見出し画像

自然資本経営のすすめ持続可能な社会と企業経営

⌛この記事は 14.6 分でお読みいただけます。
こんにちは、鎌田です。みなさんはお酒はお好きですか?

私は今から10年以上前はキリンビールでサラリーマンやってまして、富士御殿場蒸溜所でウイスキーづくりの傍ら、富士山の伏流水の環境保全活動にも取り組んでいました。

その時は、会社のCSR活動の一環で「はい、はい環境大事だね」って程度の、ここで話せるようなナレッジはほとんどありませんでした。

ところがその後、農業生産法人を経営していたこともあって会社が成長する過程で酒蔵の経営も託されるようになって当然、自社で酒米栽培するようになって、日本酒って水がめっちゃ大事! 水稲栽培にも水の影響めっちゃ大きいんや!って感じるようになって、色々と勉強するようになったんです。

そこで以前のセミナーではお米とか水についてお話させていただきました。これには他にもきっかけがあって、その農業生産法人が2年連続で水害による壊滅的な被災を経験したので、天候とか水の循環についてもさらに調べるようになったんですね。

おまけに原木椎茸事業では森の賦存量を利活用したり、狩猟期になれば山の中でハンターしているので、自然と環境というものについて頭というよりも身体で理解するようになったんです。

この環境問題と一口にいいますけど、こうした問題を語る上で自然科学というものが、よく持ち出されますよね。しかし、こうした問題というのはむしろ数千年にわたる歴史と文明の問題であるというのが今回のテーマとさせていただきたいと思います。

このテーマを話すうえで取り上げたいのが、この書籍です。京都大学大学院研究科の自然資本経営論の講座を元に論じる「自然資本経営のすすめ」でございます。

本書について語る前にひとつ問題提起をしておきたんです。

それは先ほどもチラッと触れさせていただきました「文明」の問題なんです。
なぜなら、21世紀の現代社会が直面している数々の矛盾と、不都合な真実といわれているその原因が、地球の自然資本を食いつぶして人類の生存基盤まで脅かし始めたことによる文明の問題だと考えるからなんです。

これは皆さんもご承知おきの近代科学技術文明によってもたらされました。経済学的には17世紀に西欧で始まったモダニティといわている文明からスタートしたわけです。モダニティって訳せば「今風の」って感じなんですけど言い得て妙ですよね。

この近代科学技術文明は、科学によって自然をコントロールすること、優れた技術によって物質的繁栄をもたらすこと、合理的な社会組織によって政府を有効に機能させることを約束しました。

でも、実際はどうでしょうか?その約束って守られてますかね?この分断の時代といわれている資本主義の限界が表すように一握りの人間が物質的繁栄を享受している一方で、資源枯渇と環境悪化、つまりは自然資本の減耗が、いま多くの人々を危機に陥らせていて、将来の世代にツケを払わせようとしているんです。

世界はいまやこの西欧発のモダニティ文明が目覚ましい進歩を遂げて世界中に波及したことによる、しっぺ返しを食らっている状態なんです。

では、私たちはどうすればよいのでしょうか? そこでまずは、この問題の背景にある西洋近代科学の系譜から改めて確認していきたいと思います。

地球上に生命が誕生したのが38億年前といわれています。最初の石器を使った人類は、直立原人といわれていて出現したのが100万年前とされています。

そして3万年前には現在と変わらない姿をした現生人類、つまりホモ・サピエンスが世界中に広がりました。この辺の話は皆さんもご存知でしょう。彼らは、1万年前まで狩猟採集を基本とした生活をしていました。

