「ローマの原罪*ディオニューソスの夢」2話 第三次ポエニ戦争
グラックス邸宅
ガイウス8歳
「兄上、帰ったら土産話聞かせてね」
ティベリウス17歳
「任せろ」
コルネリアも見送りにくる。
「ティベリウス、初軍務がんばってね」
「はい」
「あなたにドミドゥカの御加護がありますように」
母は微笑んだ。
「どうか自分自身を見失わないでね」
――汝自身を知り、その心に恥じることなく生きろ
目をつむれば父の眼差しと言葉が蘇る。
目を開けば母と弟がこちらを見ている。
「ありがとう、母上、ガイウス、いってきます」
【スキピオは前年副総督の提督が始めた海上封鎖を強化】
前年副総督は前法務官ルキウス・ホスティリウス・マンキヌス。
【カルタゴは三段櫂船50隻率いる艦隊を出撃。カルタゴ港海戦でラエリウス副総督率いるローマ海軍は多大な損害をうけたが、カルタゴ海軍を港に封じる事には成功】
スキピオが命ずる。
「ラエリウス副総督は軍団、グルッサ王はヌミディア騎兵隊を率い、ネフェリスに行ってくれ」
【ネフェリスは二年前、マニリウス指揮下で敗戦を喫したカルタゴ南の要塞である】
要塞ネフェリス
「ディオゲネス将軍! ローマ軍に補給路のほとんどを断たれました!」
カルタゴ将軍ディオゲネスはワインをとり落とす。
「……まじでぇ」
【四方に包囲陣をしいたローマ軍は完勝。カルタゴ軍は数千人を殺され、逃亡した四千人以外は捕虜にされた】
カルタゴの人々や各要所の守備隊
「ネフェリスが占領されたって」
「マジかよ」
「将軍はあのスキピオの孫らしい」
「もう終わりだ」
「ああ慈悲深きバアル、なぜ貴方はバアルの恵みなの」
「早く逃げなきゃ」
「要塞に囲まれて出られないって」
「投降しよっかな」
「奴隷にされるだけだ」
「外港を燃やし、内港を守りきればまだ……」
赤子の泣き声。ストレスから喧嘩も。
外港が燃える。
「火の主神よ、どうか我らを護りたまえ」
山脈に雪が降り積もる。
要塞に囲まれた早朝の冬季野営地にブッキナ(ラッパの一種)が吹かれた。さみぃ、ねみぃ、とぼやきながら起きた兵士らが朝食をとる。
彼らより早起きの将校は指揮官幕舎に集まる。
最年少のグラックスも参加。
スキピオが総督席につき、一番近くに哲学者ポリュビオスとガイウス・ラエリウス副総督。
「ポエニを攻める準備は整ったが、来年も指揮を続けていいか自然休戦期※のうちに確認せねばな。後で難癖をつけられてはたまらん。侵略か講和か、意見が割れているようだし、元老院の総意を決めてもらおう」※10月〜3月
スキピオに命じられた将校が幕舎を離れ、命令を百人隊長に伝言し、百人隊長から朝食後の集会で伝令使に伝わる。
「祖国の意思確認を命じる」
「了解」
指揮官幕舎での昼食にもグラックスは参加した。スキピオのそばにいる60歳近い老人を見やる。
「ポリュビオスさん」
「ん?」
老人がこちらを見る。
「あ、その、ポリュビオスさんとスキピオ義兄さんっていつから一緒にいるんですか」
「……二十年以上前のことだよ」
ポリュビオスの言葉をスキピオが継ぐ。
「第三次マケドニア戦争でローマ軍を指揮していたのはわが実父アエミリウスだった。従軍した私は当時お前と同じ年齢だったよ、ティベリウス。だから助言しておく。経験を積むことは大事だが、若さゆえの無知で先走っていないか常に自分を注意しておけ。私は死にかけた、ピュドナの会戦で追撃部隊に加わった時にな。生きて帰れたのは運がよかったからだ。ローマ軍がアンティゴノス朝マケドニアを滅ぼした後、立場をはっきりさせなかったアカイア同盟からも指導者千名を人質とした。その中に騎兵隊長のポリュビオスがいたんだ」
「人質だったんですか」
「そうなるな。グラエキア人哲学者のポリュビオスに実父が目をつけ、息子らの家庭教師としてパウルス家に連れてきたというわけさ」
「へぇ、そうだったんですか……」
「パウルス家にはよくしてもらったよ」
「……ポリュビオスさんは恨みとかないんですか」
ポリュビオスは微笑む。
「この世の事象は全て円環構造なのだ。どちらが善い悪いといったものはない。点で見るとわからんが、線や面、立体的に物事を見ようとすれば真実に気づける」
その言葉をティベリウスはうまく消化できない。
「今すぐにはわからんだろう。だが物事の点にとらわれぬよう注意して生きればいずれ自然と気づくものだ」「それに人質となった我らだが、四年前にアカイア同盟の人質は祖国への帰還が認められた。その時わしも解放されたが」
「私と兄が法務官に願い出、ポリュビオスのローマ滞在が認められたんだ」
「なるほど」
「両親は死んでおったし、他に家族もいなかったから、故郷に帰りたいとは思わんかったしな。わしがローマにきてから17年が経っていた」
「ぼくと同い年だ」
「それぐらい住んでいればもうこちらの方が生活しやすかった。ここには優秀な教え子もいることだしな」
といってスキピオに笑いかける。
スキピオは笑みを返す。
「優秀とはよくいう。最初の頃は私より兄に時間を使っていただろう」
