中年の形状記憶な視線 Xデザイン学校ベーシックコース#9

それっぽいもので、ごまかす

子供の頃、書道を習っていた。
根元から半分までの毛がカチカチに固まった筆を、ずっと使っていた。
筆とは、そういうものだと思っていた。

筆本来の機能が使えないので、とめ、はらいが、お手本通りにできない。

そのうち、お手本と似た見た目で書けるような、独自技を編み出した。
自分が紛い物だということだけは、子供心に理解していた。

何年もたったある日、先生が「筆が固まってるじゃない!」とお湯でほぐしてくれた。

びっくりした。
本来の筆って、こんなにしなる毛束を使って書くものなのか。
こんなに繊細な力加減がいるものなのか。
初めて「似せたもの」ではないものが書けた。
嬉しかった。

でも、だからといって、劇的にうまくはならなかった。
数年間もごまかすための独自技をやってきたから、なかなか癖が抜けない。
本来の書き方がうまくできない時、つい、捨てたはずの独自技を持ち出して、〇をもらっていた。早く家に帰りたかったし。結局ごまかせたし。

中年になった今、こんなことを思い出すとは思わなかった。

中年の「取り繕い力」

来月のビジネスモデルアイデア発表を前に、まさにそんな状態。

昨日の浅野先生の講評。
「しょーもないアイデアじゃあないんですよ。まともすぎる。世界中ですでにやっている。わざわざトヨタの人が来て聞くまでもない内容」

脳内浅野先生botが小声で同じことを言っていたのに、なかったことにして誤魔化そうとしていた。

うちのチームのビジネスモデルアイデアは、ダメな部分を切除し、全体をそれっぽく取り繕ってきた結果、独自ポイントがほぼなくなり、笑われるような破綻はないかもしれないが、「今あるサービスのバージョンアップ」みたいな内容になった。

つまり、真ん中にあるべき自分の「気づき」がない。
細部の機能で新しさは言えるかもしれないが、それは瑣末なこと。
誰かが作った世界の改良版。

示唆的なので、ここに至る経緯を振り返る。

①真ん中の空洞

初手のつまづきを、ずっと挽回できなかった。

初手とは、
ユーザーの「あるある」を見つけること。
つくりたい未来から考えること。

両方の根底にあるのは、洞察と概念化。
特に前者がなかった。

正直にいうと、課題自体が、最後まで自分ごとにならなかった。
東京の都心に暮らしていると、全然移動に困らない。
車を運転しないので、車ユーザーの課題も他人事だ。
行きたくても行けない場所はあるけれど、「まいっか」とも思っている。

それならと、じっくり他人を洞察して「あるある」を見つけることも、結局できなかった。
やはり、一朝一夕にものの見方は変わらない。表面的な課題は見つかるけれど、浅い。
大体が「それ、自動運転タクシーで解決するよね」。

コアがないので、真ん中が空洞。
秋にはチームで話し合い、「これは最初からやり直さないとダメなやつ」と心底理解したが、同時に「最初からやり直すのは時間的に無理なので、取り繕おう」にもなった。

ただ、単純にやり直せばよかったわけでもないと思う。
自分ごとで考えられないと、また空洞のままだろう。

②視線が「今」から動けない

これは昨日の発表練習の後、先生と話していて言語化されたこと。

「つくりたい未来がないんだよ。40代くらいは、現業を見ている」
「今ある世界から考えてはいけない」

本業でやっていることは、ほぼ全て、今ある世界を伸ばす成長戦略。
しがらみも、負のアセットも、全部理解して、背負い込んで、今の事業を1%でも伸ばすことを求められる。
自動運転でいうと、レベル5を目指さずに、レベル2から3にしようと頑張るみたいな。

「つくりたい未来から考える」は、視点が未来に飛ぶこと。
頭でわかっていても、そう簡単にはできない。

仕事じゃないから、失敗してもいいのに、飛躍しない。
破綻して恥をかきたくないというプライドは厄介だ。
カチカチの筆で書いていた癖は、思ったより頑固だ。

強いインサイトを見つけられていれば、多少マシだったかもしれないが、真ん中が空洞な上、視点が今から動けない場合、「今あるサービスのバージョンアップ」にしかならないのは必然だった。

