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これからの計画論の条件(6)科学性・合理性信仰:計画は科学というより投企である

6.科学性・合理性信仰
 「科学」とは何かという定義に入るとややこしいのですが、「計画」は「科学」であり、あるいは「科学」をめざすべきで、与条件をすべて入れて重みづけすれば「合理的な」計画が自動的に生成されるとかつては信じられていました。
 1960年代にアメリカの政策科学の分野で、費用便益や費用有効度の分析の負担の大きさ、リソースの不足、そして経済合理性だけでは政策が受け入れられないことが明らかになって、科学的・合理的決定プログラムはいったんは挫折しました。建築設計でも、初期のアレクサンダーのパタンランゲージと設計CADを組み合わせて平面の自動生成が試みられました。
 こうした計画におけるデータ決定論や自動生成論は、いまふたたび、このビッグデータの時代に脚光を浴びてきたように思います。(とくにスマートシティ関連でコンピュータ業界の人が都市計画の分野に入ってきて、無邪気なデータ決定論を売り込んできています。)
 こんなときだからこそ、「計画」とは「科学」というより、価値観とか利害がせめぎあう実社会という対象にむけての投企」(プロジェクト)であることをよりいっそう主張すべきだと思います。経済学者は、常に最大利益を得ようと行動する「ホモ・エコノミクス」を仮定して人工的な対象化を行いますが、人間の利益追求以外の欲望を数理化できないために排除するがゆえに、現実をうまく説明できないアカデミックフールとなっている。科学的であろうとする努力が経済学をかえって現実から遠ざけてきたのです。
 「そもそも都市計画は、それを決定する政治社会より『科学的』であるはずがない。」とコーリン・ロウがどこかで断言していました。
 「計画」には解決すべき「課題」があるので、課題解決のための計画は「治療」となり、治療それ自体は科学ではないし、ようは治ればいいのです。計画が科学的決定論と合理性の装いをして、一方的に実行されるとき、たぶん現実からの反発は不可避であるので、とにかくいったん「投企」してその現実の反応、変容のメカニズムの総体こそが計画なのであるという認識を持つことが大切であると思います。というわけで、以降は計画への巻き込み、参加とか、それぞれの主体について論じていくことになります。


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