1万年前になって農耕が始まりましたけど、狩猟採集民は17世紀頃まで衛生的ではなくて、血生臭く、常に飢えているような生活をしていたと一般的に思われてきました。

しかし、近年では人類史の圧倒的な部分を占める狩猟採集経済がいかに見事に環境と調和したものであったかが明らかになってきました。

日本の縄文時代なんかはその典型ですよね。

本書の著者でもある環境考古学者、安田喜憲氏によると、

日本では、縄文時代以降1万年以上にわたって受け継がれていった永続性の高い森の文化があり、豊かな森を核とする、自然から人間循環系の地域システムが確立していた

ということでした。

そして、当時の生態系というのは今イメージできるような環境じゃなかったんですよ。

これは世界各地に現在も生き残っている狩猟採集民、ジャングルの部族のようなイメージですね。そうした人たちが生活している地域に比べてると、はるかに凌駕する生産力が備わっていたことが明らかになってきました。

したがって、十分な食糧を集めることなんか簡単にできましたし、飢えることなんてほとんどなく、ゆとりある生活をしていて、遊びや祭祀にあてる時間はふんだんにあったみたいなんですよ。

これもなんかわかる話ですよね。私は人生を50年送ってきたなかでテクノロジーはどんどん進化してきました。この進化ははじめは嬉しかったですね。トイレにウォシュレットは最高の発明と思っています。

でも、たとえばポケベルが出てきて面倒に思うことが増えてきて、携帯電話の普及に伴ってめっちゃ窮屈な感じがしませんか?そんで極めつけはスマホですよ。便利にはなったんでしょうけど、同時に忙しいばっかりになっていませんかね。

こうした事に合わせて社会はやれコンプラだの、いじめ問題であったり、うつ病などの現代病がでてきてヒステリーな社会になってこの先どうなってしまうんだろうと思いますね。

一方で、近年の考古学者の調査結果では、南西アフリカのブッシュマン「あ~あかんわ、この名称はコンプラ案件でした。コイサンマンっていうんでしたっけ?」ほんま窮屈極まりないですよね。とにかく彼らの生活がよく物語っているそうです。

狩猟採集民は、自分たちが暮らす生態系の天然資源に過度な負担をかけないように人口制限しようとまで、していたようなんです。

これは現代の倫理観と照らし合わせてみると賛否分かれるところではありますが、まさしく、自然資本経営をしていたんですね。私たちよりもよっぽど資本主義の本質を理解していますよね。

1万年前といえば、世界の人口はまだ約400万人といったところで、その後なだらかに増加して紀元前5000年頃に500万人になりました。これを境に自然生態系を大きく変えることになるわけです。

作物を栽培して家畜を放牧する農業の登場です。

パレスチナやメソポタミアの西アジアや東南アジアの大陸部沿岸、ほかにも中国の長江流域とか、メソアメリカ要はメキシコ周辺ですよね、そしてニジェール川の上流、西アフリカのあたりですね。

この五つの地域で、大量の食糧を供給することができるようになって大規模な定住社会ができたわけです。

これがかの有名な「農業革命」と呼ばれていわれているやつですね。ひとくちに農業革命っていっても世界同時に起こったわけじゃないんですよね。

この農業のおかげで、人口は急激に増加するようになって紀元前1000年には5000万人、紀元前500年には1億人、紀元200年には2億人に達しました。

農業革命以降約5000年の間に、平均すると1000年ごとに約2倍のペースの増加ですよね。そして、2020年の現在では78億3700万人です。ちなみに、日本では紀元前1000年頃で約10万人、紀元前200年には約80万人だったみたいですね。

この余剰を私たちは富みであると勘違いしているような気がしますね。

ここでちょっと資本主義について考えてみたいと思うのです。わたしが学生の頃に学んだのはノーベル賞も受賞したクズネッツの主張であった「世の中が成熟すれば資本主義は平等になる」といものでした。

しかし現実にはそうはなっていないですし、今の世の中を見てノーベルもびっくりしているでしょう。とにかくこうした定説はひっくり返ってしまったわけです。

本書で述べられている自然資本経営というのは、これまで世界や私たちを支配してきた、限りない便利さと欲望を追求する過剰な消費文明の価値観をパラダイムシフトさせて、自然本来の人間性を取り戻そうという趣旨となっているということなんです。

