家で使うことはほとんどなくそれを入れなくてもちゃんと納めるのが上手とされますが、それは乾燥期間が充分取れた時代の話で、それでも中塗りで引渡して数年たってから仕上塗をするようなこともあったようです。チリの肌別れが出てからこういうものだと説明をすると、言い訳にしか聞こえませんので、あらかじめ了解を取っておく必要があります。


余話1―流行に飛びつくな
 一時脚光を浴びた珪藻土は植物性プランクトンの遺骸が海底に堆積して固形化したもので、身近なものでは七輪などの材料。壁に使うには常温では固化しないためそのままでは壁土としては使えず、固化のために繋ぎに合成樹脂を入れることになり、樹脂の寿命が壁の寿命になる。調質効果、抗菌作用、シックハウス原因物質の吸収等のメリットはあるがそれは漆喰も同様。土壁材料としてはそれほど優れた材料とは言えない。


技と技法
木舞下地 貫は地貫天井貫間を3等分して入れます(大工工事)。エツリ(間渡し竹)は約1.1尺(約33㎝)が掻きやすく、荒壁土の食いつきもよいです。エツリは側壁(かわかべ)はうちがタツ(縦)で外をヨコが基本で、荒壁はタツからつけるのが基本ですが、これは大阪などのエツリに丸竹を使う場合で、割竹の場合はヨコからでもつけられます。エツリは柱際に木舞が2本入るように入れます。そのエツリに木舞を藁縄で縫い付けます。木舞の材料は木、葦、竹などが使われますが、耐久性、強度は竹が優れます―外気にさらされると竹は10数年で朽ちますが、土の中では半永久的―。竹は京都では真竹や淡竹(はちく)の割竹を使います。木舞はカズラ石(基礎延石)や地覆(土台状の伏せ材)には当てずに1寸ほど浮かしておきます(エツリも同様)。これは土の重みで壁が撓むのを防ぐためです。土壁は架構を固める効果があり、実験結果では壁倍率(建基法が定める耐力壁の強さの指標)が2.0倍でた(建基法は0.5倍)という結果もありますが、あくまで帳壁(非耐力壁)です―架構の大きな変形時には効果があるものの―。木舞ピッチは隙間が1寸(約30㎜)角になるのがちょうど良く、細かすぎると表塗と裏返しの土が一体化しないため強度も耐久性も落ちます。立て起こし(側壁架構を組んでから起こす~隣家との空きがないので)の場合は柱を立ててから内側から木舞を掻くようにします。貫が内側に来る(トオリニワ側)場合は貫伏せをします。抜きには桧垣(網代のように斜めに傷をつける)を入れるか藁縄を巻いておきます。


余話2-木舞掻きの手間代
 かつては熟練の木舞掻(エツリ屋)は13坪(約43㎡)/1日ぐらい掻き、木舞竹1束が15坪分で1日掻いて少し残るのが一人前―本稿の中で10坪と書きましたが修正―。材工で2,000円/坪(6,600円/㎡)程度で、今では1㎡当たり1万円といわれることもある。工費の目安は荒壁で4,000円/㎡程度、その上に仕上げて6,500円/㎡程度で、エツリ竹+木舞竹+編賃で10,000円~9,500円/床坪程度。大きな建物ではほぼ床面積の倍の面積が壁面積になる。
※10年以上前のヒアリングで、現在はもっとかかり、漸増傾向にあります。


