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これまでの振り返りとこれから


1.前書き

先日、VCH(バーチャルコーヒーハウス)という会の中で、自分の大学入学時から今までを振り返り、発表する場があったので、これを機に今までの自分を改めて振り返って、文章にしました。

このnoteでは大学入学ごろまでの興味、大学入学してから夏休みまでにあった出来事、夏休みに中頓別町というまちに滞在して気づいたこと、そしてこれからのことについて、備忘録と整理の意味を込めて書こうと思います。


長く、まとまりのない文章ではありますが、最後まで読んでいただけると嬉しいです。


2.大学入学時までの興味

大学入学時までのわたしの興味は大きく2つに分かれていました。

 1つ目は、世の中が当たり前だと思って作っている制度や法から守られていない故に、経済的にも精神的にもなんらかの生きづらさを感じる人にとっての居場所作りです。これらに当てはまる人は、相対的貧困にある人、LGBTQ+などのマイノリティの人、障がいがある人、など名称を挙げればきりがないかもしれません。

 このことに関心をもった大きな理由は、自分自身が生きづらさを感じる時があったということです。本文の主旨とそれるので長くは記述しませんが、わたしは生まれつき左目の眼球が小さく視力がないという疾患があり、見た目のために義眼を装着しています。片目の視力がないことに日常生活に不便はありませんが、義眼のせいで視線のずれなど小さい頃から何となく他人と見た目が違うことにコンプレックスを持っていました。ただ、自分の疾患の状態が一般的なものより軽く、義眼も成長すればするほど顔になじむものになったので、実際には自分が思い悩むほどそこまで見た目で顕著に分かるようなものではなかったと振り返ると思います。それでも、幼少期に悪意はなくとも周りの友達に言われることもあったので、これらの体験から、自分の顔は普通ではないという意識からくる生きづらさはどこかにありました。

 小さいことかもしれませんが、このような一種の生きづらさを持っていたわたしは、あらゆる場面で生きづらさを抱えるマイノリティの人の居場所に関心をもち、自分で調べたりこども食堂のボランティアに行ったりしていました。

 しかし、中高での友人や先生との出会いもあり、自分もそれほど目のことを気にしなくなったことから、幼い頃から抱えていた考えに変化が生まれました。それは自分が果たして当事者なのだろうかということです。もちろん、「生きづらさ」に定義はありませんが、今まで自分自身のことは、目の疾患からマイノリティ当事者だと自覚していました。しかし、わたしの疾患の症状は比較的軽いほうであり、もう見た目にもそこまで現れていないことから自分は当事者ではないのではないかと感じるようになりました。わたしが過去に感じていた、目の疾患からくる生きづらさを否定することはできません。ただ、このときから自分の中で、自分は当事者を名乗っていいのか?当事者とは誰なのか?という問いを持つようになったように思います。


1つ目が長くなってしまいましたが、2つめの関心は地域作りです。

 わたしはいわゆる都会で生まれ育ちましたが、家族旅行ではいわゆる田舎の民宿にとまることが多く、また家においてあった雑誌「ソトコト」を小さい頃から読んでいたこともあり、漠然と地方のまちに関心が向いていました。ただしこのときには具体的な地域をイメージしていた訳ではなかったように記憶しています。イメージしていた地域作りも都市と対比された地方の中での話であり、観光の方に寄っていました。また、当事者や居場所といったキーワードと結びつけることなく単体で考えていたように思います。



3.大学入学から夏休み前までの出来事

 大学に入学してからもいくつかの大きな出来事を通して自分の中に変化が生まれました。いくつかあるので、項目に分けて書きたいと思います。

■葛尾村を訪れたこと

 大学1年生のGWにお誘いを受けて、高校生のときから緩いつながりのあった福島県の葛尾村に初めて行くことができました。ただ、葛尾村に滞在したのは1日だけで、地域の中で過ごしたわけではありませんでした。自分にとって大きかったのは「松本家展」(https://katsurao-diary.com/project/exhibition)と称される、もう住まれなくなった一つの家の過去や現在を考える展示に関わる大学生たちと話したことや、実際にその家を訪れたことにあります。(ここでの経験を詳しく書くと、非常に文章が長くなるのでまたの機会に整理して書けたらいいなと思います。)


 松本家展に関わる人と話したことで、わたしのまちづくりへの興味にまた別の視点が加わりました。以前から当事者という言葉に自分でも拘っていましたが、それが原発事故で全村避難を経験した葛尾村に行き、これから関わる可能性を考えたことでまちづくりと結びついたように思います。同時に、被災地である村の「復興」というこれまでよく考えてこなかった事柄について、復興とはまちがどうなることなのか、被災地の町作りの当事者は誰か、自分はどのような立場で村に関わるのか、といった事柄に引っかかり、悩むようになりました。