この地球で限られた自然資本を78億人の人々が分け合って持続可能な経済社会を作ろうという提案がなされており、現在の世界を支配している経済システムはもはや持続不可能であるという前提で話が進められていますが、私も農業生産法人のときから再生可能エネルギー事業に関わり、森における賦存量の調査などを進めるうちに、この持続可能な環境という問題に興味を持ち始めました。

本書でも、これまで不当な扱いを受けてきた自然資本を有限なものとして「自然資本経営」という考え方を日本から発信して、自然資本に関する世界の潮流に速やかに合流することを目的にしているそうです。

これは国土の66%を森林が占め、22,000もの水系からなる日本列島の豊かな里山、里海の自然資本と本来の人間性豊かな人的資源を有効に活用して、地域社会を活性化させようとする事が、「里山資本主義」と同じ趣旨で、これまでの資本主義の弊害に対する問題意識から私も含め多くの人に影響を与えた良書となっています。

自然資本経営というと、自然資本の経営ということですから、自然という資本を上手に活用して、ひいては利回りよく運用していくことと解釈できると思います。

SDGsが叫ばれている昨今ですが、企業が環境問題に取り組むにあたって経営という言葉には、本来的な意味を紐解けば、もっと根本的なところがあると思うんです。

「広辞苑」によれば、経営という言葉には 「詩経」に語源があって、

縄張をして基礎を定めて、建物などを造ること(引用)

から発しており、 企業経営に限定されるものではないんですね。

むしろ、工夫を凝らして何かを創り上げていくことが本来の役割なわけです。

つまり自然資本経営とは、自然資本が活かされる経済を創り上げていくという意味で、“Building a natural capital economy" ということになろうかと思います。

企業においてCSRなどを担当していたり、こうした分野の国際的な動向に詳しい方は、自然資本経営と言われると、「自然資本宣言」を思い浮かべるかもしれませんね。

2012年にリオ・デ・ジャネイロで開催された「リオ+ 3」地球サミットでは、世界の貧困削減と経済のグリーン化を同時にすすめるグリーン・エコノミーの推進が宣言されました。

そのサミットにおいて「自然資本宣言」とは、グリーン・エコノミーと軌を一にして、国連環境計画(通称UNEP)これは金融イニシアティブが発表した宣言でございまして、そこでは金融が扱う商品やサービスに自然資本の価値を組み入れること が提唱されています。

経済の血液ともいうべき金融も自然資本を無視できなくなったことを示しているエポックメイキングな出来事であり、具体化が注目されるところです。

また、自然資本宣言に関連していることとして、自然資本経営の具体化とは、企業が導入しつつある環境会計を、自然資本への影響まで組み入れたものに、拡張することだと解釈してしまう人もいるかもしれません。

企業の活動というのは一般的に、ヒト、モノ、カネだけで回っているようなイメージがありますが、あらゆる企業活動においてすべからく自然資本を活用することなしには成立しえないわけでございます。

だって企業活動はどこでやってるのかといえば地球上ですよね。ですから常に自然資本からのフローを利用して、その活動の結果として自然資本ストックの増加や減耗を伴うものしかないわけです。

そのことが会計的に記帳されれば、 企業活動の総体をより正確に把握することに繋がりなりますし、株価や営業利益とは違った、企業活動を評価するための情報的基盤になるのではないでしょうか。

こうした試みはマクロ的な国民経済計算のレベルでも、(Net National Product)通称NNPとして試みが始まっています。

また、持続可能性との関連でいえば、富としての自然資本を価値づけることも、端緒的ではあるんですけども国際機関によって推進されております。

こういった動きはどれも、これまで経済界において軽視ないし無視されていた自然資本の価値を再評価するものだと思いますし、私たちの誰もが歩み寄らなければあかんにゃと思います。

でも、自然資本の価値を正確に評価することは、技術的に難しいんです。
そうした根本的に正対することの難しさを抱えていることも確認しておかなければ歩みは止まってしまいます。

これは企業の環境経営を技術的に改良していけば、SDGsをお題目に環境貢献風のものに取り組んでいれば、いつかは自然資本経営が達成できるなんて甘いものではありません。

