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福澤諭吉 日々のおしえ 現代版

福澤諭吉 [ひびのをしへ]は、明治4年に子息、一太郎と捨次郎兄弟のために、福澤が半紙四つ折りの帳面二冊をこしらえ、毎日一箇条づつを書いて与えたものである。
『続福澤全集』掲載のものは捨次郎に与えたものを原拠としたが、ここでは一太郎のそれによったので、前者に比べ若干の追補がある。

らしいです。

ここでは、福澤諭吉記念館で入手したカッコイイ「日々のおしえ」を、再利用可能なように今の言葉に直したものを記載しています。
誰かの子育てのお役に立ったら幸いです。

おさだめ

一、うそをつくべからず
一、ものをひろうべからず
一、父母にきかずにものをもらうべからず
一、ごうじょうをはるべからず
一、兄弟けんか、かたく無用
一、人のうわさ、かたく無用
一、ひとのものをうらやむべからず

  十月十四日
 本をよんで、はじめの方を忘れるのは、底のないおけに水をくみ入れるようなものだ。汲むばかりの苦労をしても少しも水がたまることはない。
であれば、おまえたち二人、読んだところはおさらいをせずに初めのほうを忘れるときは、読むだけの苦労ばかりだ、はらの底に学問がたまることはないだろう。
  十月十五日
 人はみな、虫を殺し、けものを苦しめるなどのむごいことをしてはいけない。このような無慈悲なふるまいをするときは、ついには自分の仲間もむごくするようになるだろう。むごい行いを行っていないか、慎重に行動せねばならない。
  十月十六日
 子供といえど、いつまでも子供たるべきではない。追々成長して、一人前の男となるものであるなら、幼いときよりできるだけ人の世話にならぬよう、自分でうがいをし、自分で顔を洗い、きものを一人で着て、くつしたも自分ではくように。そのほかすべて、じぶんでできることは、じぶんでするのがよい。これを西洋のことばで「インディペンデント」という。インディペンデントは独立ということだ。独立とは、ひとりだちして、他人の世話にならないことである。
  十月十七日
 人の心は一人ひとり異なっている。それはその顔のように、十人いれば十人とも違うことがわかるだろう。人々の心も、だれひとり同じものはない。まるい顔、長い顔があるように、その心もまた、それぞれの生まれつき、一様ではではない。気が短い人もあれば、気が長い人もいる。静かな人がいればさわがしい人もいる。ひとのふるまいをみて、それがはからずも、自分を怒らせるようなものだったとしても、短気をおこして、怒りをあらわすことをしてはいけない。なるたけかんべんして、がまんして、お互いにまじわるべきである。
  十月十九日
 もめんの着物でも、とうざん縞の羽織でも、すべて着物の粗末なことは恥ずかしいと思うものではないが、着物にあかがつき、顔手足が汚れて汚いことこそ恥ずかしいことと思え。
子供たるもの、つねにそれを心がけ、手足を洗い、着物をよごさぬようにつつしむべし。
  十月二十一日
 人には勇気がなければならない。勇気とはつよきことである。物事をおそれぬ気性である。なにごとにおいても、自分の思い定めたことは、いつまでもこれにこりかたまり、くるしみをいとわず、成し遂げるべし。
たとえば、本を一度よんでおぼえなかったとしても、これを捨ててはならない。一度も、二度も、十も二十も、おぼえるまでは勇気をふるい、なおつよくなりて、つとめるべきである。
  十月二十七日
 世の中に、父母ほど良いものはない。父母よりしんせつなものはない。父母が長く生きて丈夫なのは、子供の願うことだけれど、今日は生きて、明日は死ぬかもしれない。父母の生き死にはゴッドの心にあり。ゴッドは父母をこしらえ、ゴッドは父母を生かし、また父母を死なせることもあるだろう。
天地万物なにもかも。ゴッドの作っていないものはない。子供の時からゴッドのありがたさを知り、ゴッドの心にしたがうべきである。
  〇
