古葉監督、ありがとう!


先日亡くなられた、元広島カープの監督・古葉竹識さんを追悼する文章をいくつかネットで見ました。中でも日経新聞の春秋欄の記事は響きました。


〜引用〜


大江健三郎さんの著書「ヒロシマ・ノート」にこんな一節がある。「一年前、飛行場に僕をおくってくれた運転手とおなじく、いま僕を市街のなかへ運んでゆく運転手もまた、昨夜の広島カープの試合の噂に夢中だ」。1964年、広島空港で拾ったタクシーの描写だ。


▼被爆都市のシンボルとはなんだろう。まず、世界遺産・原爆ドームが思い浮かぶ。カキやお好み焼きなどの名物も外せない。でも、地元で最も愛され続けているのは1950年に設立されたカープという球団だろう。資金難で長らく低迷が続くのだが、市民球場を建設。人びとが戦後の困難から立ち上がる希望の光だった。


▼ベースボール・マガジン社の「完全保存版 広島カープ全史」のページを繰ると、地元ファンの思いが伝わる。「郷土チーム、カープのため援助資金を」。看板を掲げ、メガホンで呼びかける市民のセピア色の写真が載っている。1975年に弱小球団を悲願のリーグ初優勝に導いた元監督、古葉竹識さんの訃報が届いた。


▼広島に凱旋したナインを市民は熱狂的に迎えた。歓声、バンザイ、そして涙……。プロ野球の歴史のなかで、最も感動的な優勝パレードとして語り継がれる。勝利したのは、焦土から復興した広島という都市と市民だったかのようであった。古葉さんの温顔に宿る激しい闘志と冷静な采配をこの街は決して忘れないだろう。


〜引用終わり〜


広島が、広島の人が、原爆投下から30年経った昭和50年(1975年)の秋、手に入れた「希望」と「自信」。そして、それを共有した「一体感」。


カープの優勝は、小学校6年生だった私には、忘れられない「スポーツの持つ力の原体験」となりました。


ヤクルトの高津監督の言葉もネットで見つけました。


◆広島出身のヤクルト高津監督 昭和50年、ルーツ監督の後を受け初優勝に導いた古葉監督のこと、そして広島の街がカープ一色になったことは、当時小学校1年生の私の記憶に鮮明に残ってます。同じチームで野球をやったことはありませんが、心に残る監督のおひとりです。


この人もやはり広島育ちの同世代人だと嬉しくなりました。


地元に帰り、球場に足を運ぶと、そこに女性が多いことに驚きます。カープ女子と言われる若いファンだけでなく、子どもを連れたお母さんや、ご年配のおばあちゃまの姿も目につきます。


私の母は83歳になりますが、カープの「ローテーションを読む」くらい軽くやってのけます。


カープは広島県民にとって本当に「身近な存在」です。そして、それは「プライド」でもあり、「アイデンティティ」でもあると思います。


「今日、カープ勝ったかな〜」と夜にスマホを確認する私に、ある友人が「本当に広島出身の人って、世界中どこにいても全員夜になるとそう言ってるよね」と笑いました。


本当にそうなんです。スポーツの力はすごいのです!


古葉監督がプレゼントしてくれた、あの1975年の高揚感を、私たち広島県出身者は一生忘れません。本当にありがとうございました。安らかにお眠りください。


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