「年長者を立てねばならんかったのでな。才能があるとは思っていたよ。だがあまり熱心にも見えなかった。図書室で「自分は他の若者みたいに法廷に関わらないから臆病者だと思われている、それが嫌だ」と打ち明けてくれなければ貴方の内に眠る情熱には気づけなかっただろう」
「法廷など行ってもいい歳した大人達が喚き散らしているだけで気分を害するのみだ。なのになぜかローマでは法廷に立って弁論術を披露するのが若者の名誉となっている。そんなくだらないもので私を評価してほしくなかっただけだ」
「あの時からだったか、わしがおすすめ本を紹介するようになったのは」
「お前の勧める書物はどれもおもしろかった。理解に難儀する事もあったが」
「それからみるみる賢くなって、アエミリウス様の期待も貴方に傾いていったようだった」
「兄からは嫉妬されたがな」
「じゃあ義兄さんは“カルネアデス演説”の十数年も前からグラエキア哲学に詳しいんですね」
「ああ、そんな事もあったな。あれだろ、八年前にアテネから外交使節として三人の哲学者がきた、特にアカデメイア派のカルネアデスは、正義の大切さを演説した次の日に正義の無意味さを演説して有名になった。狙いが評判になる事なら大成功だったな、善い評判か悪い評判かはともかく。アカデメイアを創設したプラトンまで悪い印象がついたのは頂けない。生前のカトーは哲学含むグラエキア文化全般を批判した。プラトンは哲学の顔だからな。カトーが「独自文化をもたないとローマは滅びる」「グラエキア文化は若者を堕落させる」などいっても結局グラエキア文化はローマ全体に広く浸透したわけだが」
翌月、指揮官幕舎に伝令使が戻ってきた。
「軍指揮権の延長を認める、ポエニを破壊せよ、との事です」
飢餓と疫病が広がるカルタゴ。
死体の肉をこっそり焼いて食べる貧民。
神殿に集まる人々。
「ああ太陽神よ……」
「我らを救いたまえ、治癒神よ……」
冬明け
ローマ建国紀元608年(キリスト紀元前146年)
開戦の月(3月)
ローマ軍の総攻撃から六日後
最後の砦にローマの旗がはためく。
泣きやまない赤子が殺され、母親が強引に連れていかれる。
焼身自殺する人々。
聖域トフェトで幼児を火葬する女。
「母神よ、悪しきローマを呪いたまえ」
スキピオの前に戦利品が並ぶ。
「これらはポエニがシキリアから奪った者だ。略奪物は元の所有者に返還してやれ」
不満げな兵士。
「目の前の欲望に囚われるな。点を見つめれば線を見失うぞ。有力都市には恩を売る方が金品より利益は大きい。祖国や家族を護る事に繋がるのだ」
【五万人以上のカルタゴ人が奴隷にされた】
スキピオ、ポリュビオス、グラックスは壊された軍港や燃えるカルタゴの町を要塞の丘から見下ろす。
――この世の事象は全て円環構造なのですよ
昔ポリュビオスにいわれた言葉をスキピオは思いだす。
――人間社会もまた同じ。歴史とはその時代ごとに正しいと思われた政治体制の循環によって築かれていきます。政体は移ろい変わり、進んでいると思いながら出発点に戻っていく
――プラトンの『国家』を読んだ事は? いずれ読む事をおすすめします
――寡頭政の害悪を経験した人々がいる間は平等主義や自由主義を掲げる人々が民主政を支持します。しかし孫の世代になると自由と平等に慣れ、社会は混乱し、独裁政に回帰するのです
――ローマの繁栄もいずれ衰退にむかうでしょう。自然に従って成長したように自然に従って下落していく。兆候は現れています。貴方も気づいているはずです。誰しも本当は気づいているのに、点を見るばかりで真実から目を背けてしまう。ゆえに人間は、知性を有するにも関わらず、自然の円環構造に従属しているのです
(ポエニが燃え、朽ちようとしている)
スキピオの瞳を炎が照らす。
(ローマより古く強かった国が、668年の歴史が滅びようとしている)
「……勝利は喜ばしい事だ、ポリュビオスよ」
ポリュビオスはスキピオを見る。
「だがいずれ、わが祖国も同じ運命を辿るのではないか……そんな気がしてならない」
ポリュビオスは何も応えない。
グラックスは炎海を見つめる。
(正しさとは何だ)
――どちらが善い悪いといったものはない
(何を信じればいい)
――その心に恥じることなく生きろ
(心とは……)
暗闇の中に炎だけがゆらめく。
スキピオの凱旋式が挙行。白鳥が舞い、兵士らを大歓声が迎えた。
円形闘技場も盛況。
異民族の脱走兵が悲鳴。手足を肉食獣に食われ、最期に頭を喪った。
グラックスを門番奴隷が迎える。女奴隷が「アウレリア様〜」といって屋内に入る。
母が連れられてきた。
「ティベリウス」
笑顔の母を見た途端、目の前の景色と炎が重なる。グラックスはあとずさる。ぱしゃ、と血溜まりをふんだ幻聴。
そんな息子を母は抱きしめた。
「おかえりなさい、愛するわが子」
ぎこちなく抱きしめ返す。
涙がこぼれ落ちた。
「……ただいま」
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