我に返った話

4月6日

行きつけの銭湯の足湯コーナーに行った。

銭湯の足湯は人気がない。
そりゃそうだろう。
浴槽や露天風呂に入れば、足湯は必要ない。

だから、その行きつけの足湯コーナーが好きだ。

なぜなら、
人が来ない、
ボーっと小さなやわらかい照明がある、
打たせ湯の流れる音が聞こえるからだ。

1人になれることに加えて環境が整っている。

最高だ。

足湯コーナーではあるが、私は足をお湯につけない。
筋肉量が少ない方なので、座ると下に降りた血液が上に上がりずらく、貧血になりそうな気がするからだ。

いつものように体育座りをして、頭や背中に流れる熱いお湯を楽しんでいた。

と、そこで最近ハマっているQueenの曲が頭を流れはじめた。
天まで届かんばかりの力強くアツイ曲だ。

私は、拳を上げ、成層圏を突き抜け、高く高く上がっていくイメージをした。

もちろん、現実に拳は上げていない。
いつ他のお客さんがくるか分からないからだ。

あくまでイメージしたのだ。

自分が光になり、天まで届き、まるで光の柱になったような感覚。

QueenのSeven Seas of Rhyeは、テンポがよい。
その曲を聞いていると、拳を上げて天まで突き抜けたい気分になるのだ。
それを足湯コーナーで実行してみたわけだ。


成層圏を突き抜けて天まで届いた気がした。
高く高く上がった先の最終地点に到達した気がした。
気持ち良かった。

上がりながら、これまでの経験に対し感謝する自分がいた。
「みんなありがとうー!」
「大好きだよー!」
胸がキュンとなった感覚があった。


すると、突然音が消え無音になり静かになった。テレビのスイッチが突然切れたような感じ。
そして、私は人間の姿形でなく、意識だけの存在になり、その意識は、全てとつながって一つである感覚だった。


と同時に、ハッと「我に返った」。

その時、驚くことが起こっていた。

今、足湯している自分にハッと我に返ったのではなく、
ハッと我に返った先が、無音で静かで人間の姿形でなく意識だけの存在の方だったのだ。

我に返った先が本当の自分であることや、本当の居場所であること、そして今、足湯している自分は幻想なのだと瞬間的に分かった。

意識だけの存在で全てが一つである感覚とは、空(そら)のような感じだ。
個々で存在しているのでなく、全てが一つである感覚だ。
自分も他人もない。
全ては一つだ。

やはり、今いる(3次元)世界にはgameするために遊びにきていたのだ。

そのことが感覚的に分かった。

足湯コーナーのたった数分間で、「我に返る」の本当の意味も知った。

我に返るの「我」とは、創造主(=空・源・ソース)だったのだ。

本当の自分は、空(くう)だった。
空は、全てが一つ。

私にとっては、空(そら)も空(くう)も同じに思えた。

私たち一人ひとりがそれぞれ創造主であり、それぞれ自分のgameを作っている。
一人ひとりがgameの創造主であり、主人公なのだ。そしてプレイヤーも自分。
そのことが分かった気がした。

私が体験した「意識体」が、空(くう)なのか、創造主なのか、ソースなのか、ハイヤーセルフなのかはそれほど興味はない。
私が体験したことは、ワンネスといわれるものなのかもしれない。
そこについても、それほど気にしない。


この肉体をもったまま、肌感覚をもって、我に返る体験をした。
そして肉体のある3次元に戻ることができた。
間違いなく今生きている3次元は幻想であることに確信をもてた。
そのことに気づけたことが嬉しい。

そして、私はたまたまそういう体験を偶然にできただけであり、一人ひとり全員がひとつの意識体(=創造主)であることは間違いない。
たまたまそういう体験ができただけであり、何ら優劣はない。


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