けんすう氏が、とある対談で「みんな○○な世界になったらどうなるか、思考実験してみた」という発言をしていた。
あれは、視点を未来に飛ばしているんだろうか。

意識的、かつ、日常的にやらないとダメだなこりゃ。
って書いておいて、現業で忙殺されるから、引き戻されちゃうんだろうな。
仕組みを考えよう。

③アウトプットが渋滞中

私のレベルの問題だと思うのだが、「全ての体操種目を教わって、技の知識だけはあるが、実際にできるのはまだ逆上がり」という感じ。

毎月追加される情報を頑張って咀嚼していたけれど、振り返ると、言葉以外のアウトプットがフリーズしていた。

よく浅野先生が武道に例えるけれど、体で覚えるまでにならないとすぐ抜けるだろうな。先生に逐一指導されている間はいいけれど、これじゃあ自立できない。

人を洞察して、概念化して、クライアントの強み弱みを的確に把握して、見つけたビジネスニーズとユーザーニーズを組み合わせて、儲かる仕組みを考えて、ペルソナシナリオを作って。

うん、飽和したな。

どうせすぐには身につかないのだから、絞らないとますます動けない。
てか、絞れば良かったなあ。

京都フィールドワークとか、figma講座とか、単一テーマなら次を考えやすい。
この授業を復習するにしても、ポイントを絞ろう。

④学習の満足と、練習が連動しなかった

浅野先生が、他チームの講評で「ダメだと分かっている内容で、このまま発表したら、10ヶ月間の学びがパーになりますよ」と言った時「全然パーになりませんよ?」とも思った。

大変失礼な話なのだが、発表を聞かされる方々のことを、ほぼほぼ考えていなかった。
オーディエンスが多いと聞いて、家に帰りたくなった(在宅)。

チームでやるのは別の難しさもあり、それを言い訳にして、ちょっと逃げていた。

「知識で満足したので、まだ試さなくていいです」って言ってるみたいだよなあ。
みっともなくても作り上げて、晒されるところまで、練習なのになあ。

「学んだことは別途自分なりにやる」と思っていたのだけれど、実際にはどれくらいできただろう。

クリエイティブじゃなくても

と、まるで、「諦めたらそこで試合終了ですよ」な内容ばかり書いてきたが、ちゃんと最後まで足掻きます。はい。
やっぱり取り繕ったものにしかならないとしても。

昨日の授業冒頭で浅野先生が言っていたことに、結局は話が戻る。

「日本からGoogleやAppleが出ないと言うけれど、日本人はクリエイティブが苦手。得意なことをやればいい」

後出しジャンケンみたいでとても恥ずかしいのだが、9ヶ月授業を受けて、自分の結論も同じだった。

私がよく見聞きする教育現場では、平均点を上げようとする。
ある教科で100点を取っても「次は1000点を目指そうね」とは言われず、「でも君は30点があるね? 克服しようね?」と言われる。

本人も、できることより、できないことが気になる。
得意科目で1000点取れる力があっても。

春頃、私も真面目な日本人の例に漏れず、「クリエイティブになるには」系の本を買って、どうにかしようとしていた。

いやー、向いてないものは、向いてない。
やっぱり何回やっても無理だわ。

私が明らかに向いているのは、言葉にすること。
これに「見ること」を加えて、言葉の精度を上げられるかどうか、かな。
その方向での創造性はあるかもしれないが、「つくる」とかデザインでの創造性は、ないな。

ということが、分かってよかった。
多分「40代でビジネススクールって恥ずかしいなー」と思ったまま、うじうじしていたら、得意の確信も、不得意の確信も、得られなかった。

授業最初のリフレクションで「公家がどこまで変われるか」と書いたのを思い出した。

公家だからダメなんじゃなくて、別のものにならなきゃいけないんじゃなくて。

公家って言葉で諦めたものをしっかり見て、手の中にあるものを理解して、概念化したら、そんなに自虐ばかり書かなくてもよくなる。多分。

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