 まいにち三度のしょくじを食べ、夜はねて、朝になればおき、まいにちまいにち、おなじことをして日を送るときは、人のいのちはわずか50年、いつのまにか、としをとり、昨日にかわるこんにちは、しらがあたまのおじいさん、やがておてらの土となるだろう。そもそも、ものをたべて、ねて、おきることは、うまでもぶたでも、できることだ。にんげんのみぶんとして、うまやぶたなどとおなじことですむだろうか?あさましいことである。
であれば、いま、人としてこの世に生まれたのであれば、とり、けものにできぬ むずかしいことをなして、ちくるいとにんげんとの、くべつをつけなければならないだろう。そのくべつとは、ひとはどうりをわきまえて、みだりにめのまえのよくにまよわず、文字をかき、文字をよみ、ひろくせかいじゅうのありさまを知り、むかしの世といまの世と、かわりゆくようすを十分になっとくし、にんげんのつきあいをなかよくし、そのひとりの心に、はずかしいことがないようにすることだ。そのようにあってこそ、ひとはばんぶつのれいというべきである。
  〇
 ももたろうが、おにがしまに行ったことは、たからをとりにゆくという。よくないことなのではないか。たからは、おにがたいせつにしまっているものなので、たからのもちぬしは、おにである。もちぬしのあるたからを、わけもなく、とりにゆくとは、ももたろうはぬすびとともいうべき、わるものである。もしまたそのおにが、すべてわるものであって、よのなかのさまたげになっているというならば、ももたろうのゆうきでこれをこらしめるのはとてもよいことなのだけれど、たからをもちかえり、おじいさんとおばあさんにあげたとなれば、ただ、たからがほしくておにをたおしたということになる。ひれつなおこないである。
  〇
 てあしにけがをしても、ばんそうこうをはり、またくすりをつけてだいじにしておけば、じきになおり、すこしのけがであればきずものこらない。
さて、ひとというものは、うそをつかないはずのものだ。ぬすみをしないはずのものだ。いちどでもうそをつき、ぬすみをすると、それをこころのけがとなるだろう。こころのけがは、てあしのけがよりもおそろしいものだ。くすりやばんそうこうでは、なかなか、なおらない。こうあるから、おまえたちは、てあしよりもこころをだいじにすべきである。
  〇
 こどもは、もののかずをしらないようではいけない。たとえば、ひとにはてのゆびが五ほんづつ、あしのゆびが五ほんづつ、てとあしのゆびをあわせて二十ほんあり。いまおまえたち、きょうだい五にんのてあしのゆびを、みなあわせて、なんぼんあるかとたずねられたら、なんとこたえるか。
  〇
 けさのひのでから、あすのあさのひのでまでのあいだを、十二にわけてひとときという。あさのひのでるころを、むつどきといい、むつ、いつつ、
よつ、ここのつとかぞえ、ここのつはひるのまんなかであり、ひるのおまんまをたべるときである。ここのつより、やつ、ななつ、むつ、とかぞえ、むつはひのくれるときであり、あさのむつよりくれのむつまで、ひるのあいだがあり、よるのときをかぞえるのも、ひるとおなじことである。くれむつよりあけむつまで、六ときをもって、よあけにいたるのだ。
  〇
 こどもは、にゅうわで、ひとにかわいがられるように、ありたいものである。せけんのひとのなかにいるときはもちろんのこと、じぶんのうちでめしつかいのおとこおんなに、ものをいいつけるにも、けんりょくをかさに、ことばをもちいてはならない。たとえば水をのみたいときも、おんなどもへ、水をもってこいと言うよりも、水をもってきておくれといえば、その女はこころよくして、はやく水をもってくるものである。なにごとによらず、すべてこの心をもつように。できるだけ、おうへいにかまえないように心を用いるべきである。
  〇
 ひとのふりをみて、わがふりをなおせ。おまえたちも今日まで、たべものにも着るものにも、ふじゆうがなかったが、もしそのこころがおとなしいものでなく、いやしいこんじょうをもって、ほんもよまず、むがく、ぶんもうになることがあれば、どんなりっぱなきものをきても、どんなおおきないえにいても、ひとにいやしめられ、ひとにゆびさされ、こじきにもおとるはじをかくことになるだろう。

