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【農業小説】第5話 糖質生産への疑問|農家の食卓 ~ Farm to table ~

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ずいぶん長いあいだ、日本人の典型的な食事と言えば、定食スタイルの白ご飯があって、メインのおかずに、汁物があったりなかったり、漬物もあれば食べてお代わりをしたりもするといった具合だった。

この定食スタイルの構成は長年ほとんど変化してこなかったし、健康的にいいはずだと誰もが思ってきた。

毎日、毎週、毎年のように、日本人はご飯といえばこのような料理を期待してきた。そして、糖質主体の料理がこれほどの頻度で提供され続けるために、周辺では驚くほど大量の食材が生産されている。

しかもこの定食スタイルは、「ファーム・トゥ・テーブル」を提唱する啓発的な人たちのあいだでも存続している。

丹波に市島ポタジェをオープンしてからまだ半年のある夜に、僕はその現実をはっきりと理解したのだ。

営業開始から間もないキッチンにたたずんで、広島から取り寄せたレモンを使ったソースをかけてダイニングルームへ向かう準備の整った前菜を眺めているとき、ハッと気づいたのだ。

雷に打たれたという表現は適切ではない。いまにして思えば宇宙からの啓示のような瞬間を僕は経験したのだ。

頭のなかにつぎつぎと疑問が浮かんで曼荼羅のように回り出し、その内容はどんどん抽象的になっていったのだ。

そしてそのなかに、僕たちのレストランのメニューには本当に持続可能性があると言えるだろうか、という疑問が含まれてきたのだ。

僕たちシェフはメニューについて、特に新しいメニューについてどのように創造するのかと尋ねられる機会が多いものだ。

子どものたちに食事を作っていて、どんなものが食べたいか聞いているうちにインスピレーションがわくときもあるし、季節に合わせてメニューを考えるときなんかも絶好の機会となる。

家や市島ポタジェのキッチンでアイデアが閃くこともあれば、小説を読んでいて登場人物の食べている食事がきっかけになるケースもある。

創作活動というものは、曼荼羅のように同じようなアイデアがぐるぐると繰り返し現れるなかで集中を続けていると脳が錯覚しだす。そうしたなかで新しいアイデアがみえてくるものなのだ。

だが、どのようなプロセスをたどるにしても、分母となるアイデアをはじめにプロットし、そこから素材選びに進むというフローであることは変わらないだろう。

しかし、人類の歴史を考えてみて欲しい。これは僕たちがすっかり忘れているだけで、大半を通じてその順序は逆だったのだ。

いまでいう日本列島だった狩猟採集時代の食事というのはこうだ。この狩猟採集時代というのは主に旧石器時代から縄文時代を経て、弥生時代までの食事をいう。

旧石器時代には、主に狩猟により鹿や野兎など野生の動物が食された。あまり認識されてはいないがナウマン象やマンモスなんかも食べていたと出土した化石から推測される。

約1万年前の縄文時代になると採集することが増えたようだ。森の発達がうかがえる。この時代の食事の中心になったのは木の実や芋であり、栗、胡桃、団栗、山芋、豆といった具合である。

みんなも歴史の時間で習ったはずの縄文人のゴミ捨て場である貝塚も忘れてはならない。ここから貝や魚介類をふんだんに食べていたことがうかがえる。

蛤、アサリ、牡蠣を中心とし鰯、鯖、鮪などを漁労をして、猪、鹿、熊などを狩猟によって獲得していたとある。そして栗などはすでに栽培に近いことをやっており、縄文晩期になると水田で稲作するようになるのだ。

弥生時代になると稲作文化が広まって、ヤマト王権の出現につながったのだ。次第に日本という国が形成されていくことになり、文字が伝来して、奈良時代の日本最古の文献のひとつ『日本書紀』には主食と副食といった、いまでいう定食の基礎的な構成が見られることに至る。

こうして日本独自の伝統的な日本料理が形成されていくようになるまでは、材料を調達し、それから必要に迫られ、手に入った材料で創作活動を行ったに過ぎないのだ。

しかしそれらは消化しやすくて日持ちがよく、しかも栄養分が高くておいしかったことがうかがえる。僕はハンターとして狩猟期には山にこもって狩猟採集民になるからわかる。

調味料には塩さえあれば、素材の旨味を引き出すのに十分なのだ。だから市島ポタジェでは、これと同じ順番でメニューを考えている。

まずは自社農園、周辺の山から採集したもの。もっと彩が欲しい時には近所のファーマーズマーケットなどで食材を物色して、それからメニューを考案していくのだ。

「ファーム・トゥ・テーブル」のメニューでは、地元の農家から食材を調達して味わうことが約束事になっている。ようするに、僕たちが丹波に開店した市島ポタジェは、地産地消によるフードチェーンの短縮化を目指したわけだ。

僕はこれまで同じ場所に留まったためしがない。神奈川県の逗子で生まれ、小学生の頃は、京都の向日市で過ごした。そこから数年で同じ京都の洛西に引っ越し、高校生からは神奈川県の横浜市にある学校の寮で過ごした。

大学からは東京の国立で一人暮らしをはじめて、その時に付き合っていた女性の家に転がり込んだのが新小岩だった。1年後にはニューヨーク州立大学プラッツバーグ校へトランスポートした。

卒業後は、東海岸から西海岸のオレンジカウンティに移り、チノヒルズでしばらく過ごした。

仕事の都合で日本へ戻ってきたが、デベロップ開発だったので、数カ月ごとに日本中を動き回った。

それから数年後に転職して、ようやく京都の長岡京市で落ち着いたかと思ったのだが、農業生産法人を起業して、京都の福知山市へ移住することにしたのだ。

しかし、度重なる災害などで本拠地を丹波市市島町へ移したのだ。僕はまた移住するだろう(この数か月後にシンガポールへ移住した)。

そこで、この場所で過ごした時代の思い出をとどめたいと考えたのだ。そのために誇れる活動をしていきたいと考えたからだ。

僕たちは野菜を主体に作っているように見えて、売り上げで大きなウエイトを占めているのは米だ。それは酒米なのだが、ようは糖質を生産しているのだ。

これが悪いことなどと思わない。雇用も生んでいるし、酒造という文化も育んでいるという自負もある。

こうした事業とどう折り合いをつけながら、あるいは融合させながら編集していこうかと頭を悩ませることになったのだ。

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