橋本治「窯変源氏物語」「ひらがな日本美術史」のこと 本を捨てた日
双極性障害の影響で一時期、字を読めなくなったことがあった。
一年ほど続いただろうか。
ある日図書館に行くと、本の背表紙が突然何か得体の知れないものの集団に見えて来て目が眩んだ。
文字を読めなくなっている事に気づいた最初だった。
その場に座り込んで絶望した。
そのうちに、スーパーに行っても商品の賞味期限がわからない、本も新聞も何が書いてあるのかわからない、マンガすら読めない、ということになって、今度は死にたくなった。
うっかりすると本当に死にそうなので何をしたかと言うと、蔵書をすべて処分した。
もう破れかぶれだった。
中にはずいぶん探し回って手に入れた本もたくさんあったけど、目を瞑って縛り上げて捨てた。
売り払うことも考えたがこれは私にとって、ある種の「お弔い」だった。
売り払った本を誰かが買い、また売られてという流通の中で漂わせることが、なぜか許せなかった。
文字が読めなくなったというのは、今思えば疲れきった自分の脳が文字の判別を極端に遅らせていて、図書館での動揺がそれに拍車をかけたという事なのだろう。
今は、時間はかかるがこうして文章も書けるようになったし、スーパーで途方に暮れることもなくなった。
ただ、文字を読むスピードは格段に落ちた。
映画の字幕には今もついて行けない。
以前の私は典型的な活字中毒者で、本を読むという事は私にとって逃避以外の何者でもなかった。
今ならわかる。
私はずいぶん意地汚い本の読み方をしてきたんだ。
他の人は本とどんな向き合い方をしているのだろう。
今まで考えたこともなかったけれど、私は一度でも「大切に」本を読むということをしたことがあっただろうか。
橋本治という作家が亡くなった。
人が死んで悲しいのは当然だけど、心の底から「さびしい」と思ったのは初めてだったんじゃないだろうか。
難読症から立ち直ったタイミングもあり、還暦迎えて、もうそんなに逃避の必要もなくなったりもして、この「さびしい」は、もう一度読書を始めるきっかけになった。
逃避の必要のない読書は、とても安らかだ。
一冊の本を時間をかけて「大切に」読む。
今まで一度もしたことのない贅沢に思えた。
と、いう訳で「窯変源氏物語」と「ひらがな日本美術史」を全巻揃えた。
我ながら「コラコラ。」と思ったけれど、この大人買いは私にとってそれこそ思う限りの贅沢だ。
若い頃から何度も図書館で借りては読んでいた、憧れのシリーズ。
ここにあるのは情報でも勉強でもない、豊穣だ。
絶版で手に入れられないでいる巻もまだ二冊あるが、これで多分死ぬまで読むものには困らないだろう。
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