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『 普通ということ 』 . 「 自ずから然り 」





「 書から思うこと 」






こちらは、上から友人、家内、甥っ子のもので、みんな身内のもので恐縮ですが、美しいものだと思います。私はこの様なものを愛するのです。何も狙っていない、素直なところに好感がもてます。
このようなものを見ると、現代の書などは、何をそんなにあがいているのだろうと思うのです。何も狙わないところから自然に持っているものが出てくると考えれば全てはそれで済むはずですが. . . .

美術という世界が生まれて以降、ものを創ろうとする人は実用工藝を離れ、「美の為の美」を創造しようとする美術家を目指し、競って独創的なもの、斬新なものの創作に没頭していくことになり、それが現在に至るまで連綿と続いて来ているようです。
美術を目指す人は、個性的でなければならない、独創的でありたい、そうであろうとする風潮が広がって行ったようです。然し、個性的な人は最初から個性的なのであって、成ろうとして成れるものではないはずなのに、全ての者が個性的な者に成ろうとする、独創的な者に成ろうとするような偏った意識が、そうで在りたい、そうで在ろうとする作為を生み、不自然な造形が生まれているように思えてなりません。これは人間誰しもが持っている、承認欲求の故なのでしょうか?そのためか、逆に「普通」と言われることを恐れているようにさえ感じる事があります。「普通」であるという事が、何かつまらないものであるとか、凡庸であり、取るに足りないものという事につながるものと考えられてしまうものの様です。
この辺りが中々難しい、厄介で、面倒な問題なのでしょう。
然し、持っているものは自然に出て来るものだという所に腰を落ち着ければ、この様なジレンマからは解放されると思うのですが、そんな簡単にはいかないものでしょうか?今だにその辺りの事になると私には良く分からないでいるのです。


「 新しさ」と「珍しさ」


美術の世界に限らず、「 新しさ」と「珍しさ」、これがどの世界でも人が注目する代表的なものでしょう。新鮮なるが故に人々の感覚が刺激されるのは当然の事です。然しこれが本質的な所まで届かずに表面的なものに留まるならば、その刺激に慣れてくるに従って飽きが生じてくるのもまた当然の成り行きでしょう。そして、さらに次の新鮮な刺激を求め始める事になるのもまた自然な流れです。そして次々に新しいものを求めて行くーと言う価値観が主流になってしまっている様です。
その為でしょうか、「同じことばかりしていてもしょうがない、常に新しいものにチャレンジして行かなければいけない。」と言う意見をよく聞きます。これも常に新しいものを創り出して行かなければならないーと言う偏った価値観からの事でしょう。然し、どうもその当人の本質的な要求は何なのかと言う大前提の問題が抜け落ちているような気がするのです。たとえそれで世間の時流に乗れたとしても、当人の要求にそぐわないものならば、当人が満足を得ることは決して無いでしょう。
この点について、洋画家の坂本繁二郎氏は『畫の質』と言う文章の中で明確に意見を述べてくれています。

 質は内にあって其のある度合ひに随って大きく小さく燃えて居る筈である、常に外に向かって發火し様としている筈である。只希望丈けに畫が描き度い向上仕度いとは誰れでも云い得る、しかし自分の腹の底の質の希望についてよく聞いてみると、口先丈けの希望よりもずっと真面目な希望の聲が聞かるる筈である。(中略)常に耳を傾けて居ねばならぬのは此の本質の叫べる希望であり、發動力でなければならぬ。(中略)世の中が複雑になるに随って色々な方面からの間違った欲望が頭を持上げる、いつの間にか此の問題がお留守にされる、すべて風潮に乗せられたりもみくちゃにされたりするのは此の本質の叫びの曇りから起る(後略)

坂本繁二郎.(1970).『坂本繁二郎文集』.「畫の質」.pp103.中央公論社.

然し、どうも現在では次々に新しさを追う、流動的な価値観の方に流されているような気がしてなりません。ですが、新しいもの珍しいもの新鮮なもの、これを外側の形に求めなければいけないのでしょうか?自分の内側にありはしないでしょうか?それをもう少し突っ込んで考えてもいいのではないかと思うのです。

一般的に「普通のもの」は「当たり前のもの」であり、つまりは「つまらないもの」、「凡庸なもの」というように連想されてしまう様です。
ですから「普通のもの」と「新しいもの」、「珍しいもの」は相反するものと考えられてしまうもののようです。然し本当のところはどうなのでしょうか?
「普通のもの」、これを「自然の世界」と考えると別な世界が広がってくるのではないでしょうか。美しい自然はいつでも私達の身の回りにあるもので、誰でも自然の美しさを知っている、誰でも理解できる世界です。自然を前にして、これは本当に美しいものかどうか?などと悩む人は誰もいないでしょう。それ程 普通で、美しく、当たり前の世界です。そして「自然の世界」と「新しさ」、「珍しさ」は相反する世界ではなく、共存するものと思えるのです。

日本では昔から伝わっている世阿弥の述べた『 花 』、これには色々な解釈があるようですが、これは難しく考えずとも、花を見て、その美しさにハッとする驚きにも似た新鮮な感動、これを連想してもらえば、誰にでも分かってもらえる事ではないでしょうか。
「うぐいすの常に初音の心地する」という歌があります。これも毎年、春になればいつも聞いているのに、まるでいつも、初めて聞いたかのような新鮮な感動があるという事です。

「 花 と 面白き と 珍しき これ三つは同じ心なり 」 世阿弥『風姿花伝』

この言葉に、この辺りの全ての問題の答えが明示されているように思います。

「 花 」を代表とする自然の世界、自然=自然(じねん)、自ずから然りの世界、ここ  こそ毎日見ていても決して見飽きる事のない、永遠に新鮮な「本当の新しさ」が出てくる源であるという事、この自然(じねん)の世界、それこそ ものを創り出そうとする人の汲み出さねばならない源泉の場であるという事の明示ではないかと思うのです。