■コミュニティカフェEMANONを訪れたこと

 GWに葛尾村に行った際に、福島県白河市にあるコミュニティカフェEMANON(https://emanon.fukushima.jp/)にも連れて行ってもらいました。

 このカフェは、「高校生びいきの古民家カフェ」というコンセプトで、高校生は利用だけなら無料であり、大人もカフェで食事やお茶を楽しむことができます。さらにはイベントも好きに開催できるという場所でした。ここは大きく分けて2つの点において印象的でした。

 1つ目は居場所のあり方です。居場所やサードプレイスといった時に「何もしなくても良い」といったような強制されない場が挙げられると勝手に思い込んでいたのですが、同時にそこには「何もしなくても良い」を強制される部分もあるのではないかと思っていました。(ここら辺はまだ勉強中です…)しかし、高校生に対して何にでも挑戦できる場でありながらも、お茶をしたり食事をしたりする、といったある程度過ごし方が決まっている場には、「何もしなくて良い」に働く強制さの逃げ道があるように思いました。高校生の利用料を無料としたことで、若者と大人の居場所が共存していることも、このことの一助になっているように思います。

 2つ目は、EMANONが地域に開かれた居場所づくりを行っている点です。1つめとも少し重なりますが、EMANONには地域の大人や白河市に訪れた人もやってきます。高校生がやりたい企画を実現するときに、地域の大人とつなげたり、地域の大人が何か困りごとがあったとき、EMANONを通じて高校生のボランティアを集めたり、といったように地域に開かれていました。EMANONの高校生や大人は、その地域に生きている、まちづくりをしているといった印象を持ちました。今まで見たりイメージしたりしていた居場所づくりは、同時にまちづくりになっているようなものがなかったように思えて、とても衝撃を受けたのを覚えています。


■居場所作りやまちづくりを学問として考え始めたこと

 5月頃に地域社会学の入門書の自主ゼミに参加したことと、GWに葛尾村やコミュニティカフェEMANONを訪れたことをきっかけに、これらについての学問的な本を読んだり、大学の授業でも意識したりするようになりました。漠然とした興味を学問の中で考えようとし始めたことは自分にとっては大きかったと思います。

4.夏休み

 夏休みに、自分に影響を与えたのは2週間、北海道の道北にある中頓別町に滞在していたことです。中頓別町は人口約1600人、人口の約40%が高齢者、といわゆる過疎地域です。

 町に滞在することになったきっかけは、大学で受けている授業の中の一つに、自分が2年以降入りたいの研究室の教授が担当しているものがあり、そこの研究室に行ってみたことでした。そこから、その教授の卒業生を紹介してもらい、さらに2週間ほど泊まる家を用意してもらえることになりました。紹介していただいた卒業生は、地域おこし協力隊の仕事の傍らで一度存続が危なくなった町唯一の銭湯である「黄金湯」の運営をしている方の一人でした。その卒業生の方の卒論が、町の銭湯の緩やかなコミュニティについてだったため、その銭湯に興味を持ちました。そこで、今回の滞在では、借りた家に住まわせてもらいながら、黄金湯の掃除や薪の準備、番台の手伝いを主にし、空いた時間で他の地域おこし協力隊のお話を聞いたり、町のおばあちゃんやおじいちゃんの家に遊びに行ったりして過ごしました。

銭湯の掃除
番台


この銭湯では薪で火を起こしています

この滞在で考えたこともたくさんあるのでいくつか項目に分けて書きたいと思います。


■滞在の意味について

 町に行く前に、わたしはあくまでも銭湯の「お手伝い」に行く、という認識を貫こうと思っていました。滞在する前、わたしは、今の自分には、地方インターンのように「その地域で何かをする人」や(地方インターンがその地域の支援者であるかどうかの議論は置いておいて)「支援者」という形でその地域に入ることを、今の時点では避けたいと思っていました。インターンを否定する訳では決してありませんが、インターンに対して外からの「支援者」という印象をもっていたので、現時点の自分は支援者ではない形でその地域に入りたいと思ったからです。そのため、1人で、何らかのプログラムを介さずに町に行くことに決めました。

 中頓別町の滞在が終わった今、この線引きに意味があったかどうかは正直よく分かりません。黄金湯のお手伝いは、決められた日や時間に同じ事をするといった意味では「仕事」でした。しかし、個別具体的な「黄金湯のお手伝い」をしていたわたしというのは、自分自身から見ても、(推測ですが)銭湯のお客さんにとっても、一方的な「支援者」ではなかったように思います。それは、お客さんに、町のことや、「●●さんは耳が遠いから大きな声で話した方が良い」「●●くん(子ども)はいつも18時ごろ来てお菓子をもらえるのを楽しみにしている」といった別のお客さんのことを教えてもらう中で感じました。個別具体的な人と関わる中で「仕事」をしていたわたしは、お客さんつまり町の人にも「遠い町から来た支援者」ではなく「□□から来た○○さん」といった個別具体的な人間として思われていたのではないかと思います。

