向田邦子とムクザニ

 模試というのがあった。模擬試験のことである。本番の試験を想定した問題を解くことで、予行演習も兼ねて学力を測定しようという目的で実施されるものだ。中高生の時分に学校や塾で受けさせられた。
私は現代文の模試がそれなりに好きであった。他の科目は制限時間内にどれだけ正しいコマンドを押せるかどうかという、点取りゲームのように思えてならなかったが、現代文だけは特別で、普段自分から手に取って読むことのない多種多様な分野の文章を読むことのできる、少し楽しい時間だった。思いがけず新しいときめきを与えてくれる文章に出会えることがあるからだ。なんだかこの文章は、単なる問題文に留まらないキラリと光るものがある…。そう思わせてくれる文章に出会えたときは幸いである。そして、そういうとき著者を確認してみると、それは大抵、向田邦子先生なのであった。

 向田邦子先生の文章の何がそんなに素晴らしいのか。私の感覚で言えば、「向田邦子の文章を読んでいると精神が安定する」「食べ物の描写がすごくおいしそう」「鹿児島エピソードが美しい」と言ってしまうのが最も手っ取り早いのだが、これだけでは芸がない。手元にあるちくま文庫「向田邦子ベスト・エッセイ」の帯には「お人好しと意地悪、頑固と機転…」「ごく平凡に見える日常が鮮やかな色彩を帯びて動き出す」とある。さすが天下のちくま文庫の帯だけあって、短い文章の中に先生の魅力が折詰のごとくきれいに詰め込まれている。私の冗長な文章とは大違いである。

 向田先生は、鋭い観察眼をお持ちである一方、何かをあまり悪し様に批判しているという印象がない。小川糸先生の言葉を借りれば、「懐が深い」のである。向田先生ほど人間に目の利く方ならば、人の嫌な部分をこれでもかというくらい浮き彫りにすることもできるはずだが、先生はそうはなさらない。人の歪みやどうしようもなさまで含めて認めてくれるような、あたたかな眼差しをお持ちなのだ。そういう安心感が、向田邦子を読んでいると精神が安定する、というところに繋がるのだろう。もっと言えば私は向田作品を読んでいるとき、夏目友人帳や大室家を視聴している時と近い気持ちになれる。先生の作品は「読む日常系」なのかもしれない。

 ところで、である。私にはジョージアワインを好んで飲む習慣がある。京都の祇園にあるロシア料理を出すレストランでキンズマラウリという名のジョージアワインを飲んで以来、すっかり虜になってしまったのだ。それからは通販で買いつけて、自作のつまみと合わせて楽しむようになった。
このジョージアワインの醸造に使われる葡萄の品種のひとつにムクザニというのがある。ムクザニで作ったワインは、タンニンの風味が力強く感じられる赤ワインに仕上がるという。

 さて、ムクザニが向田邦子とどう繋がるのか。

 私が身を置いているTwitterコミュニティでは、安部公房をアベコウ、宮沢賢治をミヤケンといった具合に略す傾向がある。このパターンに当てはめると向田邦子はムコクニである。

 ムコクニとムクザニ…。

 文字数と、頭文字と、語尾の見事な一致。ここにおいて極東の女流作家と、東欧のワインが見事に出会うのだ。

 もっとも、ムコクニの味わいは、力強いムクザニというよりも、半甘口のフヴァンチカラか、あるいは赤と白の長所を兼ね備えたアンバーワインに近い気がするけれど。
ともかく、渋みのあるムクザニの赤ワインに、今度はさつま揚げを合わせて飲んでみようと思う。先生の鹿児島エピソードの中でも、さつま揚げの描写のおいしそうなことといったら。そういえば去年、鹿児島の城山ホテルで食べたさつま揚げは、確かにほっぺたが落ちそうなほど美味しかった。無知な関東人の悪い癖で、「所詮はお惣菜でしょう」と高を括った、その予測値を軽く飛び越えてくる美味しさだったのである。どうせ食べるなら、当地のものがよいだろう。そうと決めたら、JAタウンで鹿児島のさつま揚げを探そうか。

 末尾に私のおすすめのムコクニの味わい方をひとつ。

 冬、故郷へと向かう列車の中で、駅弁をつまみながら向田邦子先生の著作を読むと、より味わいが深まるように思う。故郷でなくても、雪国の温泉地に向かう途上でもよい。可能であれば、デザートと珈琲の用意もあった方がいいかもしれない。そうして読むムコクニは、まるでホットワインのように身体を暖めてくれる。
しんしんと雪の降りしきる冬のタイムライン上で、ムコクニとムクザニが融けあっていく。

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