「 自然 不自然 」




こちらは日本の民衆の間で広く好まれていた泥絵と言われるものです。使われている顔料が安物だった為こう呼ばれていた様です。鎌倉の江ノ島が描かれています。この様なものを私は美しいと思うのです。もちろん人により色々な価値観がある事は承知の上ですが、私はこの様な普通で当たり前のものですが、自然で明るく、何のてらいもない、平明なものに好感を持ちます。
美などと言うと、どうも私達は何か深遠で難しいもののように考えてしまう様です。美という言葉は遠くギリシャ時代から使われ続けて、その結果様々な概念が錯綜してしまい、もはや定義し難いものになってしまっていますが、概念を離れ、直観に立ち戻り、「自ずから然り」のもの、と断じてしまえば分かってもらいやすいと思うのです。

日本では昔から、ものの良否の判断として「自然だ」「不自然だ」と言う事をよく言います。これは長い間の経験として、自然の世界、自然を範として生まれてきたものは善であり、真であり、美であるという日本人が絶対的に信頼している価値観が根底にあり、日本人の良いか、悪いかの価値基準にさえなっているのでしょう。実際、この言葉を聞いただけで日本人なら誰でもその是非の判断を理解し、納得できるほど言葉や理屈だけでなく、感覚や実感としてわかる、理解できるほど深く浸透している価値観です。「決める」のではなく、自然と、おのずと「決まる」という所、自分がーというよりも、自分の中の自然法爾に落ち着く、納まる所ではないでしょうか?
例えば禅僧の書などは、最も好きな書のひとつですが、禅の書などと言うと、何か高遠なもの、超俗のものと思ってしまうものですが、(もちろんそうである事には違いないのですが)よくよく観ると、全く自然なものだと言っていいのです。
自然なものとは、作り物では無い、作為の無い、本人の深い所から出てきた、自由であり、必然のものという意味です。「自ずから然り」のものです。造ったものと言うより生まれたもの、という意味合いが強いものです。
棟方志功の書なども同様で、一般的には個性的、独創的で、傍若無人な造形というイメージが強く、勿論その通りなのですが、実物をよく観るとそうでありながらも、大変自然なものなのです。そして画集と違い実物は想像以上に静かなものです。この辺りが棟方志功の本当の価値だと思っています。
何でもそうだと思うのですが、見かけのものに捕らわれると、その奥の実質が見過ごされてしまうものです。

日本では昔から「名工跡をとどめず」という事を言います。これは本当の名人の造るものは、何の作為も苦心の跡も見えず、自然に出来上がったもののように見えるーという意味です。この境地にして初めて日本人は本物であると認めるのです。
クラシックの世界でも、名演奏家の演奏などを聴くと、全く自然で、まるで演奏している人がいないかのように、自然に音楽が流れてくる様にさえ感じるものです。
然し、クラシックの世界は、ロマン主義的な演奏の時代を経て、一時期から楽譜に忠実になるべきだーという流れに変わって来た様ですが、長い間いろいろな演奏を聴いて来ると、不思議なもので一聴して「癖が強いな」と思っていたものが、実は素直で自然なものだという事に気づいたり、逆に「素直で聴きやすいな」と思っていたものが、実は作為された素直さである事が分かって来たりと、この「自然さ」と言うものも突っ込んでいくと、中々そう簡単なものではないと言う事がわかってきます。そして、やはりどうしても最後は「自然(じねん)=自ずから然り」、「自ずと生じてくるもの」の所に行き着くのではないでしょうか。

このような「 自然の性 」に近いものを日本人は尊びます。そしてそのようなものにして初めて、絶対的な究竟のものだと認めるのです。ここに日本人は真というもの、美というもの の最終的なものを観るのです。私は「 普通ということ 」の背後にこの「自然の世界」「自ずから然り」、「自ずと生じてくるもの」の世界、さらには禅で言う「天地未分」から自ずと出て来る「人間の奥底にある背後の働き」、民藝同人達が見ていた「背後の製作者」を見たいのです。

(これらの事については、以前書いた「記事」の『河井寛次郎』『禅』.2『自然=自然(じねん)』を読んで頂けたら嬉しいです。)


『 自然(じねん)の働き』


「自然(じねん)=自ずから然り」の所、「人間の奥底にある背後の働き」
こんな言葉だけ聴くと何やら大袈裟で難しいもののように聞こえますが、実は誰の中にでも在る普通のものに過ぎないとさえ思っています。
ニュースなどで、大変困っている人を助けた人にその方が感謝の言葉を述べると
「いえ、当たり前の事をしただけですからー」という言葉が返ってくるものです。
この「当たり前の事」という言葉の底にあるものこそ、本人も気づいていない、意識していないで行為している所の、特別なものではない『 自ずから然り』から出て来る 働き 、前に述べた陶工 河井寛次郎の言う、「人間という三角形の底辺の世界 」を垣間見るのです。

畫の真髄などと云う様なものは、或る特種の人にのみ出来ると云うわけではなく誰れにでも出来得る。只其質が自覚されるかされないかであり、其質を如何に育て如何に取扱ふかが其人の進行に大きな關係が起る。(中略)
或種の人の云う様に、繪の眞などと云うものが何か特種の深い、高い、遠いところに横はってでも居る様には思えない、眞と云う様な感じの境地 只 其事 丈けならば極めて平凡な何處にでもあるものとしか思へない。

 坂本繁二郎.(1970).『坂本繁二郎文集』.「畫の質」.pp104-5.中央公論社.


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