「国富論」の著者アダム・スミスは、経済学の父といわれているのは皆さんご存知だと思います。

アダム・スミスは、この国富論の前に「道徳情操論」を公表していまして、それで名声を博した倫理学者でもあったんです。

さらに、「法律論集」も著していました、まさに総合社会科学者といってよい人物だったんです。

こうしてアダム・スミスの経済学そのものが、総合社会科学的な側面があったものの、その後の経済学の発展史は、経済学がより専門分化していく歴史でもあり、経済学固有の領域を形成するようになった礎となったわけです。

そしてそれはいつしか、市場の機能を解明することを主題として、価格のつく財・サービスを主たる研究対象としていくことになったという流れになります。

そうした流れのなかで、自然とは価値があるとしても、価格がついていないために、あたかも無価値であるかのように扱われ、人々や企業からは関心がもたれることもなく、経済学においても研究の対象外に置かれてしまったんです。

自然資本を経済学が本気で研究対象にすることがなかったのには、自然は無限であるという論拠に乏しい楽観論が支配的だったこともひとつの原因だと思います。

これまで私たちは数々の大規模な自然破壊を目の当たりにしてきたはずですし、日常的な自然の異変や劣化に直面しているにもかかわらず、人々や企業の行動や思考様式を根本から変えるところまでは至っていないのが現実です。

人は対岸の火事とでも言いましょうか、自分の家が燃え落ちてしまわないことには、なかなか教訓を得ない愚かな生き物なのかもしれません。

生産や生存の基盤として自然が大切であることは、そりゃ誰もが認めるところなんでしょうけど、目先の経済活動において、その思いは全く反映されていませんし、自然の破壊や劣化が慣性の法則のように進んで広がってきているんです。

つまり価格のつかないものは評価しない、できない現在の経済システムがもはや限界にきていて、気候変動問題一つとっても、自然から取り返しのつかないしっぺ返しを受けているように感じるわけです。

自然資本経営とは、これまで無価値だとしてきた自然資本を正当に評価する経済システムを構築する経営なんだということだと思います。

ここでいう経営とは、自然資本に内包されて自然資本が組み入れられたミクロもマクロも含んだ総体としての経済を構築していく営みであることを指します。

繰り返しになりますが、これは“Building a natural capital economy" なのです。「詩経」から引用すると、「縄張をして基礎を定めて、建物などを造ること」です。

分かりやすくいうと「いつまでもあると思うな親と金」ということですね。

このように自然資本経営とは、個々の企業による狭義の環境経営にとどまるものではありません。

経済システムを中心に論じてきてますが、もはや科学方法論や人間の思考様式にまで広がって、経営を支える人的資本や文化資本のあり方にまで及ぶであろう、きわめて壮大な構想です。

したがってこれは一つの体系ですよね。また、生物多様性や生態系サービスという盛んに研究されている流行の自然資本だけでなく、鉱物資源のような古典的な自然資本も新しい視点から位置づけて、文字通り自然資本全体を扱っていく学問にならなきゃいけないと思うんですよ。

教育が国の礎を支えるように、関心を持った人が好き勝手に学ぶんじゃなくて、ちゃんと一般化させて体系づけられた学問として学んだうえで波及していかなければ個々の活動が定まらず燃費に例えるならば非常にエネルギー効率の悪いことをしているというのが現在の状態なんです。

先ほどご紹介させていただいた書籍の著者である谷口さんは、その経歴に、鉱物資源を扱う会社の役員なども務められてきたご経験をお持ちで、鉱物資源開発の現場を歩いてこられました。

それはもちろん、企業経営的立場から鉱物資源を確保するための仕事であったと推測されます。しかし谷口さんにとっては、世界の鉱物資源開発の実情を知る絶好の機会になったんだろうなともとれます。

鉱物資源開発の過程でどれだけの自然資本が壊されているか、現場では言葉では表現しきれないようなすさまじいものがあったそうです。

また、鉱物資源は往々にして先住民の居住区などに存在していることが多いものですし、行く先々で先住民の生活や文化をどう考えるのかという問題にも直面することになったといいます。