他の下地 薄い壁や荒壁をつけられないときは木摺を使い、硬い壁をつくるラスボードは避けます。木摺は漆喰を直接塗ります。中塗は砂漆喰を塗り上塗りは黄大津などで仕上げます。木摺は幅1寸(約30㎜)、厚さ2分5厘(約7.5㎜)、隙間は2分(約6㎜)程度とします。木摺の使用は明治以降ですが、木摺は木舞(古代の木使用の名称)から発展したという説もあります。
荒 壁 かつては荒壁土の練りと発酵、材料渡しは才取り(こね屋または手元(かけだし))が分担し、左官は壁塗りに専念しました。荒壁付けに最適な季節は春先で、梅雨までに裏返しをしました―晩秋から初冬に木を切り数か月乾燥させて建て方をするとその時期になった―。昔は夏に荒壁をつけると藁が腐るので冬につけろといいました。冬につけると凍ることがあるのですが、凍っても水で戻せば問題ありません。荒壁をつけたら裏をなでてある程度均しておき(外れ止めにもなる)、裏返しは良く乾かしてからとしますが、目安は2,3週間前後です。表裏を同時に塗ることを田楽といいますが、強度が落ちるので避けます。小壁では田楽をすることがあります。立て起こしでは裏返しができないですが、ケラバ下などの露出部は裏返しをするので延焼防止上は問題ありません。隣が立て替えて裏が露出するときは隣の協力を得て裏返しをします。荒壁の乾燥による割れは穴埋めをしておきます。
 古壁を使う場合は新しい土と半々ぐらいにします。古土は腰はないが粘りはあって、新土は腰があるので、両方を合せると収縮は少なくクラックが入りにくくなります。
中 塗 荒壁が充分乾いてから塗ります。平直し(ムラ直し・中塗の下地を均す)はチリ際からかかります。肌チリ別れ(柱などとの隙間)が懸念される場合は布連やヒゲコをつけます―町家ではあまりしない―。仕上げ代を見込んで(柱などのチリ)2回に分けて塗ります。かつては中塗りで1~2年寝かせて割れやチリ別れが止まってから仕上をしました。その場合は下地の吸い込みがきついので、布海苔を塗って水止めをしてから仕上げるようにします。
 中塗り切り返し(なで切り)は中塗りで仕上げる場合の工程ですが、中塗とはいえ土、砂、苆を細かくして塗りますので、その分塗り手間がかかり手間は仕上と変わりません。中塗は1回鏝でなでたらおしまいですが、切り返しは材料を精選してもう1回なで返します。人が触らないところでコストを省くためには中塗り止めとしたらよいでしょう。
仕上げ 材料は用途と機能的要求から様々です。ハシリやミセ、ダイドコ、階段等には傷がつきにくい漆喰、黄大津や浅葱などが使われます。外部は水に強い漆喰が良いのですが、京都では土蔵以外は白壁が好まれず、黄大津や浅葱が多いです。2階の壁が高い(大正以降)場合はかしき(腕木と桔木)で軒を大きく出しても腰が雨ざらしになりますので、漆喰に土を混ぜないで色粉で黄大津や浅葱に似せる色漆喰の方が良いです。雰囲気が求められる室は聚楽、九条土、大阪土、砂壁とさまざまな土を使います。
 仕上塗は傷みやすく汚れやすいため、かつては祝儀、不祝儀のたびに塗り替えたお宅もありました。町家はチリが6,7分(20㎜前後)はあるので塗り重ねることができ、4層、5層に重ね塗りをしているお宅もあります。チリがないときは中塗りまでコソゲて中塗から塗り直します。
 町家で使うことはまれですが、祇園一力に塗ってある赤い塀は土に弁柄を混ぜて塗ってあります。雨で弁柄が流れるので白土に弁柄を混ぜ1年は寝かすようにして仕上げます。手間が掛かりあまり見かけません。


余話3-聚楽は好まれなかった
 聚楽、新聚楽と土壁仕上の代名詞になった聚楽度だが、昔は数寄屋を除き京都ではくすんだ色合いが好まれなかった。聚楽土は京都では聚楽第廻りに限らず深く掘ればどこでも手に入る。水に強く火にも強いということからもっぱら土蔵や荒壁に使われた。聚楽度が珍重されるようになったのは近代以降の数寄屋風趣味の流行と京都ブランドです。


余話4-左官手間は大工手間より高い
 
昔の手間代を見ると大工より左官の手間の方が高い。これは夜なべで布海苔を焚いたり、苆を切ったりするからである―左官は汚れるか洗濯代が上乗せされるという話もある―。なお杣の木挽き(大鋸)は重労働で腹が減るので大工より飯分が多い。


伝えたいこと
▢ 左官は木を生かす仕事である。柱など軒を生かすにはチリ際がすっきり
  納まっていることが必要色合い控えめな聚楽は木を生かす壁といえる。
▢ 造作と違い塗壁は傷がつきやすい。それは左官が敬遠される理由の一つ 
  であるが、昔の人は傷つきやすい壁とていねいに付き合っていた。もの
  の性状に沿ったものとの付き合い方も大事である。
▢ 土壁は水ごねで仕上げれば100年でも持つ。数か月の時間を惜しんで使
  う数10年しかもたない樹脂壁とは違う。
▢ 何処にでもあるごくありふれた材料を、壁に求められる機能性を満たし
  保全性が高く、再利用を可能とし、美観を具えた精神的な高みにまで仕
  上げた先人の努力と精神を次代の職人に継いでほしい。
 
語り手 佐藤嘉一郎(左官)、萩野哲也(左官)、荒木正亘(大工)
 
〔参考文献〕
・『土壁・左官の仕事と技術』佐藤嘉一郎・佐藤ひろゆき著 学芸出版社
 2001
・『京の左官親方が語る楽しき土壁』佐藤嘉一郎、矢ケ崎善太郎(聞き手)共
 著 学芸出版社2012
・『ものと人間の文化史45・壁』山田幸一 発行所㈶法政大学出版局1990第
 2刷
・『物語ものの建築史日本壁のはなし』山田幸一 鹿島出版会1992第5刷
・『職人』武田米吉 中央公論社2003改定

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