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「ローマの原罪*ディオニューソスの夢」3話 ラティフンディア

攻城塔の橋を渡り、城壁の上にローマの旗を立てる。
歓声の下にカルタゴ人の死体。
グラックスは足首を掴まれる。

「悪しきローマめ」

血を流す虚ろな眼窩と目があう。

「汝を殺すのは汝自身の怖れだ」

死体が燃え、グラックスも炎に包まれ。

天井。
起きあがって手を見つめる。

昨夜食の残りを玄関広間アトリウム家庭祭壇ララリウムに供え、家庭神ラレスに祈り、立ちながら食べる。

「どうしたの、ティベリウス」

察しのいい母。

「……ちょっとした考え事です」

水割りしたワインを飲む。
母の不安げな眼差し。
朝食後、門番奴隷がきた。

「ティベリウス様、ガイウス・ブロシウスという方が」


被保護者クリエンテスとして早朝挨拶サルタティオに参りました」

トゥニカとトーガを着たギリシア風イタリア人。

「なぜ私を保護者パトロヌスに……護民官トリブヌス・プレビスに立候補できる年齢はまだ先ですが」

「貴方には期待しているのです。アフリカヌスに認められた父君と、アフリカヌスの娘アウレリア貴婦人マトローナの息子よ。貴方ならば、暗雲立ちこめるこのローマを太陽ヘリオスのように照らせるのではないかと」

グラックスは従僕に「手土産スポルトゥラを」といって食物入りの籠を用意させる。

「ありがとうございます。これを無産市民プロレタリイに配っても構いませんか」

「え、ええ、手土産スポルトゥラは好きに使って下さい」

彼は表情を暗くする。

「……失業者が年々増えているのは知っていますか」

「ああ、最近よく聞きます。この間の国勢調査ケンスス資産階級アッシドゥイの基準を下回る無産階級プロレタリイが増え、このままじゃ徴兵できないからと等級クラシスの最低値が6400アス※まで下げられたんですよね」※青銅貨

「そうです。兵役を課せられる資産階級アッシドゥイの最低値は12500アスでした。それ未満の無産階級プロレタリイは兵装を用意できませんから。しかしこれからは6400アス以上が徴兵される。財産が12500アス未満の者にまともな兵装が用意できるはずもなく、生活に必要不可欠な農地を置き去りに従軍せねばならない。ますます失業者が増えるばかりか、少子高齢化が生産力と軍事力の質の悪化を招き、国力が弱まるのは明白。元老院セナトゥスはなぜこんな事もわからないのか……」

えふんえふん、と咳払い。

「失礼。とにかく貴方が護民官トリブヌス・プレビスとなる頃にはこの問題はより深刻化しているでしょう。しかも下限がさがる一方、上限はあがっています。最初のポエニ戦争後の国勢調査ケンススでは上限が10万アス以上だったのに、先の第三次の後は100万アス以上になりました。下限と上限の所得格差は10倍から500倍にまでなってしまったのです。500倍以上も所得格差のある人々が同じ軍隊で戦うのはあまりにもいびつではありませんか」

「……そう考えると確かに」

「貴方様の父君も国力低下を危惧し、会計監査官クァエストルの年(前169年)に3万アス以上の財産を有し5歳以上の息子をもつ解放奴隷リベルタス市民権キウィタスを認める法案を提出し、彼らを市内4つの選挙区トリブスにふりわける事が民会決議されましたが、根本的な解決にはなりませんでした。穀物配給アンノーナ受給者は増えています。生活のため参政権を転売する者もいます」

「参政権の転売……」

「政治では何も変えられない……プラトンのように絶望しているのです。彼らには参政権より穀物の方が貴重なのです」

「……いつからそんな事に」

「第一次ポエニ戦争後、ローマが初の属州をシキリアで手に入れた頃です。属州から三分の一税として輸入される大量の穀物供給が市場価格を下落させ、小規模農家を失業させる要因となりました」

「……安く穀物を買えるようになり、生活が楽になったのも確かでは」

「街道などのインフラが整備され、イタリア全体の生産性が向上し、需要が増えた事で穀物に代わってオリーブやワインヴィヌム、牧畜を主力商品としてやっていけた時期はまだよかった。しかし第二次ポエニ戦争から状況は変わりました。増えていく属州から十分の一税や鉱山の収益、国有地の借地料や港湾使用料などを吸いあげて国庫が潤い、レピドゥスとフラミニウスが執政官コンスルの年(前187年)に国が我々市民から徴収していた戦時財産税トリブトゥムの返済が終わると、ローマ市民に戦時財産税トリブトゥムを課す必要がなくなり、ガルスとマルケルスが執政官コンスルの年(前167年)に全廃されたのです」

「なるほど……戦時財産税トリブトゥム等級クラシスに則して全市民に課されていたんですもんね。それがなくなれば経済格差は広がる」

「富裕層は莫大な余剰資産を得、属州の国有地に投資して私物化しました。国有地といっても年に穀物収益の十分の一、オリーブやぶどうは五分の一を借地料として支払えば借地権の相続や譲渡も認められるので、資産さえあれば私有地のように運用できますから」

大土地所有ラティフンディアですね」

「そうです。元老院階級オプティマテス騎士階級エクィテスの富裕層は大土地所有地ラティフンディウムで兵役義務がなく年中農業を務められ、国有地と同じく戦争がもたらした大量で安価な奴隷を用い、穀物を大量生産して格安で市場に流し、また資産を増やし、価格競争に敗れた中小農家が手放した農地も大土地所有地ラティフンディウムにされ、さらに経済格差は広がります。元老院階級オプティマテスが商業に携わるのは違法ですが、解放奴隷リベルタス名義を使えば合法化できます。借用上限が500ユゲルム※と定められた国有地も家族や親族名義で借り放題。そうして廃業した農民がローマ市内に流れこみ、無産市民プロレタリイとして仕事を奪いあっているのが現状です」※125ヘクタール