つまり、鉱物資源開発は質の良い鉱物資源の権益を確保する商業的行為に違いはないのですけど、どのように実践するかという段階において、その商業的行為がもたらす自然や文化への影響をどのように評価するかが問わなければならないと警笛を鳴らしているんです。

谷口さんは、自分が仕事として活動した結果で得られた鉱物資源の価格や使い方において、果たしてそこに、鉱物資源開発の背後にある自然や文化に対する影響は反映されているのかどうか考え込まざるを得なかったそうです。

この谷口さんの鉱物資源が豊富に埋蔵されている世界を股にかけた活動は、直接的には鉱物資源開発のためのものかもしれません。しかしそれは同時に自然資本の価値が正当に評価された経済のあり方を模索する旅でもあったのだと深く感じ入りました。

同時にこれは私にとっても身につまされる話で、農業経営をしていて本当に自分の農業は自然と共生しているんだろうかと疑問に思って、のちにファームトゥーテーブル市島ポタジェの運動に繋がりました。

これは私も農業小説を連載していたりするので持続可能な食の在り方に興味をお持ちでしたら是非読んでみてください。

これは、時代とともに食の安心・安全、健康そして日本の食文化に関する消費者の意識が変化してきたことなどを捉えて、徹底した「自然農法」で生産した産物の自主流通システムを構築して、そして直販店舗とレストラン経営も行った実話を元にした小説で、実際のところ仕事の都合でシンガポールに移住するまで予約の絶えなかったレストランでした。

この運動を開始するキッカケになった私が大きな影響を受けた二人の人物がいて、その一人はブレインナビオンのアグリセミナーでも良く登壇されている大賀さんです。

大賀さんについては既にご存じの方も多いと思いますので、今回はもう一人のナチュラルハーモニーの河名社長がどんな活動をされているか紹介させていただきます。

同社における基本理念は、「自然尊重」「自然規範」「自然順応」ということにあってですね。流通の都合とか需要者のニーズによって、見かけの良い作物を効率よくつくることが目的になった近代農業に疑問を投げかけてらっしゃるわけです。

つまり自然資本の収奪産業化した農業から改めて、自然に対して畏敬の念をもって自然から恵みを得る自然と共生した本来の農業に戻そうという活動をされています。

この自然農法の基本というのは、1955年に発刊された「自然農法」が原点となっていると聞きました。その基本というのは、化学肥料、農薬で汚染された土壌がもつ本来の母なる大地の力を復元させることです。

その具体的な方法は、肥料、農薬を使わないということだけでなくって、栽培どうのこうのの前に土づくりから始まります。つまり汚染された土と種子から毒素を抜くことから始められるんだそうです。

その方法として、土に対しては深く耕すことによって毒素を含んだ地層を天地返しをしてやって、服毒していない山から新しい土を客土したりします。

種子に対しては、同じ田畑で穫った種子を毎年繰り返し連作することによって当初の肥育の種子を無肥化するなどです。これってビジネス界隈ではあまり話題になっていませんが種子法が絡んでくる奴です。これは文春砲より怖いんですよ。

種子には固定種とF1種があってF1種だけの世の中になったら誰かに胃袋を握られたんと一緒なんですよ。例えば玉ねぎなんかは既にそうなってます。

だから固定種の種子を守っていこうねって運動もやっているんですが、成果を得るまでに数年を要するんです。これは、つまり、劣化した農地という自然資本の価値を復元するための投資からスタートすることになるからです。

だから自然農法は、生産性重視、大都市流通システム整備、そして消費者の利便性追求という、近代農業経営からすると、時代遅れという評価かもしれません。でも時代遅れってかっこいいと思いません?河島英五というシンガーの曲にその名も「時代おくれ」という歌がありまして、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」的なフレーズが大好きでした。

自分軸をもって誰かの意見に流されることなく自分の言葉で生きてみませんか?

それではまたお会いしましょう!

よろしければサポートお願いします! いただいたサポートはクリエイターとしての活動費に使わせていただきます!