 実際にどうかは分かりませんが、支援者になりたくないわたしにとって、この気づきは嬉しいものでした。ただ、今回の場合は、銭湯のお手伝いという「仕事」をわたしがすることを特別に必要とされていたわけではなかったから、支援者ではないう具体的なわたしが成立したのかもしれません。実際に、地域の活性化や移住促進などにつながる事業ならば、支援者という枠組みに入らなくてはいけないのかということは、また別に考えなければいけないと思っています。

 

■当事者について

 これも先述したように、わたしはかなり前から当事者とは誰か?ということに対して悩んでいました。そして、先述した葛尾村に関わり始めたことをきっかけに、以前よりも「問題は、その当事者しか本質的に理解することはできないのではないか」という疑問が強くなっていました。そして、まちづくりの当事者に関して、外からその地域に入ってきた人が含まれるのかどうかにとても拘っていたように思います。

 しかし、この考えはこの滞在でかなり変わりました。きっかけの一つに、銭湯で番台の仕事中にしたお客さんとの会話があります。黄金湯にきた人々は、大抵お風呂上がりにおしゃべりしたり、軽く挨拶し合ったりします。その時に必ずといっていいほど聞かれたのが「○○に住んでいる■■さん」や「●●やってる△△さん」という言葉です。それらがこの場の共通言語であり、この共通言語をもとにした世間話で黄金湯の何気ないコミュニケーションは成り立っているように見えました。これらのコミュニケーションをとる人々の中には、この町で生まれ育った人もいれば、十数年前に移住した人、嫁いできた人、2年前に地域おこし協力隊としてこの町に来た人などがいました。年数の違いはあるにしろ、外から入ってきた人も多くいたにもかかわらず、わたしは黄金湯でみられたコミュニケーションをとる人々に「この町で生きている」「この町を作っている」といった印象を強く受けました。

また、様々な人から聞いた話の中に、役場の人は地元住民との間に線を引いていて、その地域で生きていないような印象をうけるといった話があったこともきっかけの一つです。もちろんこの発言は全てを表しているわけではないし、まちづくりをする中ではよく聞く話のようにも思います。わたしはまだ長期的に滞在して行政の方と関わる経験はなかったのでこのことに関しては自分の見方はできません。

しかし、この2つのきっかけを通して、わたしの中では「外から入ってきたかどうかは、まちづくりの当事者という問題において、そこまで重要ではないのではないか?」といった新たな考えが生まれました。それと同時に今まで前提として考え続けてきた当事者そのものを問うことの意味にも疑問をもちはじめました。

■地方行政への関心

 これは一つ前の、当事者とは誰か?という問いとも結びついています。少し前の自分は、まちづくりの中で何となく役場などの行政について考えることを避けていたように思います。

 しかし、今回の滞在中に、役場のような地方行政で働く人が、仕事以前にその地域に生きる人間には感じられない、といった印象を聞くこともありました。また、地方の1施設や1事業を運営するための資金には税金からくる補助金を使用する際の葛藤などの話を聞いたこともありました。ここから、地方行政に関わる人間や、地方行政がまちづくりにおいて果たすべき役割について、考えなければいけないと思うようになりました。

■「研究」することについて

 まだ学部1年生なのでこんなことを言うのもおこがましいですが、今回の滞在は、先述したようなまちづくりの当事者について、葛尾村とは別の地域で考えるという意味で、個人的なフィールドワーク、つまり「研究」しているつもりでした。わたしは夏の時点で、2年以降に大学で研究室に入るのも地域社会学関連のところに決めていたのでこれから3年間半、ほかの分野と絡めるにしても少なからずまちづくりについて考えていくんだろう、と漠然と考えていました。

 ただ、地域社会学というフィールドワークが欠かせない学問をする上で一つ不安に思っていたことがありました。それは、自分がどこに誰と住み、どうやって生きていくかといった私的領域と、個人の探求心や学問に関する研究領域が重なってしまうことです。なぜ、このことに不安を持っていたかは自分でも明確には分かりません。が、自分で生き方を考えなければいけないことや、個人としてその場に入りすぎると研究ができなくなることへの不安があるのかもしれないと現時点では自覚しています。

今回滞在した中頓別町や、これからも行くであろう葛尾村はすでに自分の私的領域と研究領域が重なった部分にあると思います。このことに関してはまだ漠然とした不安がありますが、実際に滞在してみて「わたし」として過ごしたことで、私的領域が重なったところで研究をする覚悟が少しできた気がしています。