ひびのおしえ 初編 終わり


ひびのおしえ 二へん

 とうざいとうざーい!せいしゅくに!ひびのおしえ二へんのはじまり。
おさだめのおきては6かじょう、みみをさらってこれを聞き、はらにおさめて忘れるべからず。

  だい一
 てんとうさまをおそれ、これをうやまい、そのこころにしたがうべし。ただしここにいうてんとうさまとは、にちりんのことにはあらず、西洋のことばにてゴッドと言い、にほんのことばにほんやくすれば、ぞうぶつしゅというものである。
  だい二
 ちちははをうやまい、これをしたしみ、そのこころにしたがいなさい。
  だい三
 ひとをころしてはならない。けものをむごくとりあつかい、むしけらをむえきにころしてはならない。
  だい四
 ぬすみをしてはならない。ひとのおとしたものをひろってはならない。
  だい五
 いつわってはならない。うそをついてひとのじゃまをしてはならない。
  だい六
 むさぼってはならない。むやみによくばって、ひとのものをほしがってはならない。


  〇
 てんとうさまのおきて、というものは、むかしむかし、そのむかしより今日の今にいたるまで、少しもまちがいがない。麦をまけば麦が生え、豆をまけば豆がはえ、木の船は浮き、土の船は沈む。決まりきったことなので、人もこれを不思議とは思わないものだ。であれば、いま、良いことをすればよいむくいがあり、悪いことをすれば悪いむくいがあることも、これまたてんとうさまのおきてである。昔から間違えることがない。
それなのに、てんとう知らずのばかものは、目の前の欲に迷って天のおきてを恐れず、悪事をはたらいて、幸せになろうとする。それは、土の船に乗って海を渡ろうとすることとおなじ。こんなことで、てんとうさまが騙されることがあるか?悪事をまけば悪事をはえるぞ、かべにみみあり、ふすまに目あり。悪事をなして罪をのがれようとしてはならないぞ。

  〇
 けさの日の出より明日の朝の日の出までを一日とし、三十日あわせてひと月となる。大の月は三十日、小の月は二十九日であるが、まずこれを三十日づつとすれば、一年は十二月なので、日の数は三百六十日である。
十年は三千六百日、五十年は一万八千にちである。
お前たちも、いまから三百六十ねると、またひとつとしをとり、お正月になり、おもしろいこともあるだろう。しかしだんだん多く寝て、一万八千ばかりも寝ると、五十六、七のおじいさんになって、あまりおもしろくもないだろう。一日といえど油断することなく、学問すべきである。

  〇
 日本では、夜と昼を十二に分けて十二時と定められているが、西洋では二十四にわけ、夜昼あわせて二十四時と定められている。
それなので、西洋のひと時は、日本の半時にあたる。その割合は以下のようになるのだ。

日本の時   西洋の時
むつ     六時
むつはん   七時
いつ     八時
いつつはん  九時
四時     十時
四半     十一時
九時     十二時
九半     一時
八時     二時
八半     三時
七時     四時
七半     五時
このようにかぞえて、もとの六時に返り、順にかぞえるのだ。

  〇
 西洋の一時を六十に分けて一分時という。あるいは、西洋のことばでミニウトともいう。一分時をまた六十にわけて一「セカンド」という。
一「セカンド」はたいてい、脈がひとつ動くくらいの間である。
 一日は、西洋の十二時なので、「ミニウト」にすれば七百二十「ミニウト」である。「セカンド」にすれば四万三千二百「セカンド」である。

  〇
 たたみの長さは六尺。かもいの長さは五尺七寸である。一尺を十に分けたものが一寸であり、一寸を十でわけて一分といい、一分を十にわけて一厘という。それゆえ、一尺は千厘である。一尺は百分である。一尺は十寸である。
 六尺を一間と言い、六十間を一町と言い、三十六町を一里と言う。それゆえ、一町は三百六十尺である。一里は一万二千九百六十尺である。間にすれば二千百六十間である。
 人の歩く一歩を二尺とすれば、一里は六千四百八十歩である。それゆえ、一日に十里の道を歩く人は、六万四千八百歩、歩くのだ。
 これらのことは、かね尺という尺である。家を建てる、箱を作るなど、すべてのものの長さをはかる寸法である。反物の長さをはかるには、くじら尺というものさしがある。呉服屋、仕立て屋で用いられる。くじら尺は、金尺よりも長く、くじら尺の八寸と、金尺の一尺は同じ長さである。

  〇
 一坪とは、たてよこ一間づつの広さのことである。つまり、たたみ二枚敷きのことである。田畑の広さをはかる場合であれば、百姓の言葉でこの一坪のことを一と言う。三十一畝ひとせと言い、十畝とせ一反いったんといい、十反を一町いっちょうと言う。それゆえ、一町はつまり三百坪である。一歩は一坪と同じことである。
 たとえば、この畑は四反七畝十五歩したんななせじゅうごぶあるというならば、つまりその畑の広さは千四百二十五坪あるということになり、千畳敷の座敷は五百坪なので、畑の勘定になおせば一反六畝二十歩いったんろくせにじゅうぶである。

まとめ

ここまでお読みいただきありがとうございました。

有名な「学問のすすめ」は、学校の子供たちむけに、書かれたものでありますが、この日々のおしえは、福澤諭吉自身が、わが子のために書いたものなので、福澤諭吉の人となりを、子供の立場から受け取ることができるとても素晴らしい文書であるといえるでしょう。

私には子供がありませんが、いろいろなところでこれらのことを再利用しやすいように、メモとして残した次第です。

では、またどこかで。

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