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橋本治「ひらがな日本美術史」第5巻 ひとりぼっちなもの 伊藤若冲 画家と作家


動植綵絵 「牡丹小禽図」

 若冲はニガテだ。
集合体恐怖症の人なら共感してくれるだろう。

「ウォーリーを探せ」 これもだめ

 若冲の絵は本当に素晴らしいと思う。
決してキライなわけじゃないんだ。
ただあのうじゃうじゃや点描画のぶつぶつが、どうも。

「石灯籠図屏風」

  若冲の絵を開いて、その美しさにうっとりする前に、こめかみがジーンと痺れる。
「あ、アカン。」とパタンと閉じる。
でも見たいからまた開く。
5秒持たずに閉じる。
「ひらがな日本美術史」を開いたり閉じたり、こんなことずーっとやってる。 
なにやってんだか、私は。
 そもそもなんでこの章が気になったかと言うと、橋本治が当惑しているのが珍しかったからだ。
私はなんだか、橋本治を語るという暴挙に及ぼうとしているけれど実は内心ガクブルで、この「当惑している」とかって言い切るのも、すごい勇気を振り絞っているのです。
そしてこれから「穴があったら入りたい」状態になるに決まっていることを語ります。
私だって橋本治を語りたいんですごめんなさい!

 この「ひとりぼっちなもの」という章を読んで、なぜか伊藤若冲と橋本治を重ねてしまった。

 鶏を描く伊藤若冲はいたって尋常でノーマルな画家である。 異常とはその彼が一方で、当時の絵の常識とは掛け離れた絵を平気で描いていたことである。

伊藤若冲という画家は「そういう絵の描き方もある」ということになったら素直にそれを取り入れてしまう画家で、「絵とはいかなるものであってしかるべきか?」という哲学的な思考をする画家ではない。 だから彼は、「いろんな絵」が描ける。  そして彼の絵には難解さがかけらもない。 絵を描く彼は、ただ自由で柔軟なのである。

 私はこの「画家」を「作家」、「絵」を「本」に置き換えて読んでしまったのだ。
最初に白状しておくが、私は橋本治の本を読破していない。(あたりまえやん)
平家物語や源氏物語は別として、小説に関しては読破どころか、多分一冊も読んでないごめんなさい。
だけど私が読んだ数少ない著作の中には、まるで若冲の絵のような緻密で、時に「しんどくなる」ようなエネルギーがぱんぱんに詰まっていた。
 私は読解力がないので、いつも誰かに解説してもらって「あ、そうかぁ。」と思うことがほとんどなのだが、橋本治の本は解説してくれる人ってほんとにいなくて、仕方ないから何度も読む。
なぜか投げ出せない。

 若冲の「石灯籠図屏風」に2羽の小鳥がとまっているのを見つけるのに、集合体恐怖症の私はすごく時間がかかった。
 「あれ、小鳥がいる。」
私のこの態度は多分、橋本治の本を読む時の態度と同じなのだ。
あらゆるジャンルを、あらゆる文体で、自由自在に、しかも緻密に書かれた本の中に、ある時私は2羽の小鳥を見つける。
畳み掛けるような文章に目を回しそうになっている私には、そのことが嬉しくてたまらない。
そんな本の読み方をさせる作家は、私には橋本治だけだ。

橋本治が亡くなったと知った時、なぜか私は「しまった!」と思った。
無尽蔵に溢れて当然と思っていた井戸が突然枯れたことに、どうしようもない面目なさを感じたのだ。
この先、もう橋本治はいないんだ。
日本人として生まれたことの幸運を、噛んで含めるように教えてくれる人を、私たちは失った。
失ってはじめて、自分がいかにぼんやりしていたかを知った。
そういう面目なさだった。

無限に続くと錯覚するほど膨大なその著作は、スタイルは様々だがそこに一切破綻がない。
いろんな雑誌がいろんな追悼号を出していて、その中には著作以外のことも書かれていたけれど、この人はやっぱりヘンな人で、エピソードのひとつひとつに「マジかぁ。」と唸ってしまう。
あんなに優しそうなのに、あんなにチャラそうなのに、どこを取ってもその振る舞いは一貫している。
「微笑する毒薬」って言われてたそうだけど、さもありなん。

「群鶏図押絵貼屏風」

 「 群鶏図押絵貼屏風」の「力強い雄鶏の尾羽」に
それまで沈黙していた若冲の自己主張を初めて見た橋本治は、まるで悼むようにこの章を終える。

伊藤若冲は、終始一貫「外の世界」とは関係のなかった人である。 「それだけでいい」ですませてきた人である。
ても、本当はそれだけじゃすまなかっただろう。
だからこそ、こういう自己主張もありうるのだなと、見事な「雄の尻尾」を見て思うのである。
 十八世紀日本の都市文化の見せる「自由」とは、こういう哀しいものでもあるのかと。

 橋本治は、伊藤若冲の「いろんな絵」を見て「この人は一体何を描きたかったんだろう?」と思うが、何も見えてこない、と言う。
「若冲がよく分からない」と。
 この人の出発点は常に「よく分からない」だ。
そしてこの人は、いつも「本当に何も分からない」私の地点まで下りてきて一緒に歩いてくれる。
この「ひらがな日本美術史」だってそうだ。
寄り道しながら、イケズ言いながら、爆笑しながら、たくさんの日本美術の部屋の前まで連れて行ってくれる。
「この先は自分で考えるんだよ。」と。

その橋本治が当惑している。
もしかしたらしてないのかも知れないけど、私にはそう感じる。
そして、「本当はそれだけじゃすまなかっただろう。」という言葉に胸が塞がる。
「納得しなければ動けなかった」橋本治と伊藤若冲。
頑固で自由な人たちだが、しんどいことの方が多かったはずだ。

この章での橋本治の「当惑」は何だったんだろう。 私はこの章を何度読んでも分からない。
今度ばかりは橋本治は、私を若冲の部屋の前まで連れて行ってくれない。
だから仕方ない。
「自分で考える」しかないのだ。

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