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【エッセイ】服を捨てる話:親に嫌われていると腹落ちしたら、片付けることができました④

服を片づけると、自分の考え方のパターンがわかって恥ずかしくなる。


 
 私は服を棚にゴチャゴチャとしまい込んでいた。大した量じゃないから適当な洗面所の棚に適当に突っ込む。それで事足りていた。
 だから、納戸やタンスや他の収納がゴチャゴチャパンパンなことと私の服は関係ない。「どうせ私なんて」の反動で子どもたちの服はまあまあ買ってきた。その服たちは思い出もあって捨てられない。ゴチャゴチャパンパンはそのせいだ。そう思っていたけれどーーいやいや関係ありました。
 適当に突っ込んだ服の中には2、3年着ていないものもあり、いつの間にヨレヨレの服だらけになっている。タンスはオフシーズンの服をつめこんだままほとんど放置。数年放置。その他にも収納や納戸にしまいこんだままの「もしかしたら着るかも」という服もずっと放置状態になっていた。

何故こうなったのか。
捨てていってわかったパターンを以下に書き出してみる。

〈着ない服、ヨレヨレの服が溜まっていく私の思考〉

どうせ私なんて綺麗にする価値はない、何を着ても無駄だ、と地味な男物を着る

肌触りもよく着やすいからヨレヨレ、毛玉だらけになっても同じ服を着続ける

でも大切にしないからそのへんに投げ込む

更にボロになる

着心地はいいのでパジャマにする(つまりいつまでも捨てない)

そのくせ、一度も着ていないちゃんとした女物を納戸の奥にとっておいていた

いつかブスで貧素な自分から素敵に変わって、これが似合うようになるかも、と幻想を抱いていたらしい

つまり、「どうせ私なんて」と本当の自分を直視しているようで、実は全くしていない

変わらない

どうせ私なんて、で新しい男物を選び続ける

服に興味がないほうが無難で傷つかないから楽でやめられない

楽だけど満たされないから幻想は抱き続ける

着ない服を捨てられない

ヨレヨレの服が溜まっていく


 このように、どうせ私なんて、と言いつつ、幻想も抱いている。
 どこかで自分を過大評価している。過大評価しているからこその「私なんて」が、透けて見える。

「いつか美人になれる」

という若い頃からの幻想を中年になっても捨てきれていない。

 試行錯誤もしないで卑屈になっている奴が美人になるかいな。

 待っているだけで変われるもんか。中身スカスカ他人任せの私は見た目が変わっても美人にはなれない。

 だいたい美人っていうのも人を馬鹿にしている。

素敵な人を見ると思う。
美人かどうか決めるのは他人で、なるもんじゃねぇ。どう生きているか、じゃないのか、と。

 で、自分はどうなりたいの?どう生きたいの?

と、考えてみる。自分の憧れる女性を思い浮かべてみたら、綺麗である根本原因があった。

それは「筋が通っていて、つべこべ文句を言わずに行動している」ことだった。
 
 だから、今はつべこべ言わずに片付けていく。

 



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