■「研究」する中で感じた難しさ

 滞在する中で感じた難しさは、現時点では言葉を用いたコミュニケーションには限界もあるということです。

 これからフィールドワークでもそうではない場合でも、その人が本当はどう考えているか、を知りたい場面はたくさんあると思います。中頓別町の滞在中に、わたしはこのまちの行政に対して、地域おこし協力隊や住民の人はどのように考えているかを知りたいと思っていました。しかし、実際に1対1で話してみても、考えの100%はおろか10%を聞くのも難しいことを思い知らされました。言葉に現れるコミュニケーションが全てではないし、言葉以外を感じ取ってもまだ十分ではない。実際にその地域に生きないと分からないことがあるけれど、実際にその地域に生きたところで、一人一人の思いを完全に聞き取ることはできないと実感しました。このどうしようもなさへの対処の答えは見つかっていませんが、当事者問題は、フィールドワークで聞き取りをするうえで、ずっと考えていかなければならいないのだと思います。

 ■居場所に「なっていく」場所について

 今回滞在した2週間のなかで、営業している8日間は番台としてお客さんの様子をみたり、わたし自身もお客さんと話したりしていました。

たったの8日間ではありましたが、銭湯のロビーという場に身を置いてみて、いくつか発見がありました。

 まず1つ目は、銭湯の番台をする中で、誰かを想った、誰かに想われた瞬間があったことです。毎日決まった時間に銭湯に来ていたお客さんが来ない日は、ロビーにいるお客さんたちの間でも「今日は●●さん来ないね」など話題にのぼるし、わたしも心配になりました。またあるときはどこか遠出をしたお客さんが、わたしや他のお客さんにお土産をもってきてくれたり、わたしが受付の作業や薪の火付けをする様子をみて「前より早くなったじゃん」と言ってくれたりしました。短い期間や限られた場所の中ではありますが、わたし自身も黄金湯のロビーを居場所だと感じ、さらに居心地の良さを作っていく一人になったのではないかと感じました。

 2つ目は、なじみ客同士のコミュニティがある一方で、黄金湯のロビーには1度きりの関係も、同時に生まれていたことです。黄金湯は町唯一の銭湯であるため、中頓別町でとれる砂金を掘りに来た人や、用事があって滞在した人なども訪れます。ロビーではそのような人との会話もありますが、大抵1度か2度お風呂に来てくれて会話を交わして銭湯を後にするとき、「では、またどこかで」といって別れます。この2つが並存しているコミュニティは、その場にいる様々なありかたを許している場のようで、わたしにとってはとても新鮮でした。ただ、その一方で黄金湯のロビーのようなコミュニティ内の排除はなくても、黄金湯のコミュニティに入れない住民のように外側で排除が起こっている可能性もゼロではない、と思います。

前々からサードプレイスや中高生の居場所づくりに関心はありましたが、今回の中頓別町滞在で黄金湯を見て、空間的な場所と人とが「作る・作られる」の相互の関係の上で、誰かの居場所に「なっていく」場所、さらに多様なあり方をゆるしている場への関心が改めて強くなりました。これから先、これを学問的に解釈するようになれるかは分かりませんし、このような「なっていく」居場所を果たして作ることはできるのかは今後考えなければいけないと思っています。当面は色々な居場所を長期的に見ていきたいです。

■「農業すること」への興味

 また中頓別町の滞在で新たに興味の幅が広がった(正確には、ずれた)ようにも思います。以前まで、わたしは農業という分野に興味を持っている、と自覚していました。高校生の時には理系を選択していたら農学部志望だった、くらいの程度です。ただ、その関心は直接的な体験と結びついたものではなく、地方の地域づくりを考えるには農業は外せないだろう、と考えていたからです。大学に入ってから農学に関する授業をいくつかとったものの、あまり面白いとは思えませんでした。

 今回の中頓別町滞在では、少しではありますが農作業をしたり、まちのおじいちゃんやおばあちゃんの畑から野菜をお裾分けしてもらったりという機会がありました。この2週間の間にお店で野菜を買う、ということをほとんどしていないくらいです。収穫仕立ての野菜が自分の思った以上に新鮮で美味しかったことや、実際に畑の野菜や果物に触れるといった体験が予想以上に奥が深くて面白かったというのが2週間経っての感想です。

 ここから、自分は「どうすればこのような作物をよりに作れるか」といった農業の技術や、学問としての農業に興味があるわけではないのかもしれないと思いました。あくまでも身近で育てられた野菜を食べたり、自分で育てたりするといった「農業すること」が好きなのではないかということです。今回は体験にだけだったのでいつかちゃんと野菜を育ててみたいと思っています。

5.これから

 長々と書いてきましたが、今まで自分が考えていたものは大体表せたのかな、と思います。

 これから可能な限り、居場所作りの場や地域に、多く訪ねてみたり、長期的に滞在してみたりしてみたいです。

 大変読みづらい文章だったと思いますが、ここまで読んでくださった方がいたら、本当に嬉しいです。読んでくれてありがとうございました。

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