読書記録「社会科実践の追究」

書籍の読み方は人によって様々だが、その読み方を共有したり語り合ったりする機会は、日常生活の中で意外と少ない。
そのような意味でも、この書籍は教育界に一石を投じる書となると感じる。
わたしは社会は専門外で苦手意識が高いが、だからこそ読む価値のある一冊だった。

この書籍で貫かれているのは「先人への敬意」「自身の実践の内省」である。
「巨人の肩に立つ」という言葉そのもの、先人が積み重ねてきた研究と実践に敬意を表し、それをもとに真摯に実践を重ね、自身の実践を内省する著者たちの姿を数多く見ることができた。

特に印象に残る記述を以下に羅列する。

最も印象に残ったのは、山田勉の書である。(宗實実践)
社会と道徳は親和性が高いと感じてはいたが、この論考を拝読してそれが確信に変わった。

山田は「追究」について繰り返し述べている。
山田の主張する「追究」は
「子どもの内面に自ら発動する力、その力に基づいて新しい知識を獲得していく、そういう学習活動を考えていかなければいけない、それが追究である。」
社会科では目に見える事象から見えないもの、事実的知識から概念的知識を獲得していく。
道徳科は目に見える行為行動から見えない心、道徳的行為から道徳的心情や道徳的判断力を見出し、その姿に憧れをもち、道徳的実践意欲を高めていく。
見えるものから見えないものへ。ここも酷似している。(これは他教科もそうかも)
社会科は追究の過程で道徳的心情の高まりが見られる。社会科で培う判断力は公民的資質、つまり道徳的判断力に酷似しているといえよう。

では、違いは何か。
まだ整理できていないが以下であると考える。
・社会科では、考えるきっかけが社会的事象である(最初は「人」が見えない)が、道徳科で考えるきっかけは人の行為行動である(ど真ん中に「人」がいる。)ことが多い。(例外もあり)
・社会科では概念的知識の獲得を目指すが、道徳科では道徳的心情の高まりと道徳的実践への意欲を目指す。(※公民的資質には行為行動も含まれる?小学校と中学校における目指す子どもの姿の違いは?)

山田は、「追究」ということと人間形成が結びつかないといけないと述べている。(p.134)
そして、追究の条件として以下の3つを挙げる。
①追究の段階
②追究に際する意欲
③追究の教育的意義
簡単な解説も述べられている。

①追究の段階
「知る」の段階を知る。
1.感情的認識(漠然と知っている)
2.実体的認識(構造について知る)
3.法則的認識(本質的に知る)
ここでいう1は「あれども見えず」の状態(例:思いやりのある人ってどんな人かを漠然と考えている状態)、2は見えるようになる(例:思いやりがある人ってこういう人のことかな)、3は見えるものから見えないものがみえるようになる(例:相手に気づかれないさりげない心遣いも、思いやりだな)と考える。
この過程を踏めるような授業を構成できることが、追究の第一歩であるといえよう。

②追究に関する意欲
問題意識をもてるかどうか、は理解できるのだが、「主観ー客観」(ヒトゴト)から「主観ー主観」(ジブンゴト)の捉えがまだ曖昧である。本書を読み直して自分なりに捉えていきたい。

③追究の教育的意味
追究は「知る」と「育つ」の一体化が図られる必要がある、という主張は納得できる。追究することで人間的成長があること、これは追究に限らず学び全般で主張できることであろう。
一方で、「知る」と「育つ」の一体化の難しさやそれが促進されるための教え方については、まだ理解が浅く学びを深めることが必要である。
今の段階の理解は
「知る」ことで自分自身の生活経験と結びつき、個の経験に基づく知見や価値観が「育つ」こと
程度である。もう少し深めていきたい。

集団学習と抵抗としての教材についても大変興味深かった。
教材は子どもに自己否定的に反省を迫る機能として位置付くと主張しているという。
道徳科の授業に寄せて自分なりに解釈すると、子どもは教材と出会うことで自身のもっている価値観を揺さぶられ、問いをもち、今までの経験を総動員させて再構築を試みる、という思考過程である。
道徳科の授業で応用できるので、具体的な教材を通して考えていきたい。

時を重ねた追究が子ども自身の自律的な学習に繋がるのは自明である一方で、道徳科は1時間単位で語られることが非常に多い。
子どもたちが自律的に追究し続けられるようなカリキュラム、複数時間で育てる学習デザインは必須である。

以上、羅列的に書いてきたが、本書を道徳科と比較しながら読み進めることで、より道徳科の特質も明らかになってきたように思える。
自分の実践と比較しながら、先人の主張への理解を進めるとともに、実践と理論を往還させながら自らの論をつくっていきたい。

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