「貿易船が海賊に襲われたのは知っていますか。そのため穀物配給アンノーナが遅れているのです。私も貴方がた貴族階級ノビリタスほど生活に余裕はありませんが、集合住宅インスラに住んでいるので無産市民プロレタリイをよく見かけます。餓死するのを黙って見ているわけにもいきません。これを配るのはそういうわけです」

門番奴隷がきた。

「ティベリウス様、別の被保護者クリエンテスの方が」

「貴方に目をつけたのは私だけではなかったようです。先のポエニ戦争で城壁冠コロナ・ムラリスを獲得したのも大きいでしょうねえ」

「……かもしれません」

「では私はこれで。貴方のゆく道を楽しみにしております」

彼の背中を見つめるグラックス。

(今の話のどこまでが主観で、どこまでが事実か判断するのはまだ性急……大げさにいって優遇してもらおうとする者もいる。同情に流されず、冷静に見極めていかないとな)


夕方、フラックス邸宅ドムスの玄関先。

ようサルウェ、ティベリウス」

四歳上のマルクス・フルウィウス・フラックス。
彼の母とコルネリアも挨拶し、ガイウスは母の陰に隠れる。
グラックスは会釈。

「この度は晩餐会コンウィウィウムにお招き頂き」

「やめろ気持ちわりぃ。普段通りにしろ」

「……家長様がそう仰るなら。オルタウィウスは旅行中で来ないんだよな。カルボは」

「もうきてるぜ」

三臥台食堂トリクリニウムに案内される。

「お、ティベリウス、よっサルウェ

同い年のガイウス・パピリウス・カルボ。

やあサルウェ、カルボ」

鉢の水で手洗いしてから食堂入り。
神像に祈り、各臥台につき、食前酒を回し飲み。
奴隷が料理を運んでくる。
最初に出されたのはゆで卵。
魚醤ガルムをつける。パンも食べあわせる。

「うん、やっぱパンパニスと合うな」

グラックスは笑う。
フラックスとカルボは目を見交わす。

「ティベリウス、どした」

「最近元気ないな」

表情をとり繕う。

「……そんな顔してた?」

「ポエニから帰ってから時折な」

「そうそう。なんだよ、初陣で城壁冠コロナ・ムラリスをもらったのに不服でもあんのか。俺はムンミウス執政官コンスルの下でコリントスの会戦が初陣だったけど大した成果あげられなかったぜ」

「カルボは法廷で活躍してんだろ。俺はお前らほど弁論できねえから歳上なのに追い越されそうで怖いわ。ピュドナの会戦(第四次マケドニア戦争)でマケドニアの密集陣形ファランクスを破るのに貢献したけど、お前らみたいな華々しい威光ディグニタスがないんだよな」

「……義兄さんにもらった手柄だよ。ぼくが城壁に登る前に攻城兵器で相手は怯えきってた。新兵が城壁冠コロナ・ムラリスをもらえるぐらい場は用意されてたんだ」

「それだけじゃねえだろ。先陣切って城壁に登るのはやっぱ怖いもんだ。恐怖をふりきってそれができたのはお前自身の武勇ウィルトゥスだろ」

「俺もカルボに同意だね」

「……それはまあ、そうだけど」

「だろ」

(でも違う)

奴隷が前菜を運んでくる。

(ポエニが滅亡した。ぼくが参加せずとも結果は変わらなかった。けど)

次にヤマネの蜂蜜焼き。

(カルボ、お前の参加した戦争でコリントスは滅ぼされ、男は皆殺しにされ、女子供は犯され奴隷として売られ、芸術品の数々も奪われ、アテネやスパルタ含むグラエキア全土がアカエア属州になった)

ボラの刺身と、卵巣を塩漬けしたカラスミ。

(フラックス、お前の活躍でアレクサンドロス大王を生んだマケドニアもローマの属州になった)

豚肉ソーセージを食む。

(どれだけの人が殺され、苦しんだ……その怒りや怖れは、遅効性の毒になり、ローマを苦しめ、死に至らしめるんじゃないか)

「あ」

弟がパンを落とす。拾おうとした手を母が掴む。

「だめ。落とした食べ物は祖霊マネスのものよ。拾ったら悪霊ラルヴァ怨霊レムレスにとり憑かれちゃうわ」

青ざめて手をひっこめる弟。笑いが起こる。

(争いは、怒りと怖れの輪廻……こんな事を続けても、平和な世界は来ないんじゃないか……)

食後の手洗い。こびりついた汚れ。
デザートのぶどうとりんご。
赤ワインに映る自分。その赤色が戦場の血と重なる。

(ディオニューソスよ、ぼくはどう生きるべきなんだ)

血のように赤いワインを飲んだ。


ローマ建国紀元611年(キリスト紀元前142年)
ローマ郊外マルスの野カンプス・マルティウス

完了式ルストルムを行う監察官ケンソルスキピオと同僚ムンミウス。

この豊満が永久たらん事をエスト・ペルペトゥア

【スキピオは以前の祈り「祖国がより良くならん事を」を改訂した】

スキピオが目を開く。

(これ以上の繁栄は祖国ローマを滅ぼす)


ローマ建国紀元616年(キリスト紀元前137年)

「これよりわが軍は、ヌマンティア戦争平定のため近方のヒスパニアヒスパニア・キテリオルへむかう」

先頭に執政官コンスルガイウス・ホスティリウス・マンキヌス。
そのそばに会計検査官クァエストルティベリウス・グラックス26歳。

(ヒスパニア・キテリオル……四十年前のケルティベリア戦争で父上パテルが治めた地……)

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