つまりは鍛錬の差 Xデザイン学校ベーシックコース#6

引き出しになんもないから、当然

最近、ビジネス界隈で活躍している人を見ていると、脳の体力が違うなと思うようになった。

自分がうまくできない時、
「スキルがあれば」
「時間があれば」
「勉強すれば」
というたらればが浮かぶ。
多分それは、事実かもしれないが、原因ではない。

別途申し込んだXデザイン学校のfigma講座で、講師の倉光さんが「センスではなく鍛錬の差」と言ったとき、何かがはまった気がした。

万全の状態なんて未来永劫訪れるわけもないのが現実で。
必要に迫られた時に、近くの引き出しをサッと開けて、そこに何が入っているのか。
それは、自分が普段何を見て、何を考えているのかの結果。

何もしていないのに、都合よく何かが入っていることはない。
使えるものをせっせと普段から磨いて溜め込むことを、鍛錬と呼ぶ。
初回からずーっとその話を浅野先生はしていた。
聞いてはいても、理解できていなかった気がする。
先生が言っていた「武道」と言う表現がようやくわかってきた気がする。

今日の講座で聞いた、「リクルートの社員が、稼ぐ感覚を研ぎ澄ませるために副業でスモールビジネスをやる」という話もまさに鍛錬だなと。
大企業の社員は生存を脅かされていないので、「稼ぐ」という引き出しにロクなものが入っていない。
急に引き出しを開けても、レベル1の「木の棒」しか入っていない。

先生にダメ出しされるまでもなく、他人からいいねと言われるビジネスを考えられる力が自分にないことだけは、分かっていた。
ただ、その理由がわかる力もなかった。

人間のミラーニューロンは、情報を聞いただけではつながらない。
体験しないと機能しないのだ。

「こういうことをやると、ダメなビジネスになるからね」と事前にあらゆる釘を刺されても、その通りの失敗をしてしまう。
失敗して初めて「これがダメだって言われてたんだな」と全身で理解する。

で、1回失敗するだけでは、まだまだ全然なのだ。
波打ち際に「木の棒」で線を引いただけ、簡単に消えてしまう。
ここから本当に必要なのは、その鍛錬を自分が続けるかどうかなんだろうなあ。

人とは何かを考える鍛錬

で、鍛錬。
何をするのか。
それはそれで、明後日の方向の努力をしてしまいそうだ。

今まで、
エスノグラフィをやればいいんだな?
インタビューをやればいいんだな?
とか、授業で聞いた形式を何度もなぞることを考えていた。

それももちろん不足しているのだけれど、「とりあえずバットを振るだけの素振り」みたいな効率の悪さが漂う。
つまりは、頭の使い方の練習なのかなあと。

本業を思い返すと、何を見てもつい「こうすればコンテンツになるな」と思ってしまう。
サービスデザインに携わる人は、あらゆる情報から人のありようを考えているように見える。

この1ヶ月、宿題のブラッシュアップで上位下位関係分析をやり直した。
カードを眺めていると、つい目の前のテキストの共通項を見つけて、カードを要約した内容を書きそうになる自分がいた。

うまく「確かに」という言葉を見つけてくれるチームメンバーがいて、私と何が違うんだろう?と考えたら、その人は、カードの後ろにいる想像の人間を見て、その人の特徴を言葉にしているように見えた。

カードをカードとして眺めてしまっていたのが自分。
カードの後ろにいる人間の集合体を洞察しようとしていたのが、その方。

3回目で浅野先生が「突き詰めれば人とは何かの洞察」と言っていたことってこういうこともあるのかなあ。

前に聞いたそろばんの話も思い出した。
カードという形でプロトコルデータを外化して、物理的に眺めながら、洞察をする。
力がつけば、暗算のように脳内でできることも増えるのだろうか。

登り始めた山の全貌

思い返すと。
すごいなあと思う人を見ていると、この「人とは何か」を考え続けた積み重ねが「すごい」を形成しているように感じる。

figma講座の倉光さんは「瞬発力」という表現をしていたけれど、どんなお題が来ても引き出しから何かを取り出せるって、「どんな球が来ても初球から打てます」みたいなこと。尋常じゃない鍛錬の量ということだけはわかる。

というところまで考えて、「脳の体力が違うわ」と思うようになった。
思わず自分の虚無時間に思いを馳せる。
(いや、Twitterもソシャゲも大事なんだけど)

この講座の最初、「よし、富士山に登るぞ。大変だけど、頑張るぞ」と思っていた。
違うわ。これ、エベレストだわ。
想定体力レベルが段違い。

いうて、本業も人や社会を考えるものだったのに、今まで結構ふんわりした鍛錬をしていた気がする。
その違いを考えるのは楽しいが、そもそもXデザイン学校に通わなかったら、このふんわり具合すらわからずに生きていたのかなと思うと恐ろしい。

授業後の雑談で、50歳を過ぎて習い事をする話を先生がしていた。
惰性で仕事ができる年齢になり、そうそう怒られなくなっても、自分を成長させる環境を作るか作らないか、その差は大きい。

ちょうど今日読んだほぼ日の記事に「新しいことに挑戦する時は、カッコ悪さがお通しのようについてくる」とあって、膝を打った。

はいそれ、今のわたしー。
全然できないねー事前に言われた通りの失敗をやるねーみっともないねー。
でも、そこから学ぶ。
カッコ悪いことを経験するっていいもんだな。

向き不向きもあるし、脳の体力も個体差はあるけれど、無理ない範囲で鍛錬を頑張ろう。頂上はきっと無理だけれど、1歩でも高い場所に行けるように。

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