愛着障碍

「恋人として好きになれない,誰かを愛することなんてできない」
これが別れたときの彼の言い草だったように覚えている.

如何にも納得ができないような気がしつつも,今まで誰よりも愛してきた彼の行動原理と人生の背景を想うと理性的に納得を許してしまう自分がいた.

正直なところ,どちらかが「お付き合いしてください」と杓子定規に則った告白をしたわけでもなく,何と無く好意を寄せていたのは確かだから,「別れた」と云う表現も可笑しいのかもしれないが,兎も角利便上できるだけ平易で直感的な判読性を重視するのであれば「別れた」と表記するのがよいだろう.

私の思い違いでなければ,先に私のことを「好き」と明言し,デートに誘い,冗談か如何かはさておき「結婚したいね」と甘い口説き文句を投射してきたのは彼のほうである.私自身,まさか男性を好きになるとも,その実自分自身が性同一障害であることも知ったこっちゃなかったのだから,まあ,「面白い人だなあ」程度のものであった.

もちろん,好意を寄せられて嫌ではないし,それが性格も顔もそこそこに良い人間であればなおのことで,私は自分でも気が付かないうちに彼に対して自己犠牲をも厭わない愛情のようなものを持ちつつあったのだろう.気がついたら,私にとって何よりも愛しい存在に彼はなっていた.

敢えて明言はしないが,彼の人生のバックグラウンドを考慮したとき,その愛着障碍じみたムーブや人を信用しきらない神経質な面はしょうがなく思えた.と同時に,自分が,いかに周りの人間に恵まれていたかと云うのを実感したのもこの時であった.自分が,彼を幸せにできたら,と真剣に悩んだ.

私がここ数ヶ月精神をすり減らしつつ気が向けば典型的な「病みツイ」を繰り返すのは内省ゆえの自己嫌悪と不安が要因だが,その実愛していた人に手が届かなくなった反動でもあるように思う.「彼が苦しんで生きているのだから私が弱いわけにはいかない」,と云う具体的な目標というか,指針と云おうか,ともかくその様な生きがいみたいなものを見事に見失ったからなのだろうか.

一度死んでみるかと,国道の大きな橋から飛び降りてみることを目論んだのだが,このままでは如何にも誤解されているような気がして踏みとどまった.恐らく,まだ彼は私が如何様な愛情を差し向けているのかをよくわかっていないだろうし,このまま死んだらそれはそれで彼の根底にある生真面目さ故の責任感のようなものを煽ってしまう結果しか見えないからであった.
(あと,案外深夜の国道は頻繁に警察がパトロールをしており,下手に止められて職質補導実家連絡とかいう事態を招くことを恐れたのもあった)


酷く悩み二日ほど寝込んだうえで,久々に別れたきりの彼と再会した際に,全てを語った.未練のないように,ただただ淡々と,説明のような講釈のような.

兎も角,君のことを誰よりも酷く愛している,君の良いところも,悪いところも,総てを見てきたうえで,そのすべてを愛している.だから,願わくば,私がどうなろうと,君には幸せであった欲しいのだ.と.

それでよかったのかもしれない.彼の生涯を,隣で支えていられる存在になれなかったことが如何にも悔しくて,残念でならないが,それは私の独り善がりにすぎないのだ.

一度、私の実家に彼が遊びにきたことがある.特に付き合ってたとか、この人のことが好きとかそう云う弁明はしていないから実際に彼に会った母や祖母は知る由もなく,随分と気に入った様だった.いまだに,祖母が「彼は元気かい?最近は会ったの?」と訊いてくるのが辛い.ただ自分の孫の素敵な友人として気にかけてくれているのだろうが,もう,私は彼に思い通りに触れることすら出来ない.

母はどうやら私が思いを寄せていることに気がついていたみたいで,「どうせなら付き合ってる時に言ってくれればよかったのに」とぼやいていた.自分の息子が性同一性障害で男性を好きになってるこの状況を見ても,ただ肯定的に受け入れることのできる肝の座り方には本当に脱帽である.

これから先は何もわからない.私は,また誰かを愛して結ばれるのかもしれないし,迎えに来るはずもない彼を慕い待ち続けることに耐え切れず「それじゃお先に」と死を選ぶかもしれない.

いずれにせよ,生きている限り彼のことを誰よりも純粋に愛して止まないのだろうし,彼の幸せをただただ願ってしまうのだろう.
でも,やっぱり,本当は隣に居たかった.愛してる人に好きだと、愛してると云って欲しかった.


一番に愛着障碍なのは私だったのかもしれない.


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?